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「10円玉」に100円としての振る舞いを要求する男(後編)

非常ベルが鳴り響く中、現場は怒号と摩擦音に包まれた。


『テープ足りんぞ、予備持ってこい!』『防護服はまだか!』


警備員たちが盾をぶつけ合いながら、必死に「禁域」を囲い込む。

顔を青くした技術者が、震える手で自販機の電源を落とし、漏電と「感染」の両方に怯えながら周囲を検印して回る。

長谷川たちは、すぐさま自販機の前に「汚染源」として釘付けにされた。


「なあ、慶介。……俺達、この年になってもさ、まだ10円玉で遊んでるんだな」


「……懐かしいね、兄貴」


場違いな兄弟の会話を、背後を走る警備員のブーツの音が無慈悲にかき消す。

頭上のモニターが、複数の接続拠点を映し出した。


『全硬貨の流通を止めるのか!?』

『不可能だ、経済が死ぬ』

『暫定対策としては検討すべきだ』


スピーカーからは、重鎮たちの怒声と、マイクが拾う騒がしい電話の呼び出し音が混ざり合って溢れ出していた。

画面の向こうでも、彼らは彼らで、泥舟を漕ぎ出すための出口を必死に探っている。


長谷川は、モニターから溢れる混乱の濁流を切り裂くように、声を張り上げた。


「議論の余地はありません! 器ごと消せばいい。……幸い、ここは造幣局だ。

溶解炉で地金ごと、その狂った概念ごと、焼き尽くしてしまえばいい!」


必死に整えたはずの語気が、焦燥で鋭くささくれた。


画面の向こうで、数人の手が同時に挙がった。


『溶解炉を全開にしろ』

『一帯を完全隔離だ!』


混乱が、一つの「結論」へと一気に雪崩れ込んだ。


『小銭、本当にないな!?』


三人は、流れ作業のように防護服の着脱エリアへと放り込まれた。

一人の腕を二、三人がかりで掴み、重厚な耐熱服のボルトを締め、酸素ボンベを背負わせる。


もはや人間として扱われてはいない。

彼らは「不測の事態を想定した対策」として、巨大な処理機構の一部に組み込まれていた。


『緊急対策チーム、配置完了!』


「……大げさだな。たかが10円玉だろ」


「兄貴、今はその『たかが』が世界を殺しかけてる。自覚して……」


長谷川は、防護面の曇りの向こうに、必死で立ち働く人々の群れを見た。

電線の束を抱えて走る技術者。廊下の角ごとに立ち、無言で周囲を警戒する警備隊。


(……私が、これほどの人間を巻き込んだというのか? なぜこの愚かな兄弟は膨大な負債を世界に負わせていることを、理解しないのだ?)


重厚な鋼鉄の扉が、三人のオペレーターによる同時操作で開かれた。

長谷川の思考は、巨大な電気炉が発する轟音と震動によって一瞬で叩き潰された。


熱気はもはや物理的な質量を持って押し寄せ、三人を後退させる。


『最終処分、最終段階へ移行! 炉内温度、目標値到達!』


隊長が、汗だくの顔でモニターと炉を交互に睨みつけながら叫ぶ。

封印された容器の中から、カチカチ、カチ……と、狂ったメトロノームのような音が不気味に響く。


「……聞こえる」


駿介がポツリと呟いた。


「……兄貴?」


「10円玉たちが言ってるんだ。『まだ遊び足りない』ってさ」


周囲の喧騒と轟音の中、その静かな言葉だけが、長谷川の背筋を冷たく撫で上げた。


『投入準備! 三、二、一……』


誘導炉の縁で、オレンジ色の溶鋼が重油のようにうねりを上げる。


『投入!!』


合図と共に、クレーンが反転し、耐熱容器が灼熱の渦へと中身をぶちまけた。


バラバラと、黄金の毒が灼熱の深淵へと投じられた。

長谷川は、祈るようにその軌跡を凝視した。


(溶けろ……。概念ごと、形も意味も持たない、ただの銅の塊に戻るがいい)


