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地上から3センチメートルだけ空を飛べる男(後編)

昼休み。


長谷川の知的好奇心は、もはや「業務」という名の防波堤を完全に決壊させていた。

彼はネクタイを少し緩め、ホワイトボードを書き殴る。


「……高橋さん、続けましょう。……では、エレベーターだ。密閉された箱の中であなたが浮上した時、昇降が始まったらどうなりますか?」


高橋は、青ざめた顔で答えた。


「やったことがあります、地獄でした……。エレベーターの上昇が止まった途端、僕は天井に放り出されたんです!

そして着地できずに、エレベーターの壁にぶつかった後、開いたドアから勢いよく飛び出しちゃいました」


(……だろうな、発射台と変わらない)


「廊下を滑走して、掃除のおばさんの掃除用具に突っ込んで、やっと止まれました。

おばさんには『あら元気ね』って言われました……。降りは、上昇より嫌な予感がします」


「素晴らしい、これは物理法則の場外乱闘だ!」


長谷川のペンが止まらない。


「では、水だ。プールや海に入った場合、君はどうなる?」


「最悪です……。僕にとっては『水上』も『地上』なんです……。

夏休みに友人達と海に行ったとき、少し格好を付けようとしたんです。

……海に潜って空を飛んでやろうとしたら、そのまま空に発射されちゃったんです! 落下しても着水できずに、そのまま水面を滑って波に連れてかれました」


長谷川は、ペンを握りしめて硬直した。


「最後は沖で海保に救助されました……。『アメンボみたいなことするな!』って、怒られたんです……」


「気体や液体の流れすら君を裏切るのか……。もはや君は、存在しているだけでニュートンを絶望させそうだな……」


長谷川は情けで高橋の肩を叩くと、高橋はスーーーッと入り口の方へゆっくりと滑って行った。

長谷川は、苦悶の表情でホワイトボードの数式を睨みつけた。


(……整理しよう)


衝撃 F は、摩擦による仕事 f = μN を通じて熱エネルギーへと散逸し、穏やかに減衰していくはずだ。

だが、高橋翔太の足元は μ = 0。

……そこには、人間の想像力が現実と擦れることすら許さない、絶対的な「自由」がある。


それはもはや自由などではない。

君はこの世界から、摩擦という名の『抱擁』を拒絶されているんだ。


磁気浮上リニア等のようなその特性が活用できるはずだ。

だが、単純に運ぶことを目的にしてしまうと、彼に運ばせたいものとは何かとなる、従ってこの考え方ではない)


長谷川の瞳に光が灯る。


(発想の転換だ、『外部からのあらゆる物理的エネルギーを受け流し、無効化する』と考える!

……その場合、生体免震プラットフォームこそ最適解……!!)


長谷川は振り返った。

壁に跳ね返る高橋が居た。


(いや、だめだった……! 高橋は人間だから強度は人間だった……!)




時刻は13:32。


長谷川の知性はついに、その「3センチメートルの地平線」の向こう側で力尽きた。

ホワイトボードの前に立ち尽くし、ネクタイは完全に解け、端正だった髪はかき乱され、その表情にはエリートとしての矜持を塗りつぶすほどの、純粋な「敗北」の色が滲んでいた。


