セーブ&ロードを繰り返す男 #73
10月10日。
秋冷がビルの隙間を通り抜け、行き交う人々は心なしか肩をすくめている。
長谷川は、突如面談を申し入れてきた男、天呪原を待っていた。
規則正しいノックの音が、室内の静寂を叩く。
「……どうぞ、お入りください」
その声を合図に、ドアが音もなく開いた。
入室してきた青年、天呪原は丁寧に進み出ると、深く一礼した。
椅子に腰を下ろす足取りは落ち着いているが、その仕草の一つひとつには、初対面の相手に対する節度ある緊張感が、薄氷のように張り詰めていた。
「……天呪原さん、ですね」
「はい、よろしくお願いします、長谷川さん」
「では早速ですが、能力を教えていただけますか?」
天呪原は、伏せ目がちに、しかし一言一言を確かめるように話し始めた。
「僕は……時間をやり直すことができます。記憶を失うことなくセーブした地点に戻り、そこから人生を分岐させる。
……これまで、多くの職に就きました。ある時は国家を導き、ある時は市場を支配しました。……でも、それはもう、どこか遠い国の寓話のようにしか思えないんです」
(……履歴書上は新社会人になっているがね、元国家元首)
「……これまでに何回、使用しているのですか?」
「人生という単位だと七十二回分です。使用した回数は数えきれません。……幼少期はそれこそ好きなだけ何度も繰り返し使いました。
ある時、セーブするとそれ以前に戻れない事実を重く捉えてからは、セーブを封印しました。それが何百年か前の昨日です」
(……なるほど、スロットが一つだとそうなるのか。セーブとは寿命を支払うことで可能性を確定させる行為なのか)
「単刀直入にお伺いします、元国家元首。なぜ相談室に来ました? お伺いする限り、あなたなら職に困らないはずだ」
天呪原は、遥か遠くの記憶を辿るような表情をする。
「……長谷川さんが、僕にとって『羅針盤』だからです。これまで七十二回、すべて僕は長谷川さんに職業相談をいただいています。
僕の能力を評価して、新たな職業を提案してくれる。僕は、その職業を全うすることで自分を保っていたからです」
彼は、自らの両手を見つめた。
「ロードを繰り返すたび、僕は『僕』から遠ざかっていく。出来事のすべてを予知し、感情すらも効率的に処理する機械になっていく。
……普通の人が感じる、驚きや、怒りや、悲しみ。それらが、霧のように消えてしまった。
僕はもう、この世界の誰とも同じ時間を生きていない……そんな呪いのような感覚に囚われているんです」
長谷川の声は、低く、しかし確かな質量を持って響いた。
「あなたは、孤独だと。自分という存在の連続性を失い、誰とも分かり合えない絶望の淵にいると、そう仰るのですね」
「……ええ。妻だった人が別の男性と結婚している、そんな光景が当たり前のように起こるんです。僕の経験した数百年を、誰が理解してくれるというのでしょうか。
ロードしてしまえばすべて消える。親しい友人も、妻も子供も、すべて消える。誰も何も覚えていない。
僕の記憶の中にだけある、いくつもの可能性。……僕は、孤独です」
長谷川は、温かい珈琲の表面をじっと見つめてから、答えた。
「……謝罪をさせてください」
天呪原は、「慣れてますよ」と言いたげに顔を上げた。
「……シュレッダーでいきなり裁断して申し訳なかった」
天呪原は、椅子から飛び上がりそうになった。
「知らなかったとはいえ、あなたが大切に積み上げてきたはずの記録を、極めて暴力的な方法で処分してしまった」
驚愕の表情で硬直している。
まるで、数百年ぶりに人類と再会したような反応。
「……なぜだ。あなたは、さっき会ったばかりのはずだ。なのに、どうして……」
長谷川は微かに微笑み、七十三回目の既視感を視線で切り裂いた。
「いいですか、天呪原さん。あなたは孤独ではない。なぜなら、その孤独を、今、私がこうして目撃しているからです。
ロードによってどれほど世界が塗り替えられようとも、あなたが今ここで感じている『救いようのなさ』だけは、私という観測者にとっての真実だ」
