紙に書かれた文字を並べ替える男
百貨店。
メンズフロアの落ち着いた照明の下、彼女はネイビーのセットアップの前に立ち尽くしていた。
レディース特有の「ウエストのくびれ」や「柔らかな曲線」を徹底的に排除した、直線的なカッティング。
彼女が求めているのは、自分の骨格を潔く引き立てるその無骨さだ。
コツ、と硬いヒールの音を立ててマリアが近寄る。
「ふふ、見つけたわ。……ねえ貴女、そんな既製品で自分を誤魔化して楽しいかしら?」
女は一瞥すると、無言で立ち去ろうとした。
「……キモ」
マリアの笑顔が、ピキッと凍りついた。
「……今、なんて?」
「付いて来ないで、その情報量の多すぎる見た目。生理的に無理」
「……貴女ね。よしなさいな、そうやって安っぽく尖るのは。私は親切心で――」
「だるい。どいて、香水の匂いが移る」
赤髪の女は、マリアの肩を「ゴミでも払うように」弾いて歩き出した。
マリアの口角が、極悪令嬢のそれへと釣り上がる。
「へえ、元気がいいんだ」
逃がす筈がない。
マリアは女の手首を、逃亡を許さぬ握力で掴み取った。
「なっ……離せっ?!」
【氏名:赤城 麗香】
【能力:火球】
「ねえ、あなた。その『火花』みたいな能力で、満足してるのかしら?」
「……だったら、何よ」
「その能力の真価、教えてあげるよ。だから面談に――」
「……しつこいって言ってるでしょ」
女が静かに、能力を発動しようとした瞬間。
世界から「音」が消滅した。
マリアの右腕から溢れ出したのは、もはや熱という概念を超えた「純粋な質量」。
放たれた灼熱の閃光は、百貨店の壁を、隣のオフィスビルを、その先にある高層タワーを――バターを焼けたナイフで切り裂くように、十数棟まとめて一瞬で蒸発させた。
視界の先には、東京の空を真っ赤に染める「巨大な空洞」が横たわっている。
女が腰を抜かす暇すら与えず、マリアは優雅に指を鳴らした。
一瞬。
崩壊した景色、蒸発した人々、焼き切れた空が、ビデオを逆再生するように「何事もなかったかのように」元の平穏へと戻る。
「わかった? あなたは私が見てあげるから、来週のこの時間にここに来なさい」
マリアは、ガタガタと震える女の胸ポケットに名刺をねじ込んだ。
(S級案件、1名獲得。……ウフフ、あとこの子、気に入っちゃった)
執務室。
手元の分厚いファイルを捲った。
【氏名:伊藤 博志】
【能力:紙に書かれた文字を五十音順に並べ替える】
(……ほう。これは使い方次第で化ける能力だ)
書かれた文字を、その意味や文脈を無視して、辞書的な順番へと再配置する。
それは、高度な知性によって構築された「文章」という名の構造物を、一瞬で「素材の羅列」へと還元する行為に他ならない。
「……次の方、どうぞ」
ドアが開き、一人の男が入室してきた。伊藤 博志。
清潔感の漂う真面目そうな青年。
だがその瞳は、出口なき自らの能力に深く困惑していた。
「よろしくお願いします。伊藤です」
「伊藤さん。早速ですが、能力のご説明をいただけますか?」
伊藤は頷き、懐から一枚のメモ用紙とペンを取り出した。
彼はそこに一文を記し、長谷川の前に置いた。
『私は伊藤博志と申します。本日はよろしくお願いします。』
伊藤がその紙に指を触れる。
次の瞬間、インクの粒子が物理法則を無視して紙面を滑走した。
極小の虫が這い回るような微細な摩擦音を立てながら、文字たちは互いの結びつきを断ち切り、冷徹な秩序に従って整列し直されていく。
『。。いおくしししすすとははままよろ伊博志日本申私藤願』
伊藤は淡々と、しかし確かな自負を持って答えた。
「以上です。五十音順になっているはずです。一文字も欠けず、一文字も増えません。……紙面に触れれば、手書きでも印刷でも関係なく発動できます」
整列した文字を見つめる伊藤の目は、どこか虚ろだった。