長谷川は、椅子に座り、ゆっくりと回転させ、虚空を見つめた。

申し訳なさそうな表情の高橋が、スーーーッとゆっくり回転しながら戻ってくる。


「……高橋さん。降参です。私の負けだ」


「私はこれまで、いくつもの能力を見てきました。完璧にお手上げになった数は、ほぼありません。

……高橋さん。君の能力は……、社会という精密な歯車に組み込むには、……あまりにも、滑りすぎる」


高橋は、申し訳なさそうに浮遊を解除し、椅子に深く腰掛けた。


「……なんだか、すいません……」


「謝るのは私だ。普通の、ごく普通の仕事をしましょう。

福利厚生がしっかりしていて、残業も少なく、人間関係が良好な……そんな『普通の良い会社』だ。

事務職として働き、たまに忘年会の宴会芸で、3センチを飛行する……」


「それくらいの使い方こそ、君の個性が一番輝くのかもしれない」


長谷川は震える手で、一般企業への推薦状を作成し始めた。

それは彼にとって、プロとしての屈辱的な退却戦でもあった。

しかし、その指が止まる。


「……ただ、高橋さん。最後だ。これは私の知性の断末魔、あるいは負け惜しみだと思って聞いてほしい。……どうしても言語化しておきたいことがある」


長谷川は、ぎらついた瞳で高橋を射抜いた。


「君は飛行をすること、しないことを自由に選べる、ONとOFFのように。

だが、そのONにすることで不利益しか被らないのであれば、果たしてそれは『ON』の状態と言えるのだろうか。

……通常、私たちは『特殊な現象が起きること』をONとして、『日常の状態』をOFFとして定義する」


「だが、その2つの状態のどちらが本質的なONなのかは、それは本人の認識によるのではないだろうか」


「え、どういうことですか?」


「もしかしたら、もう一つの可能性がある。高橋さん。……君は本当は、空を飛ぶ能力者ではない……、のではないか?」


長谷川は身を乗り出し、掠れた声で続けた。


「もし君の存在そのものが、この世界の物理的なしがらみから、わずかに『独立』しているのだとしたら。

君の真の能力とは、その浮遊することではなく、自らの意志でこの世界と『同期』し、摩擦を受け入れる能力……『調和能力』なのかもしれない」


高橋は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まった。


「……僕が、自分の意志で、この地面に『触れている』……ってことですか?」


「そうです。君が『飛んでいる』と思っている3センチメートルの隙間は、君が生まれ持った『自由な余白』だ。

力を抜けば、君の存在は慣性や風という純粋な物理の流れに身を任せることになる。

……だが君は、今日まで自らの意志で地面を踏みしめることを選び、社会の中に留まってきた」


「一歩ごとに、この世界と自分を繋ぎ直しているんだ」


長谷川は丁寧に、一般企業の紹介状を高橋に差し出した。


「さあ、行きなさい、高橋さん。君がその会社で、一歩一歩、確かな摩擦を感じて歩く姿。

それこそが、君がこの世界を愛し、共に歩むことを選んだ『意志』の証明だ。

……たまの宴会芸で、世界から少しだけ『自由』になってみせるのも、悪くないだろう」


高橋は、自分の存在が「物理法則との調和」だと定義された。

何とも言えない、少しだけ誇らしいような顔をして、紹介状を掴んだ。

彼は最後、椅子から立ち上がり、自らの意志で地面を捉えた、しっかりとした足取りで部屋を出て行った。


長谷川は、壁際に追いやった重い会議机に手をかけた。

床との間に生じる鈍い摩擦音。

高橋がいれば、この音すら鳴らずに滑っていっただろう。


一つひとつの椅子を元の位置へ、数ミリのズレもないように配置し直していく。

荒れた部屋が秩序を取り戻していく過程は、彼の内側で暴走していた論理の歯車を、定位置へと収めていく作業でもあった。


最後の一脚を整え終えたとき、長谷川の呼吸はすっかり穏やかなものに戻っていた。

彼は、冷めきったコーヒーのカップを、音を立てないよう慎重にトレイの上へと戻した。


(……私も前に進まなくてはな)




異世界。


空を分かつ二つの月が、互いを見つめ合うように静止している。

星々が砂のように零れ落ちる、終わりのない静寂の世界。


マリアは、フロックコートを纏った白銀の髪の男――長谷川の背中を見つめていた。

彼は深い思案に沈むとき、決まって漆黒のレザーグローブを嵌めた手で自身の顎をなぞる。

月光に透ける白銀と、闇を切り取ったような漆黒。

その無機質なコントラストは、目を逸らせぬほどに美しかった。


思考の深淵へと沈みゆく彼が、その瞳の奥で今、何を「視て」いるのか。

それを知る術を、マリアは持たない。

初めてその背中を追ったあの日から、この距離感だけは残酷なほど不変のままだ。


彼はいつも、理性の向こう側にある「境界線」へと容易く姿を消してしまう。

彼の意識がこちら側に帰還するまで、彼女にできるのは、ただ静寂を乱さぬよう傍らに立つことだけだった。


漆黒のレザーが軋む音だけが、静寂を裂いた。

彼が振り返る。


眼鏡越しに覗くのは、かつて私が債務奴隷へと堕とされた際に見せた、凍てつく氷点下の瞳。

その瞳の鋭さに耐えかね、逃げるように上目遣いで彼を伺うことしかできない。


「……マリア。不確定要素を排除したい。

君が『偽』を提示している可能性。あるいは、君自身が自らの『故障』に気づいていない可能性だ」


もう二度と、彼からあの懐疑的な瞳を向けられたくはなかった。

決壊した感情が、大粒の涙となって頬を伝い、地面に落ちる。


その傍らで、ポチが殺気を剥き出しにし、今にも男を業火で焼却しようとしている。


「……どうしたら、いいの?」


「『権限』と『能力』を全て私に委譲しろ」


吹き抜ける風。


「……はい」


権限を剥ぎ取られた衝撃に、眩暈がして倒れそうになる。

そんな私の体を支えてくれたのは、忠実な従者だった。


(……今はもう、……貴女は自由なのよ)


「懐かしいな」


長谷川の瞳が、劇的な黄金色に輝く。

一度だけ見たことがある。

かつての『作者』から全権限を剥奪し、その存在を消滅させるまでの一瞬に見せた、神の瞳。


「心配するな。すぐに終わる」




【改竄:オブジェクト『マリア』による『物語』および『円環』の妨害履歴を照合】


――履歴なし。




男は黄金の瞳を細め、一瞬だけ、慈しむような視線を私に贈った。




【改竄:オブジェクト『マリア』の精神状態を参照】


――感情負荷率 100% (Critical)

――精神摩耗率 87% (Warning)

――魂の破損率 0% (Error-free)




漆黒のレザーが私の頬に触れ、熱い涙を拭っていく。

その指先はひどく冷たく、けれど驚くほど優しかった。




【改竄:『物語』および『円環』に干渉する特定オブジェクト数を検索】


――4名。


【改竄:特定オブジェクトの名称を照会】


――名称:参照権限なし(自分自身)

――名称:マリア・エヴァンズ

――名称:ポチ

――名称:参照権限なし




男は静かに向き直った。


すべてを理解した彼が両手を広げる姿に、私は安心を求めて飛び込んだ。

焼けるような熱が全身を走る。

彼の腕を通じて『権限』と『能力』が私の中に流れ込み、満たしていく。


「……疑って済まなかった。だが、これで確定した。

世界に干渉し続けている『何者か』が居る、24ページ目の人物だ。

恐らく、かつての作者に何かされた者だろう、私と同列の存在だ」


私は、今だに男に襲い掛かりそうな愛しい従者を、優しく宥めた。


(……もういいのよ、ポチ。彼は、私を信じてくれた)



不条理はどこまで論理で抑え込めるのか。

その限界(第16話まで)を見届けていただき、ありがとうございました。

もしこの先の『真実』に興味を持っていただけたなら、ポイントで読後感を残していただけると幸いです。


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