賞味期限が切れそうな食べ物の断末魔を聞く巨漢
執務室。
長谷川は徴収室の報告書を確認する。
設置して以来、警察の検挙率は静かに、だが驚異的な加速度で向上していた。
この事務室が誇る「捜査能力」を鑑みれば、それは当然の帰結と言えた。
まず、佐伯が被害者の霊から直接事情聴取を行う。
「犯人の顔」や「面識の有無」といった、捜査の初動において最大の障壁となる謎が、死者との対話によって即座に瓦解する。
この時点で、事件の半分は解決したも同然だ。
続いて、久住が「ダストプロファイル」を展開する。
現場に残された微細な埃から、犯人の生活圏を抽出するのだ。
特定の土壌成分や工場の化学物質、果ては衣類の繊維まで。
地図と照合すれば、犯人の活動範囲は瞬く間に狭まる。
鮮度の高い現場であれば、文字通りの追跡すら可能だった。
そして最後は、野原が犯人に真実を吐かせてしまう。
彼の前ではもはや証拠すら不要だ。
嘘という選択肢を奪われた犯人の自供をもって、事件は完全に幕を閉じる。
久住からの報告書によれば、これほどの布陣であっても、未だ解決困難な案件は存在するらしい。
(……新たな能力者の確保は継続課題だが、ここらで徴収室の室長兼務は辞めよう)
長谷川は、優先課題に対応するべく、バッサリと室長の解任を申し出ることにした。
この組織はもう、自走する。
最優先は『円環』の完成。
続いて『既視感』の解明。
そして『24ページ目』の真相。
室長は終わりだ。
業務再開。
手元の分厚いファイルを捲った。
【氏名:川口 颯太】
【能力:賞味期限が切れそうな食べ物の断末魔が聞こえる】
(……我が家ではまず聞くことはないだろうな)
マリアはよく食べる。
残り物は出ない。
「……どうぞ、お入りください」
入室してきたのは、耳を覆うほど大きなノイズキャンセリングヘッドホンを首にかけた、顔色の悪い肥満体型の巨漢、川口だ。
まるで戦場から帰還した兵士のような、疲弊しきった瞳をしている。
「僕はもう、買い物も辛くて相談に来ました」
川口の声は掠れていた。
言葉を紡ぐ代わりに、彼はスマホを差し出した。
再生されたのは、彼が命を削って記録した「地獄」の映像だ。
閉店20分前。
蛍光灯が虚しく照らす、戦場(惣菜コーナー)。
画面が、黄色いシールを貼られた特上和牛メンチカツに寄る。
『おのれ……! 出あえ、出あえ! この私が、和牛の血を引くこの私が、よもや……、二束三文の端金で叩き売られるとはァァ…… 』
衣の奥から、脂の混じった咆哮が響く。
隣の70%引きポテトサラダは、容器の縁で震えていた。
『嫌ッ、置いていかないで! 私を連れて逃げて! 暗いゴミ箱は嫌……! まだ、まだ私、愛される資格があるからぁぁ!!』
画面に、川口の指が割り込む。
救済の指先が、ポテサラを優しく掴んだ。
『あ、ありがとう……!』
その瞬間、メンチカツの絶叫が呪詛に変わった。
『……貴様、見捨てたな。この恨み、このカツ、一生許さぬ……』
さらにカメラが、隣の半額の握り寿司へと流れる。
『ねえ、それより私を見て? 私、まだ、夢があるの。醤油の大海原で泳いでみたいの……』
川口の荒い鼻息がマイクに吹き込まれる。
……耐えきれなくなったように、震える両手が、カツと寿司をまとめて鷲掴みにした。
その衝撃で、カメラが激しく揺れて天を仰ぐ。
一瞬だけ、惣菜コーナー全体がフレームに収まった。
そこは、生き残りをかけた凄惨な地獄絵図だった。
売れ残った焼き鳥たちは串を突き立て合い、煮物が煮汁の涙を流し、全てのパックが狂ったように震えていた。
『助けてぇぇ!』『私を! 私を連れていけ!』『裏切り者ォォ!!』
罵声と懇願が渦巻く棚を、川口のカートに山積みされた「選ばれし惣菜たち」が、高みの見物をしていた。
動画は、そこで唐突に途切れた。
ギシリと悲鳴を上げる椅子の音を聞きながら、目の前の男を評価した。
「彼らを救い出す方法は、食べることだけです。
叫び声を聞くたびに、泣きながら口に押し込んできました。
そうしていたら、……こんな、醜い体になってしまいました」
川口は自らの膨らんだ腹をさすった。
(……行き場を失ったカロリーの『最終処分場』か)
「事情は把握しました。その能力について、他に何か、例えばきっかけ等はありますか?」
「初めて能力が発現した時ですかね。僕は5歳の時、母が握ったおにぎりと友達になろうとしたんです」
川口の瞳から光が消える。
「僕の家は貧乏で、誕生日だけは好きなだけ食べさせてくれました。母が『天むす』を握ってくれました。
食べちゃうのが勿体なくて部屋に持ち帰ったとき、突然、声が聞こえたんです。『誕生日、おめでとう!』と」
「それから毎日、『天むす』の声を聞くのが楽しくて仕方がありませんでした」
「でも、三日目の夜です。『天むす』が突然、苦しみ始めました」
『もうやめて! 私は、食べられるために生まれたの! このまま腐っていくのは嫌だ、怖い、うわああ……!』
「おにぎりという個体が崩壊していく断末魔です。母の愛がどろどろに溶けていく。
……愛には賞味期限があるんだと、5歳で知りました。
僕は怖くて逃げ出しました。翌朝には、もう『天むす』は喋りませんでした」
(……そうか。幼少期から能力に悩まされていたのか。
震災用の非常食プラントでの需要はあるか? まだ叫んでいないという鑑定さえ下りれば、廃棄コストは削減可能だが)
(……ん? では発酵食品は、どう叫ぶのか?)
