自分以外の名前がわかる女
早朝。
朝食を済ませ、長谷川は借り物のオフィスへと足を進めた。
隣を歩くのは、同じ過酷な使命を帯びた女性、マリア。
執務室に着くなり、長谷川は相談室の準備にかかった。
一方、マリアの役割は「対象者」の捜索だ。
「マリア、午後は初月の人数を確認するぞ」
長谷川が事務的に告げると、マリアは退屈そうに空中で指を弾いた。
一切の音もなく、現実の風景が鏡のように鋭くひび割れる。
砕け落ちた空間の破片は虚空へと吸い込まれ、その裂け目から「ここではないどこか」の風が吹き込んだ。
「……隠れてる連中を引っ張り出すのは、結構大変なんですけどー?」
彼女は傲然とヒールを鳴らし、その硝子細工のような裂け目へと消えていった。
業務開始。
手元の分厚いファイルを捲った。
【氏名:福山 結愛】
【能力:対象の「真名」を視認する】
「……どうぞ、お入りください」
入室してきたのは、不安げに目を細めた女性、福山結愛だった。
彼女は控えめに会釈をし、椅子の端へ腰を下ろした。
「福山さん。早速ですが、能力のご説明をいただけますか?」
福山は静かに語り始めた。
「はい。頭の上に『名前』と、何か特別な場合は『肩書き』のような文字が見えます。
ただ、裸眼で直接見ないと見えません。眼鏡越しや鏡越しでは、ただの景色になってしまうんです」
福山は力なく視線を落とした。
「……以前、ホテルのフロントで働いている時のことです。お手洗いで、右目のコンタクトを流してしまったんです。
その日、お忍びで来られた有名な方がいらして……。片目で見えたその人の頭上には……」
「『アイドル 兼 未解決殺人事件の主犯格』と書いてありました。テレビと同じ、微笑む彼の清廉潔白な姿が悍ましくなりました。
そして、警察に通報したんです。そうしたら、大問題になってしまい解雇されました。
当然ですよね、証拠も何もない、突然の言いがかりですからね……」
彼女は指先で自身の唇を覆った。
(……なるほど。本名だけでなく、その者の本質たる『肩書き』――隠し通したいと願う醜悪な罪過までも含むのか。
彼女の前では偽名は無意味、か。フフ……、ならば)
「能力を試させて頂けますか? 私の名前はどう見えますか?」
「……? はい、わかりました」
福山は困惑したように眼鏡を外した。
「な、なに、これ……」
「どうですか?」
長谷川が珍しく、声に好奇心を乗せて尋ねた。
福山の視線が何度も左右に彷徨い、そして長谷川の額まで差し掛かった瞬間。
彼女の喉から短い悲鳴が漏れた。
震える手で、逃げ出すように眼鏡をかけた。
それは「異形」に遭遇した際の、生物としての原始的な拒絶反応だった。
「……呪いや脅迫、警告の文字が幾重にも重なって、めちゃくちゃに塗り潰されていて、……名前が、見えません」
「やはりそうか」と、自嘲気味に苦笑を漏らす。
「ご心配なく。私の相方は少々、独占欲が強くてね。
他者から観測されないように隠されている。
長谷川は便宜上の名前です。……私は自分の名前が分かりません。
いずれにせよ、私はたった一人の例外だ。気にする必要はありません」
福山が荒い吐息を整えた。
「わかりました。ところで、実は、私も自分の名前が分かりません。
私は孤児で、福山は施設で名付けてもらった借り物の名です。
そして、頭の上に表示されるので、自分では見えません。
……なんだか奇遇ですね」
真名を知る能力がありながら、自らの名を知らぬ二人。
「長谷川さん、名前を知らない孤児たちに本当の名前を教えてあげる、そういう仕事はありませんか?