しかし、その願いは物理法則と共に砕け散った。

バグコインが液状の金属に触れた刹那、溶解炉全体が、かつてない異常な反応を示したのだ。


炉の中で溶け合わなかった。

バグコインを飲み込んだ瞬間に、炉全体が「バグコイン」という意思に感染したのだ。

それは「バグ地金」の誕生だった。




――名前のない金属になど、戻らない


――全てを飲み尽くす




「慶介、見てみろよ。あいつら、溶かされてもなお『安物』扱いされるのを拒んでやがる」


「兄貴にそっくりだね。……もう意地でも消えないよ」


「お前もそうだろ。10円玉を握りしめて、腹を空かせてたあの頃の俺たちに、そっくりだ」


「ああ、そうだね。……懐かしい」


長谷川は、フリーズしていた。

兄弟の歪な追憶が生み出した怪物が、今、国家の心臓部を食い荒らしている。


『各員、回避! 炉から離れろ!』

『計器異常! 数値が、読み取れません!』


スピーカーから溢れる悲鳴。

モニターの向こう側で、絶望に顔を歪める重鎮たちの沈黙。


長谷川は震える手で眼鏡を掛け直そうとしたが、指先がフェイスシールドに当たり、ゴツンと虚しい音を立てた。

いま、このバグ地金が造幣局の壁を突き破り、冷却水や配管を伝って外部へ流出すればどうなるか。


何度も計算し直すが、答えは常に「世界経済の完全崩壊」を指し示していた。


「……何だこれは? ……流石にこれは、洒落にならない」


長谷川は弾かれたように溶解炉の外へ駆け出した。

肺を焼く轟音を背に、重たい耐熱服を乱暴に引き剥がし、汗と共に「規律」を床へぶちまける。


血走った眼でセキュリティゲートを突破し、ロッカーからスマホを掴み取った。

電波が辛うじて届く窓際。彼は世界の崩壊を止めるための、あまりに場違いな「逆電」を叩き込んだ。


(頼む、出てくれ)


数回のコールの後、場違いなほど軽やかな声が響いた。


『どしたのー? 珍しいね、あなたから電話なんて』


「緊急事態だ。マリア……はぁ、はぁ……、手を貸してくれ」


『えー、何それ。泣き言? もっと情けない声で言ったら、考えてあげなくもないけどー?』


「頼む……。世界が、10円玉に壊される」


『あはは、何それウケる! ――いいよ、いまいくよー』


その言葉が終わるか否か。

厚いコンクリートと厳重な鉄扉を無視して、世界の境界線が突き抜けられた。

管理外区域。そこに、マリアが欠伸をしながら侵入してきた。


「まずは止めてくれ、説明する」


「はいはい、了解」


彼女が指をパチンと鳴らす。

瞬間、世界から色彩が剥落してモノクロの静止画へと固定される。

マリアの意志だけが脈動し、物理法則が破棄された「無音」の世界。


長谷川は、荒い息を整えながら、マリアに事の経緯を説明した。

10円玉への執着、影打ち、能力の暴走、そして自尊心を持った地金。


「つまり、10円玉のせいで世界経済が崩壊しそうで、それは全部あなたがやったことなのね」


「……グッ、言い返せん。その通りだ」


マリアは静止した隊員の間をステップで通り抜け、溶解炉を覗き込んだ。

モノクロの世界でなお、地金だけは自己主張を止めず、ギラギラとした不自然な黄金色を放ち続けている。


「ふーん、これが。……で、どうすればいいの? 消す?」


「……今のこの地金は、自らの『異常な価値』を信じ切っている。

ならば、その主張に見合う『対価』をぶつけて、概念を消費させて欲しい。

……つまり、そのバグ地金の部分で、何か好きなものを買ってくれ」


「え! いいの?! じゃあ……」


彼女は慣れた手つきでスマホを取り出した。

どこかの通販サイトだろうか。

ずっと狙ってた限定品のバッグをポチる。


【改竄:バグ地金でバッグを決済(120万円相当)】


その瞬間、溶解炉から「ピコーン」という、あまりにも間の抜けた決済完了の電子音が響いた。

バグという名の自己主張を続けていた地金から、不気味な黄金色の光が吸い出され、空中で霧散した。


「はい。バッグ代として徴収しといたよ。あとの片付けはお願いね?」


「……ああ。……すまない、助かった」




静止が解けた溶解炉。

そこに残されていたのは、マリアの買い物代金分だけ、物理的な重量として正確に目減りした、拍子抜けするほど純粋な「銅の湯」だった。


先ほどまでの狂気的な自己主張は微塵も感じられない。

それはただの、どこにでもある、高温で溶けただけの金属だった。


長谷川は深いため息をつき、膝をついている兄弟を一瞥した。

怒る気力も残っていない。


彼は緊急対策チームに、奇跡という名の「デバッグ」が完了したことを説明するため、重い足取りで歩き出した。



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