「10円玉」に100円としての振る舞いを要求する男(前編)
執務室。
長谷川は、空ろになった室内を静かに見渡した。
契約は今月で満了し、退去する。
本日午後に行われる「最後」の面談は、ここではなく、出張先の造幣局で執り行われることになっていた。
(……もう、ここで面談を交わすこともないのか)
もともと持ち込んだ荷物は少なかった。
備品を運び出した後の空間は、借りた当初のような「ただの箱」へと戻りつつある。
だが一箇所だけ、修復不可能な違和感が残されていた。
場違いな、深紫のベロアソファだ。
安っぽいオフィスチェアを嫌ったマリアが、どこからか運び込ませた代物。
彼女は常にそこに深く沈み、アンティークのティーワゴンから漂う紅茶の香りを愉しんでいた。
主のいなくなったその場所だけが、今も濃密な彼女の気配を放っている。
視線を落とせば、デスクや床の随所に、消えない焦げ跡が刻まれている。
債務奴隷としての生活に馴染めず、主の悪戯に耐えかねた少女が、制御しきれぬ感情と共に漏らした火花と熱の残骸。
真っ白だった壁紙も、天井付近は度重なる火球の煙に燻され、煤けたグレーへと変色していた。
(……意外と、寂しいものだな。この歪な執務室に、これほどの愛着を抱いていたとは)
長谷川は、自嘲気味に小さく吐息をつくと、外勤の鞄を手に取り、静かに歩き出した。
造幣局。
応接室。
「失礼します」
長谷川は完璧な作法で重い木製のドアを開いた。
「ご無沙汰をしております、長谷川さん。その節は大変、お世話になりました」
部屋には、控えめなストライプのスーツを纏い、社員証を首にかけた男、若林慶介がいた。
壁に掛けられた創業当時の工場の絵画が、ここが国家の心臓部であることを無言で告げている。
部屋の隅に置かれた観葉植物の葉先さえ、規律を恐れるように微塵も動かない。
「無理を言って、申し訳ない。本日はよろしくお願いします」
長谷川は、面接官の席に座り、準備を始める。
鞄からファイルを取り出し、捲った。
【氏名:若林 慶介】
【能力:10円硬貨を5円硬貨に変換する】(犯罪)
【備考:周囲に連鎖する】
更に、ページを捲る。
【氏名:若林 駿介】
【能力:触れた「10円玉」に、100円としての振る舞いを要求する】(犯罪)
【備考:要求に応えられるかは個体差あり】
「こちらは、準備が出来ましたよ」
そう言って、長谷川は5円玉を慶介に手渡した。
まさか本当に返ってくるとは思っていなかった慶介は、不意を突かれたように目を見開いた。
「……本当に返してくれるとは……、失礼しました、保管手続きをしますね」
「ふふ、代わりに疑問を1つ答えてくれますか? なぜお二人とも10円玉に拘るのですか?」
「貧乏で玩具を買ってもらえず、兄貴とは10円玉で遊ぶことが多くて、……気付いたら能力が使えるようになってました」
「なるほど、お二人の能力が似ている理由がわかった気がします」
ふいに、ドアがノックされた。
慶介が無言で頷いた。
「……若林 駿介さん、どうぞ」
入室してきたのは、慶介と瓜二つの青年、兄の駿介だった。
応接室の格式高い雰囲気にのまれながら、席についた。
「弟からお話は伺っています、本日はよろしくお願いいたします」
「はい、よろしくお願いいたします。
ところで、便宜上、本日はお名前で呼ばせて頂きますね。
さて、駿介さん。『100円としての振る舞い』とは、具体的にどのような能力ですか?」
「10円玉に向かって『今から100円として振る舞え』と要求すると、自分が100円玉であるかのように振る舞い始めます」
「……その状態で自動販売機に入れたら、どうなりますか?」
「10円か100円として認識されます、個体差によります。
10円玉が使い古されていたり、あるいは特別な価値がある場合は簡単に100円として振る舞います。
なんなら500円玉だって、中には振る舞える個体もいます」
「お見せします」
駿介は鞄からプラスチック製の円形ケース、コインカプセルを取り出し、中身をテーブルの中央に置いた。
ただの10円玉だ。
「詳細は割愛しますが、昭和26年のこの10円玉は、古銭ショップで1,000円程度の価値があります。では行きます」
――チリン
長谷川は目をしかめた。
500円の10円玉だ。
長谷川は10円玉? を手に取り観察した。
(形状は変化していない、しかし、この指に伝わる大きさは500円玉だ。
だが、明らかに重さが500円玉だ。そして何より金属の質感が……側面のギザが、強烈に錯覚させてくる。
私の感覚に対して、『500円玉である』という偽の情報を強烈に発信しているんだ)
長谷川は慶介に10円玉? を手渡した。
(弟の通貨変造罪なんてかわいいものだ。『硬貨の概念』そのものをハッキングしているので、通貨概念偽造罪だ)