私の能力で孤児を救いたい。そう思って、この相談に応募したんです」
「なるほど、なぜ教えてあげたいのですか?」
「それは勿論、名前はお父さんとお母さんから最初に貰える、大切なプレゼントだからです。
私は貰えなかったから、……名前がずっとコンプレックスでした。
嘘の名前を呼ばれるだけで、自分を否定された気持ちになります。
だから、教えてあげたいです」
(随分と甘ったるい。本当にそう思っているなら、貴女の眼はそんなに濁らないはずだ)
「では、もし誰かが福山さんに真名を教えてくれたとしたら……どう思いますか?」
「……嬉しいです」
福山は机の下で、拳を固く握りしめた。
「これは私の持論ですが、精神と能力は密接に関連している。
もし、福山さんが本当に『名前を教えてあげたい』だけなら、名前だけ見えればいいはずです。
ではなぜ、名前以外に『肩書』が見えたり、そもそも自分の名前が見えないのでしょうね?」
「それは……」
「福山さん、あなたは両親のことをどう思ってますか?」
「……許せませんが、考えないことにしています」
彼女は膝の上で手を握りしめた。
「だから、自分の名前が見えないのではないですか?」
「それどういう意味ですか? 私はずっと見えなくて、それがとても辛い……。
あなたに、私の何が分かるっていうの!?」
長谷川は畳みかける。
彼女に貼り付いた薄っぺらい仮面を引き剥がすために。
「『プレゼント』を探しているのでしょうか? ……いいえ、『プレゼントを捨てた奴』を探しているのでは?」
長谷川の問いは、鋭利な刃だった。
福山の全身が震えた。
彼女が守り続けてきた「悲劇の孤児」という薄汚れたメッキが剥がれ、その下から煮え滾るような黒い泥が溢れ出す。
「親と名前、どちらが知りたいのですか? 本当に『視たい』のは、どちらだ」
沈黙。
握りしめた爪が手の平に食い込み、血が滲む。
その痛みが、偽りの善意を焼き切った。
「……アイツらです。私を名前のない『欠陥品』として放り出したクズの顔が視たい。……復讐したいです」
その瞬間、彼女の瞳から「淀み」が消えた。
代わりに宿ったのは、深淵を覗き込むような漆黒。
「ピントが合いましたね?」
彼女は一瞬動きを止めると、眼鏡を毟り取るように脱ぎ捨て、長谷川を凝視した。
露わになった瞳孔は開ききり、そこには底知れない狂気が宿っている。
「……あは。増えた。見えるわ、長谷川さん。あなたの周りに浮いている、吐き気がする『真実』の数々が。
……ふふ、これよ。この最悪な視界こそが、私の求めていた『プレゼント』だったんだ」
(主観による能力者は、その主観が尖れば能力も尖るのか。これほど純粋な殺意は久しぶりだな)
「どうしましょう? 捨てられたプレゼントを拾って孤児院で渡す仕事を紹介しましょうか?
それとも、捨てた者達を探す仕事を紹介しましょうか?
……仕事中に偶然、見つけてしまうかもしれませんね。貴女の両親を」
福山は目を見開いて告げた。
その顔には、もはや気弱な相談者の面影など微塵もなかった。
「もちろん、捨てた奴を追い詰める仕事をください」
復讐者へと変貌していた。
いや、ようやく本来の姿に戻ったのだ。
長谷川はキーボードを叩き始める。
案内するのは、特定の案件に特化している探偵事務所。
行方調査、および所在調査のエキスパートだ。
「まずは追跡の仕方を学び、それからは独立するといいでしょう。
ところで、もし両親を見つけたら、どうするのですか?」
「削除します。私が味わった地獄を、倍にして返します」
(なんだ、自分の名前なんて、初めからどうでもよかったのだ。だから見えなかった。……そういうことなら)
福山の刺す視線を受け流し、プリントアウトされた紹介状を封筒に収める。
「ありがとうございます、長谷川さん。私は能力の使い方を間違えていました。これから正しく使います」
「……名乗れたほうが、復讐は捗るのでは?」
長谷川は福山の頭上に視線を送った。
福山は、先ほどまで自分を縛っていた眼鏡を手に取り、角度を変えた。
レンズに薄く反射する自分の頭上に、浮かび上がる『文字』を捉える。
それは捨てられたプレゼントではなく、復讐の凶器。
「……ふふ、本当に『見たい』から見えるんだ。……長谷川さん。本当に、ありがとうございます。」
福山は紹介状を受け取ると、歪んだ崇拝の眼差しで長谷川を見つめ、一礼すると退室した。
その背中からは、黒い情念が陽炎のように立ち上っていた。
もうそこには捨てられたプレゼントを探す子供はいなかった。
いるのは、血に飢えた復讐鬼だった。
相談終了後。
長谷川がデスクの上に残ったファイル、漆黒の分厚い特注品を見つめる。
この歪んだ世界を「修復」するための唯一の設計図であり、同時に積み上がる膨大な負債の証跡。
かつての作者が、酔った勢いで書き散らしたとしか思えない物語。
その被害者を一人ずつ論理の檻――すなわち「適正な職場」へと再配置していく。
全てが終わった時、この壊れかけの世界は安定し、名実共に二人の物語となる。
長谷川はファイルの目次をなぞった。
指先に触れる『S級案件』の文字は、世界を論理的に破綻させる熱量を帯びた怪物たちが23名、その名を連ねている。
続く『A級案件』には因果を捻じ曲げ、不条理の毒を撒き散らす59名。
そして、使い捨ての駒として書き潰された『通常案件』、名もなき群像たち278名が、澱のように積み重なっている。
――合計360名。
この崩壊し続ける世界の余命は残り一年。
その時、虚空が不快な揺らぎを見せて引き裂かれ、マリアが帰還した。
苛立ちを隠そうともせずドレスの裾を跳ね上げ、彼女は乱暴に椅子を引く。
「最悪。……1人、見失ったわ」
「そうか。では初月は37名の着地だな。目標値は超えている、気にするな。この手の仕事は、根を詰めすぎると後が続かない」
長谷川は事務的に答え、デスクに一冊の帳面を置いた。
「さて、本題だ。先月の『家計簿』だが……マリア。いくつか説明のつかない数値がある」
マリアの視線が、わずかに泳いだ。