「……ただ、並び替えた『文字』はその形状の記憶が私から消えてしまいます。
もう私には、これが何語かすら判別できません。この文字、自分の名前もまた勉強し直さなければいけません……」
知性によって紡がれた文章を壊す。
それだけでは終わらず、自分自身もその文字の記憶も壊れてしまう。
(本質的には知性を破壊する能力だな)
「それでも私は、生まれ持ったこの能力の意味を知りたい、人生を賭けてでも自分にしか出来ない仕事をしたいです。
……必死の思いで、本日は相談に伺いました」
長谷川は、再構築された文字列を凝視したまま、小さく、だが確信に満ちた声で呟いた。
「例えば、漫画など、文字以外を含む紙に対してはどうなりますか?」
「同じように五十音順に整列させることが可能です。
吹き出しの中の文字だけが、順番に入れ替わります。
文字のサイズは、移動先の吹き出しの大きさに適応して変化するようです」
「ただ、効果音などの、私が『絵』として認識している文字は移動しません」
(……主観に依存するタイプだ。彼の脳が『文字』と定義した情報だけを、物理的な束縛から解放し、再配置している。……ということは、だ)
長谷川の指が、デスクのペンを無意識に弄ぶ。
知的な興奮が彼を支配している。
「伊藤さん、取り消し線を引いた文字はどうですか?」
「取り消し線が付いたまま、正しい位置に並べられます」
「では……」
長谷川は身を乗り出し、声を一段低くした。
「完全に消去された文字は?」
伊藤の動きが止まった。
「……わかりません。考えたこともなかった。……やってみます」
伊藤は急いで手元の紙に『なたさかあ』と書き殴った。
そして、『か』の文字を、備え付けの消しゴムで力任せに、跡が消えるまで擦り落とす。
そこには、わずかな紙の毛羽立ちと、消しきれなかった筆圧の記録が残っているだけだ。
伊藤がその紙面に指を置く。
再び、インクの虫達が物理法則を無視して紙面を滑走する。
『あ さたな』
消されたはずの『か』があった場所には、透明な空白のようだが、確かな圧痕が残っている。
「なっ……」
伊藤が驚愕の表情で固まった。自分でも気づいていなかった、能力の真の仕様。
長谷川は、それを見た瞬間に椅子の背もたれへ深く体を預け、感嘆の息を漏らした。
「あなたの能力は『並べ替える能力』ではなく『知性を破壊する能力』、つまり文字や文脈という意味を消失させる力だと思っていました。
しかし、実際は違ったようだ。これは『ポストモーテム(死後解剖)』だ」
長谷川の言葉が、鋭いメスのように伊藤の能力を切り開いていく。
「あなたは、その紙が『かつて持っていた文字』という記録にアクセスし、その事実を強制的に引きずり出して整列させている。
あなたの文字という定義を満たす限り、消された過去さえも逃さない」
「……あなたは単なるシュレッダーの代わりではない。
情報の死体を解剖し、そこに何が書かれていたかを一文字も逃さずリストアップする『情報検死官』だ」
「情報、検死……」
「そうです。悪意を持って消された契約書、塗りつぶされた不正の証拠、あるいは劣化して消えた古文書の記憶。
……あなたは、それらを物理的な復元なしに、構成要素レベルで正確に並べ替える。
情報の墓場から真実を掘り起こす、それがあなたの能力です」
「……それに、検死なら、やりたい放題ですよ?」
長谷川は冷酷な瞳をした。
「もう読めないでしょうから、手伝ってあげましょう。そして能力を使って下さい」
長谷川はペンを取り、伊藤の紙に1文字を追記した。
伊藤は、震えた指で紙に触れた。
『あ さたな か』
――カサ……カササッ、グチチチッ……
『あ かさたな』
伊藤は目を見開いた。
「順番から消された文字を特定できます。同じ文字は書かれた順のようですね。