長谷川は温くなったコーヒーを一口啜り、話題を切り替えた。
「では、チーズは?」
「彼らは……少し変わっています。叫びませんが、集中すれば聞こえます。
『……あ……身体の中に「別の自分」がいる……』みたいな声が聞こえます」
「……ワインは?」
「種類によりますが、だいたいプライドが高いですね。
『私は王の血を引く者。永遠の眠りを妨げるな』と威張るヴィンテージが多いですが、たまに『まずい、酢になってしまう』と震えているヴィンテージもいますね」
長谷川は笑みを隠し、紹介状を書き始めた。
「川口さん。世界には、一瓶で数百万円という価値を持つヴィンテージ・ワインやウイスキーが存在します。
それらは、開栓されるその瞬間まで、中の液体が『生きている』か『死んでいる』か、誰にも分からない」
「……世界中のコレクターたちが、その不確実性に怯えながら、地下貯蔵庫で祈っているんです」
「あなたは、そのボトルの外側に耳を当てるだけでいい。
もし中の精霊が沈黙を保っているなら、それは完璧な熟成だ」
「だが、もし微かでも不協和音が聞こえるなら……それは価値が暴落する前の、絶好の『飲み頃』のサインだ、それこそが君だけの鑑定能力だよ」
「ぼ、僕が……、鑑定を?」
「そうです。ロンドンやニューヨークのオークションハウスには、神の鼻を持つ連中がいるが、神の『耳』を持つのは君だけだ」
長谷川は、いくつかの紹介状を差し出した。
「動画を見た時から思っていたのですが、あれは絶望というより存在の証明に聞こえました。
『まだ役に立てるのに、なぜ見つけてくれないのか』という想いのようでした」
川口は、紹介状を両手で受け取った。
彼は今日初めて、自分の耳が「選ばれた才能」であるかのような顔をした。
「……食べなくちゃと思っていたから聞くのが辛かった、でも、存在の証明ですね。わかりました」
川口はヘッドホンをリュックに押し込むと、憑き物が落ちたような顔で立ち上がった。
「……おっと。帰る前に、川口さん。もしよければ、あと15分ほどお時間を頂けませんか?」
長谷川は不敵な笑みを湛えた。
「はい? ええ、大丈夫ですが」
「実は趣味でワインを何本か寝かせていましてね。
……私のコレクションが、今この瞬間『絶望』しているのか『歓喜』しているのか、個人的な『初鑑定』をお願いできませんか?」
業務終了後。
リビングに不釣り合いな分厚い漆黒のファイル。
世界を解体し、再構築するためのリスト。
世界の崩壊まで残り半年。
長谷川とマリアは、ささやかな祝いを始めた。
「この半年の正確な着地は、こうだ」
『S級案件 10名』
『A級案件 49名』
『通常案件 172名』
――合計 231名 (目標:195名)。
「いぇーい!!」
マリアが少し贅沢なシャンパンを景気よく開封した。
リビングには、長谷川自慢のオードブルが彩りを添えている。
「通常案件、比率がえぐ過ぎたわねー。半分以上は『令嬢と王子』。
あの作者、よっぽど婚約破棄に執着してたのね。
でも、心が折れたであろうポイントには、決まってデタラメな能力者が現れるのよね。……逃げ道だったのかも」
マリアがテリーヌを口に運ぶ。
「……確かに。能力者も何というか、人を楽しませようとした最後の足掻き、そんな純粋さが透けて見えるな」
「もともとは悪い人じゃなかったのかもね」
長谷川はナッツを齧り、思案する。
「だが……『対象が豆腐か否かを100パーセントの精度で識別する能力』。
これだけは、いかに考察しても意図が分からない。……能力者の気迫も異常だった。正直、少し焦ってしまったな」
「ふふ、ちょっとサボって覗いてたけど。……あの『豆腐の人』、貴方のこと、本気で叱ってなかった? 『あんたには芯がない』って」
(さらっと言ったな。サボってるのか)
「……色々と課題はあるが。今日は私も楽しみたい、堅苦しいことは無しだ」
長谷川は早速、シャンパンを飲み干した。
マリアに「今日は良いワインを開けよう」と提案すると、リビングの片隅にある漆黒のセラーへ向かった。
セラーの奥、24本の中から、一本の『ボルドー』を引き抜いた。
ラベルの端に貼られた付箋には、川口の丸っこい字で日付と鑑定結果が書かれていた。
『今すぐ主人の血になりたいと、軍歌を歌っています。今夜、この老兵は最高の演説をします』
「……私の『芯』になってくれると助かるんだがね」
長谷川は自嘲気味に呟き、ナイフを手に取った。
二人の祝福は、始まったばかりだ。
物語の羅針盤は、折り返し地点を通過した。
カウントダウンは、もう半分を切った。