「駿介さん、慶介さん、ありがとうございます。これで私のほうの書類も形式上、十分でしょう。
ここへの紹介状をお渡しします」
長谷川は鞄から事前に用意した紹介状を取り出した。
「慶介、面と向かって話すのは、久しぶりだな」
「……そうだね、兄貴」
「その10円玉、また5円玉に出来るか? 離れてやれ、周りを巻き込むな」
慶介は兄の意図が読めなかったが、素直に従った。
席を立ち、二人から十分な距離を取った。
「……フンッ!」
(なに!? お前は造幣局の職員だろうが――)
10円玉? は穴の開いた5円玉に上書きされた。
「5円玉にしたよ」
慶介は席に戻ると、テーブルの中央に、5円玉を置いた。
駿介は5円玉を受け取ると、興味なさそうに裏表を確認して、ポケットにねじ込んだ。
「長谷川さん、失礼ですが、その紹介状をお受けするには条件があります」
「……ほう? 条件だと?」
「ええ、次の10円玉を、もし、慶介の能力で5円玉に出来たらご紹介に従います。出来なかった場合は、お断りします」
「意図が見えないな。兄弟喧嘩なら業務外にやればいい、私情を持ち込まないで頂きたいのだが?」
「逆だ、これは兄弟の問題だ、部外者は黙ってろ」
(……フン、下らない)
「……どういうことだよ、兄貴」
「覚えてるか。子供の頃、お前が俺の宝物の10円玉を5円玉にしたこと。
あの10円玉は『影打ち』と呼ばれる裏表が両方表で、裏側が左右反転している特別な10円玉だ。
俺達は貧乏だっただろ、必死で見つけたんだよ。それを売って、皆で少しでも楽が出来るようにしたかった。
だが、お前が台無しにしたな」
「……そ、そんな。どうしてだよ、なんでそんな事を隠してたんだよ。……ごめん、兄貴」
「いや、そのことはもういい。だが許せないのは、お前の能力だ」
駿介は鞄からコインカプセルを取り出すと同時に、能力を発動させた。
コインカプセルに収められた10円玉は輝く『黄金のメダル』になった。
(……ほう、コイツ、硬貨に限らないのか)
「兄貴、そ、それって……」
「ああ、『影打ち』だよ。探しても見つけられなくてね、買ったよ。
……100万円もした、2年もかかったよ。
あの時は能力を使ってなかったが、今は発動させた」
駿介がテーブルの中央に、黄金のメダルを置いた。
「やってみろ」
「わかった」
(……どうなるんだ?)
慶介は一呼吸を置いて、能力を発動させた。
「……フンッ!」
その瞬間、重厚な応接室の空気が、一瞬、悲鳴を上げたように歪んだ。
慶介の能力が発動した瞬間、テーブルの中央にあった「黄金のメダル」は、眩い光と、何かが無理やり引きちぎられるような不快な金属音を立てて変貌した。
それは一見すると、5円玉の素材である真鍮に見える。
しかし、黄金という強烈な概念が残留しており、安っぽい真鍮の黄色地金が、まるで純金であるかのようにギラギラと脂ぎった、不自然な黄金色の光沢を放っている。
中央には「穴」が開いている。
100万円の価値と純金を主張するメダルを、無理やり5円玉の規格を押し込んだため、穴の縁は内側から爆発したように捲くれ上がり、引き裂かれ、ギザギザに波打っている。
その暴力的な穴は、あたかも硬貨が流した血の涙のようだ。
「な、なんだこれは?!」
駿介が『バグコイン』を掴むと、血走った瞳で表裏を確認する。
両面共に、同じ意匠であった。
平等院鳳凰堂の中央は暴力的な穴が貫通している。
鳳凰の体は消滅し、残された屋根の瓦礫の上に、稲穂が、まるで廃墟に巣食う寄生植物のように不気味に絡みつきながら刻印されている。
「……兄貴、使ってみよう」
「慶介、わかった」
(……造幣局で職員が偽造通貨を使おうとしている)
二人は応接室を飛び出し、隣接された自動販売機に向かった。
長谷川も正気を取り戻すと、少し遅れて飛び出した。
応接室のドアに隣接する自動販売機。
駿介がバグコインを投入すると、金額の影響表示が滅茶苦茶な数値を繰り返し表示し続けた。
「計測不可能だ、だが、硬貨と判定しているから、排出されない……」
「なあ、取り出そうよ……」
「あ、ああ。そうだな」
駿介が返却レバーを捻った。
ガシャガシャガシャガシャ!!
「な!?」
返却口から溢れ出したのは、大量のバグコインの複製だった。
駿介が返却口を両手で塞ぎ、慶介が飛び散るコインを体で寄せ集める。
「兄貴、なんだよこれ! や、やばいよ! ここ造幣局だよ!!」
長谷川が慶介が取りこぼしたコインを必死に拾い集める。
「慶介、お前の能力じゃないか!? 周りを連鎖させる、だろ……」
「え、じゃあ、兄貴の能力でバグの振る舞いを要求し続けたら……」
長谷川に衝撃が走った。
「まずい! 慶介! いますぐ職員と連携してここを封鎖しろ! だが動くな!」
「もはや『感染』だ! いまコインが移動してみろ、連鎖的に広がる!
――『硬貨のパンデミック』が始まる!」