消されようが塗り潰されようが、あなたには一切通用しない。繰り返せば辿り着いてしまうからな。
あなたは文字の記憶を失い続ける代わりに、いや、いっそのことあなたは文字を読める必要さえない」
「――位置だけ特定した鑑定書を、誰かに渡せばそれでいいわけだ」
「そ、それでは、私はどうなる!? そんな使い方が出来るわけない! 失礼ではありませんか!?」
「……ほう? では先ほどの言葉は何でしたか? 人生を賭けるのでは? 自分にしか出来ない仕事をするのでは?」
「だ、だからと言って……、余りにも、酷過ぎるじゃないですか……」
「不快にさせたのであれば、申し訳ございません。
ですが、私はプロとして、あなたが求めればいくらでも冷酷になれます。
選択するのは伊藤さんですから、よく考えて下さい」
「……ッ」
長谷川は静かにキーボードを叩き始めた。
「いいですか。並べ替えられた文字は、もはや意味をなさない『死体』かもしれない。
だが、そこには『誰が、何を、どれだけ書いたか』という揺るぎない証拠が整列している。
……あなたは、世界で最も正確な情報の目録を作成できるのです」
長谷川が打ち出した紹介状の宛先には、『内閣府 特別債務徴収室』。
通称、徴収室。
長谷川は丁寧に紹介状を封筒に差し込み、封をしてデスクに置いた。
伊藤は絶望の表情のまま、封筒を凝視して固まってしまった。
(最初のあの威勢は、どこに行ったのかね)
「面接時間は残り8分です。時間になりましたら退室を頂きますので」
「……長谷川さん、教えてください、……私は、……どうしたらいいですか?」
伊藤は、涙を浮かべながら、消え入るような声で長谷川に救済を求めた。
「その紹介を受けなさい。
誰でも読める文字なんて、読めなくていい。君しか読めない『真実』を、読みなさい。
……これは人生を賭ける、価値ある仕事です」
圧倒され、伊藤は身動きひとつできない。
その様子を眺める長谷川の口角が、不気味に吊り上がった。
「これは私の持論ですが、精神と能力は密接な関係がある。
君が文字を『ポストモーテム(死後解剖)』する時、のたうつ文字列から聞こえるのは、死骸に群がる蟲の音だ。
これが正しい使い方であることは、疑いようがありません」
伊藤は力なく崩れ落ちた。
だが、その震える手には、新たな地獄への切符である紹介状が、固く握りしめられていた。
業務終了後。
伊藤との面談中、長谷川は幾度となく強烈な既視感に襲われた。
面談を終えた後、それとなく探りを入れてみたが、長谷川の抱く違和感とは対照的に、「初対面」としての反応を返すのみだった。
長谷川は、自らの思考が論理的最適解へと収束するほど、デジャヴ――あるいは世界の再構築を感知しやすくなるという仮説を立てていた。
事実、あのデタラメな異世界では発生することが無かった。
(可能性の排除が必要だ。私の『論理』がこの現象を呼び寄せているのなら、あえてそれを壊してみるべきだろう)
長谷川はマリアに連絡を済ませると、夜の街へと繰り出した。
目的も無く歩き、やがて、普段の自分なら一瞥すらしない古びた看板を見つけ、検証と称してそのオーセンティックバーに身を投じた。
カウンターでは、彼が最も忌み嫌う「不必要な社交」を広げてみせる。
スコッチのグラスを空け、次を頼もうとボトルに目を向けた、その矢先。
――まただ。
心臓を直接撫でられたような、不快な既視感が脳を焼いた。
(……ほう。確信した。これは自然発生的な『現象』ではない。明確な意志を持った、『何者かの能力』による干渉だ)
長谷川は迷わずチェックを済ませると、足早に帰宅した。
検証結果は得られた。もはや一秒たりとも、この無意味な場所に留まる理由はない。
だが、帰宅した彼を待っていたのは、世界の謎よりも凶暴で、「空腹」という根源的な欲望に支配されたマリアの怒号だった。




