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地上から3センチメートルだけ空を飛べる男(前編)

執務室。


長谷川の月末は、劇的に改善された。

煩わしい経費精算のすべてを、あの哀れな債務奴隷ポチが完璧にこなしているからだ。


彼女は無言で領収書の束を差し出すと、深く一礼してその場を去ろうとした。

(……哀れだな。努力を搾取され、無力を学習させられる。まさに『構造的な支配の檻』だ)


かつての粗野な「火球使い」の面影はどこにもない。

あまりに「事務的」で「優秀」な背中を見て、思わず声が漏れた。


「君は、本当にそれでいいのか?」


債務奴隷の肩が、ビクリと震えた。

彼女は足を止め、振り返ることもなく、消え入りそうな声で答えた。


「はい。……マリア様が、私を愛してくださるから」


そう言い残して、ポチは退室した。




業務再開。


手元の分厚いファイルを捲った。


【氏名:高橋 翔太】

【能力:地上から3センチメートルだけ空を飛べる】


長谷川は不快感で顔をしかめる。

「飛ぶ」という言葉が持つ壮大なイメージを、これほど削り捨てた数字があるだろうか。


「……次の方、どうぞ。お入りください」


入室してきたのは、高橋翔太。二十代半ば。

体格のいい、どこにでもいる青年だ。

彼は緊張した面持ちでデスクの前まで歩くと、深く一礼した。


「高橋さん。能力については拝見しました。……早速ですが、見せていただけますか」


「あ、はい。失礼します」


高橋は直立したまま、軽く目を閉じた。

次の瞬間、彼の体が微かな浮遊感を伴って、音もなく持ち上がった。


長谷川は椅子から下り、膝をついてデスクの下へ視線を落とす。

高橋の足元に定規を差し込んだ。


「……正確に、30ミリメートルですね」


長谷川は定規を戻しながら、視線を高橋の顔に向けた。

高橋は答えない。


それどころか、微動だにせず、顔を真っ赤にして固まっている。


「……高橋さん?」


長谷川が気づいたのと同時に、高橋はふわりと着地し、膝に手をついて激しく呼吸した。


「はぁっ、はぁっ……すいません。呼吸すると、前後に動いちゃうので……」


長谷川は、椅子に戻ることも忘れ、凄まじい衝撃に打たれた。


「……まさか、あなたは……厳密な物理法則の中で、飛行しているのですか……? 主観ではなく」


「……主観? すいません、そういうのよくわからなくて……」


長谷川の知的好奇心が、プロフェッショナルとしての自制を軽々と上回った。


「……試してもいいですか。今度は呼吸を止めずに、そのまま飛行してもらえますか?」


「わかりました……」


高橋が再び浮遊する。


スー……。

一見、静止しているように見える。


だが、長谷川は定規の目盛りを凝視し続けた。

高橋が息を吐く。


フー……。


「……たしかに、少しずつ、しかし確実にずれている」


1分後。

高橋の立ち位置は、呼気の推力によって、1センチメートルほど後方に移動していた。


長谷川は震える指で眼鏡を直した。

いけないと思いつつも、目の前にある「摩擦係数ゼロ」という未知の個性に、抗いようのない衝動が突き上げてくる。


「……ちょっと、押してもいいですか?」


「えっ? あ、少しだけならいいですけど……、体の真ん中にしてほしいです」


長谷川は立ち上がり、高橋の胸の中央に人差し指を添えた。

そして、恐る恐る、押し出した。


「……こうなります」


高橋の体は、音もなく、一切の抵抗を感じさせることなく滑り出した。

まるで氷上のカーリングストーンのように。


だが、長谷川の指先が中心から外れたため、高橋は自身の垂直軸を中心に、ゆっくりと。

しかし一定の速度で回転しながら壁に向かって滑っていく。


「……おお、回っている……完璧な物理法則だ。空気抵抗以外の減衰要素が、存在しない……」


回転しながら壁にぶつかりそうな高橋を、長谷川は慌てて「キャッチ」して、着地させた。


「……高橋さん、すいません。物理法則に従いながら飛行するという、これほどの能力を私は見たことがありません」


「検証のため教えてください。……例えば、台風の時に飛行するとどうなりますか?」


高橋は少し遠い目をした。


「……子供の頃、台風に向かって飛行したら、そのまま隣町まで連れていかれました。

風をまともに受けて、ブレーキをかける方法がないんです……」


「看板にぶつかって足をひどく怪我をして……その時、外では二度と使ってはいけないんだとわかりました」


(自然現象による、拉致?)