天呪原の瞳に、微かな、しかし熱い湿り気が宿る。
「……あなたの生きたいように、生きなさい。頂点を極める必要も、最適解を探す必要もない。
……失敗して、傷ついて、その痛みを抱えたまま次の二十四時間を迎える。それが、人間が許された唯一の『特権』なのですから」
沈黙が部屋を支配した。
それは、何かが新しく芽吹こうとする、期待に満ちた沈黙だった。
「……長谷川さん」
天呪原が、震える声で問いかけた。
「……一つ、教えてください。あなたには、どんな能力があるのですか? なぜ、記憶も持たないはずのあなたが、僕だけが知るロードする前の世界を知っているのですか?」
長谷川は、少しだけ意外そうに目を見開き、それから短く笑った。
「正直にお答えしましょう。私には、何の能力もありません。……ただの『一般人』ですよ」
「……そんな」
「驚きましたか。ですが、これが真実だ。私は空も飛べないし、時間も戻せない。ただ、毎日ここに来て、珈琲を飲み、求職者の話を聞くだけの、どこにでもいる男だ」
長谷川は真っすぐに、天呪原を見据えた。
「ですが、天呪原さん。能力を持たないからこそ、私は相手の言葉を、文字通り『命懸け』で聞くしかない。
……あなたの想いが、あるいは前回のあなたの叫びが、何かに届いたのかもしれません。……それは超常現象ではなく、ただの『対話』の結果ですよ」
「……ふふ、あはは」
天呪原は、顔を覆って笑った。
その笑い声には、数百年分の重しが取れたような、軽やかさが混じっていた。
「……可笑しいな。僕は、自分だけが特別な怪物だと思い込んでいたのに。……そうか。あなたは、ただの人間として、僕を救ったんですね」
天呪原は椅子から立ち上がった。
その背筋は、かつての倦怠に満ちた姿勢とは違う、瑞々しい意志によって伸びていた。
「長谷川さん。やっと、やりたいことが見つかりました」
「……ほう。お聞かせいただけますか」
「僕は、何度でも繰り返して、この世界のすべてを知りたい。……今までは、効率よく目的を達成するための『手段』として世界を見ていました。
でも、そうじゃない。この世界に溢れている無数の『未知』を、一分一秒を、端から端まで味わい尽くしたい。
……それには、たった一度の人生じゃ、全然足りないんです」
長谷川は、深く、満足げに頷いた。
「ええ。それはとても……あなたの個性にふさわしい、素敵な生き方だと思います」
「そうだ、長谷川さん。もし……僕がこの世界のすべてを知り尽くして、それでもまだ答えが見つからなかったら、その時はまた、ここに来てもいいですか?」
長谷川はまだ温かい珈琲を啜り、静かに答えた。
「ええ、構いませんよ」
「……ありがとうございます。では、行ってきます」
天呪原は、朝の光の中へと、力強い足取りで歩み去っていった。
ドアが閉まる音が、一つの長い旅の終わりと、新しい日常の始まりを告げる。
一人残された長谷川は、椅子に深く背を預けた。
(七十四回目は……来るのだろうか)
彼がこの相談室のドアを叩くまでの空白の二十三時間。
記憶を保持したまま、何も変わらない朝を七十三回も繰り返してきた彼は、その時間に何を考えていたのか。
「……ん?」
ふと、長谷川の思考が、再び加速し始めた。
相談室に現れるまでの二十三時間。
それを、七十三回。
「……そうか」
長谷川は、思わず独りごちた。
23 * 73。1679。
それは、孤独な星の住人が、まだ見ぬ誰かへ向けて放った電信の総数と同じではないか。
意図したわけではないだろう。だが、積み上げられた絶望がその数値に達した瞬間に、それは単なる「ログ」であることを辞め、世界の境界を突破する「シグナル」へと変質したのだ。
(……だから、届いたわけだ。この世界の裏側に)
長谷川は、窓の外をじっと見つめた。
冬の太陽が、何もなかったかのように街の輪軌を白く縁取り続けている。
「……さて、マリア達へ報告するか」




