セーブ&ロードを繰り返す男 #72.1
10月10日。
秋冷がビルの隙間を通り抜け、行き交う人々は心なしか肩をすくめている。
長谷川は漆黒のファイルを読み進めていた。
時刻は9時10分。
突如、静寂を破るノックの音とともに扉が開く。
反射的に顔を上げた長谷川の鋭い視線が、侵入者を捉えた。
入室してきた青年は、まるで行きつけのバーにでも現れたかのような、倦怠感の滲む優雅な足取りで椅子に腰掛けた。
その瞳は深海のように光を拒み、それでいて全てを等しく見下すような、歪んだ全能感を宿していた。
「予約してないけどいいですか? 天呪原です。相談に乗って欲しくて」
(……コイツが24人目、『ロストナンバー』か。向こうから出向いてくるとはな)
長谷川は内心の動揺を押し殺し、冷徹に言葉を返した。
「……ええ。どうぞ、おかけください」
天呪原は、長谷川が言葉を継ぐよりも一瞬早く、美しく弧を描く唇を歪めた。
「『では早速ですが、能力を教えていただけますか?』……だよね、長谷川さん」
(……なんだ、この男?)
長谷川の右眉が跳ねた。
眼鏡の奥の瞳が、わずかに細められる。
「『私の台詞を先回りしましたね』……続いて、そう言うつもりだろう? 先に回答しておくよ。『セーブのスロットはたった一つ、時刻は二十三時間前』だ」
(……ほう、これがセーブ&ロードか。すでに私と会話しているということか)
長谷川は、無言で万年筆をデスクに置いた。
「……七十三回目だよ」
天呪原は、どこか楽しげに、あるいは退屈そうに告げた。
(……確かに、次は回数の確認をするだろう。だが、七十三回目だと……)
「長谷川さん、あとはこちらの書類にまとめてある。悪意はないんだ。やり取りに手間がかかるから、九回目くらいからはこうしているだけ」
天呪原がデスクに放り出したのは、一束の分厚い資料だった。
紙束がデスクにぶつかり、乾いた音を立てる。
長谷川はそれを手に取り、無表情に目を通した。
そこには、七十二通におよぶ紹介状の顛末が、狂気を感じさせるほどの密度で記録されていた。
「前回、あんたは僕に『国家指導者』なんていう無茶な提案をした。白紙に手書きの『国家指導者』。
……ははは、あれは何のジョークかと思ったけれど、傑作だったよ。登り詰めるのに二十六年」
「そこから采配を振るった十二年間は、まあ、それなりに楽しかった。でもね、結局、僕という『システム』が完璧すぎて、国民は僕を必要としなくなったんだ。
僕が作った完璧な秩序の中で、僕は真っ先に不要な部品になった。……絶望だね。愛した世界に無視されるのは。だから、戻ってきたんだ」
天呪原は身を乗り出し、死人のような熱量を瞳に宿して妖しく笑う。
その瞳の奥には、数百年を使い潰した者だけが持つ、逃れようのない「空虚」が渦巻いていた。
「その前は『クオンツ(高度計量経済学者)』。全領域のスキルを駆使して、金融市場を内部から掌握し、崩壊させてやったよ。
予測不能な事態を意図的に引き起こす『ブラック・スワン(金融危機)』を自ら演じるのは快感だったけれど、半年もすればまた、賢明な大衆たちが新しい金融システムを稼働させ始める」
「……飽き飽きしたよ。さあ、長谷川さん。次はどんな『暇つぶし』をくれるのかな?」
長谷川は、天呪原の言葉をただの雑音として処理しながら、冷徹に資料を読み進めた。
指先でページをめくるたび、この青年が積み重ねてきた膨大な「時間の残骸」が、埃のように舞い上がるのを感じる。
(……フン、厄介な男だ。だが、なるほど。回数を重ねるごとに、紹介先の難易度が上昇している)
長谷川は、静かに眼鏡を外した。
レンズを布で拭い、再び装着する。
彼には「七十二回の記憶」はない。
だが、目の前の男が、自らの能力を「全能の攻略本」と勘違いし、その結果、人生という名の物語から完全に疎外されていることは理解できた。
この男は、神になろうとして、ただの「記録媒体」に成り果てているのだ。
「……天呪原さん。君が持ってきたこれは、ただの『ゴミ』だ」
「……何だと?」
天呪原の笑みが、一瞬で凍りついた。
「今の君の言葉には、一グラムの質量もない。ただのログを再生しているに過ぎない。君は数百年を生きたと言うが、その実、一分一秒を『生きて』はいない。ただ、結果だけを摘み取っているに過ぎない」
長谷川は立ち上がり、背後の大型シュレッダーへと歩み寄った。
「ちょっと、何をするんだ――」
けたたましい裁断音が室内に響き渡る。
天呪原が数百年をかけて積み上げた、血と汗と、そして決定的な退屈の記録が、無慈悲な刃によって、ただの白い紙屑へと変わっていく。
「今の君は、正解を探しているのではない。私の『限界』を見て、すべてを諦めるための理由を探しているだけだ。
自分をこれ以上救えないと、プロの口から言ってほしいだけだ。君は、自分の全能感という名の牢獄から出たがっている」
長谷川は振り返り、その鋭い眼光で天呪原を射抜いた。
その瞳には、一人の職業相談員としての、暴力的なまでの使命感が宿っていた。
「今すぐロードしなさい。そして、もう一度このドアを叩け」
「……」
「その時は、カンペも、予習も、その卑屈な笑いも捨てろ。一人の、どこにでもいる求職者として、私と向き合え。
……私に『こいつを何とかして救いたい』と思わせてみろ。それができなければ、お前は永遠に、この七十三回目という名の袋小路から抜け出すことはできない」
天呪原は、呆然とシュレッダーの排出口から降り積もる「時間の残骸」を見つめていた。
数百年。数千回のトライ&エラー。そのすべてが、一瞬で物理的なゴミになった。
だが、彼の頬は、微かに引き攣るように笑い始めていた。
予測不能。計算外。最も渇望していた「未知なる拒絶」が、ここにはあった。
「……ハッ、最悪だよ、あんた。……本当に、最高に最悪なコンサルだね。長谷川浩一」
天呪原がロードのトリガーを引いた瞬間、椅子の上の実在感は霧散し、彼の姿は冬の光の中に溶けるように消えた。
沈黙が戻った室内で、長谷川は深く椅子に腰掛けた。
少しだけ口元を緩め、温め直したコーヒーを一口飲む。
彼は少し考えたあと、天呪原が消えた椅子の背もたれをじっと見つめた。
窓外では、冬の太陽が、何もなかったかのように街の輪郭を白く縁取り続けていた。