長谷川は自身のこめかみを押さえ、思考の迷宮に足を踏み入れそうになるのを必死で食い止める。

暴走しそうな知的好奇心に歯止めをかける。


(摩擦がないということは、外部からのエネルギーを一切逃がすことができないということだ。

極限の『物理実験場』だ、今は仕事の時間だ)


「高橋さん、普段はどのように能力を使用していますか?」


すると高橋は急に思いつめた表情をした。


「使わないように、しています。最後に使用したのは2年前です。

……恋人を抱き抱えて空を飛ぼうとしました」


長谷川は苦悶の表情をする。


「私達は、一瞬で空中で回転し始めました。

彼女は恐怖で降りようとして、脚を骨折してしまって……」


「一生、後悔しています。アスリートになるという彼女の夢を、……私は折りました」


地面に手を垂れながら、スー……と高橋は壁に流れていった。


長谷川の思考は加速する。

この男の感傷すらノイズとして切り捨て、ホワイトボードに殴り書きを始めた。


(……主観を介さず、これほどまでに厳密に物理法則に従い飛行する能力が、かつてあっただろうか……。

能力と物理法則の境界。……そこに答えがある)


「高橋さん、もう一つ試させてください。全力でジャンプし、着地する寸前、地上3センチメートルになった瞬間に飛行を起動させるとどうなりますか?」


高橋は、処刑台に上るような顔で答えた。


「……それやると、飛んで行っちゃうんですよ……」


ゆっくりと窓際へ流されていく高橋を、長谷川がひょいと引き戻す。


「……安全を配慮します、怪我しない範囲で、見せていただけますか」




二人は急いで執務室の机や椅子など、障害物を壁に寄せた。


高橋がその場で軽く跳躍した。

滞空時間は一秒足らず。


しかし、着地の直前、地上30ミリメートルの境界線に触れた瞬間、垂直の重力エネルギーが逃げ場を失い、すべてが「水平の推進力」へと変換された。


「うわっ……!!」


高橋の体は、着地の衝撃を一切の摩擦に変換することなく、氷上を滑る弾丸のように執務室を横滑りしていく。

長谷川は反射的に身を投げ出し、激突寸前の高橋をラグビーのタックルのようにキャッチした。


二人は絡まり合うようにして、壁際でようやく静止した。


「……こう、なります。エネルギーが、消えないんです」


高橋は長谷川の腕の中で、青ざめた顔で呟いた。


「物理法則に従う一方で、3センチメートルは絶対なのですか……」


長谷川は高橋を立たせながら、脳内で一つの「希望的観測」を瞬時に演算する。

(……絶対の物理法則と超常能力、これは最強の矛と盾なのでは?)


「高橋さん、例えば、片方の足だけを浮かせて、キックボードのように地面を蹴って移動することは……?」


「……あ、それ、昔やりました」


高橋が、思い出すのも恐ろしいという風に肩を震わせる。


「いきなり滑ったように、飛行する足と着地する足で、勝手に股割りしちゃうんです……。

限界まで開いちゃって……、その時は病院に行きました」


「……そうか、矛盾してしまうのか」


長谷川は、自身のこめかみを強く押さえた。

時計が、昼休憩の始まりを告げる正午を回ったことにも気づかなかった。

針は12:03を表示している。


「高橋さん!! 面談時間を超過してしまい、本当に申し訳ない! だが、もし差し支えなければ……」


「高橋さんの能力を二人で究明させて欲しい。 いや、このまま返すわけには行かない、いいですね?」


長谷川の瞳にあるのは、未知の真理を追い求める一人の狂気的な探求者の輝きだ。



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