最後に読んだ本がわかる女
執務室。
「ねえ、佐伯さんから手紙が来てるよ?」
眠そうなマリアの声に促され、長谷川は重みのある「二重封筒」を開封する。
中から出てきた和紙の便箋には、万年筆の鋭いインク跡が刻まれていた。
(……ほう、『オンライン会議』は好まないか。ハイカラな男だな)
封を開けて便箋を開く。
長谷川は、その流麗な達筆をかいつまんで読み進める。
『おかげさまで曾孫とは睦まじく、幽世の被害者との対話や証拠の差配も、孫娘の才に助けられ順調にございます』
『久住殿のこと。彼女については、聊か難儀しております』
『あの方の持つ奔放なる力はあまりに強大で、傍におりますと、私のような隠居人は塵芥の如く巻き込まれてしまいかねません』
「どういうこと?」
「つまり、久住の能力が佐伯を『ゴミ』として吸い取ってしまう、ということだ。
以前、除菌消臭剤が堪えると言っていたから、彼女の能力の前では、そういう判定なのだろう」
掃除機に吸い取られる哀れな老紳士を想像した。
業務開始。
手元の分厚いファイルを捲った。
【氏名:三木 涼子】
【能力:最後に読んだ本がわかる】
(……ほう。一見すると地味だな)
「……次の方、どうぞ」
乾いた声に応じるようにドアが開き、三木涼子が現れた。
知的な銀縁眼鏡の奥に潜むのは、獲物を定める猛禽類のような鋭い眼光。
それでいて、湖面のようにすべてを見透かす静けさを湛えた女性だ。
入室から着席に至るまで、その動作には一切の無駄がなく、最短の動線を描いていた。
「長谷川さん。私は、自分の能力をより効率的な領域へ投資し、社会に貢献したいと考えています。
そのための適切な導きをプロの方に仰ぎたく、応募致しました。
能力自体は地味に見えるでしょうが、使い道によっては非常に価値のあるものです」
(……ふむ、実務的で真面目なタイプか)
長谷川はファイルをデスクに置き、椅子の背もたれに深く体を預けた。
「ええ、私もプロとして相応の相談をお受けします。ではまず、その能力の具体的な詳細をご説明いただけますか?」
三木は抑揚を抑えた、だが鼓膜の奥に鋭く刺さるようなトーンで言葉を継いだ。
「はい。私は、対象者が『最後に読んだ本』のタイトルや内容はもちろん――
その瞬間に抱いていた思考を、克明に読み取ることができます」
(……何? 全く話が違うじゃないか。それならいくらでも悪用ができる。……明白なプライバシーの侵害だ。今すぐ能力の使用を――)
長谷川が警戒を強めるよりも早く、三木は淡々と、しかしどこか神経質そうに続けた。
「『不機嫌な妻を笑顔にする、50の心理学的アプローチ』。……ふふ。長谷川さん、その厳しい外見に反して……失礼、少し意外でしたから」
長谷川の眼が見開かれる。
突然のマリアの対処で、最後に読んだ本の上書きを失念していた。
「第3章の『不意のプレゼントは逆効果』という一文。あなたはそれを『当然だ』と一蹴しながら、同時にどこか焦燥感に駆られて読み進めていた。
……マリアさんへのプレゼント、うまくいかなかったのですね」
三木は口元を歪め、長谷川の瞳の奥をじっと見つめている。
(……コイツ! 迂闊だった。能力そのものではなく、能力者の「格」を舐めていた――)
長谷川は素早くデスクの『会社四季報 業界地図』を掴み取り、強引に数行の文字を目に焼き付けた。
「……あら、情報を上書きなさいましたか?」
長谷川は本を掲げて吊り上がる口角を隠した。
「ええ、これ以上のプライバシー侵害は看過できませんからね」
「『迂闊だった。能力そのものではなく、能力者の「格」を舐めていた』。
……ふふっ、失礼。許可を得てから使うべきでしたね。あなたの思考は、とても読み応えがあります」
(……クク、この私をハックしようというのか。面白い)
「ですが長谷川さん。人間関係を論理だけで解決しようとするその傲慢さ。
……女性が最も嫌悪するのは、その『思考のサボり』なのですよ。
はい、私の能力説明は以上です」
長谷川は「本」という脆弱性を突かれ、精神の深部を不正に暴かれた。
「……さて、相談はいつから始まるのかしら?」
(……フン、何が相談だ。歪んだ覗き魔に相応しい行き先など、決まっている)
「失礼しました。では、あなたの能力を最も活かせる場を検討しましょう。普段はどのようにその力を使っていますか?」
「そうですね。趣味として、例えば読書会に参加し、参加者たちの思考をリアルタイムに読んでます。
覗き魔……ええ、否定はしません。でも、それを裁く法は今のところ存在しませんね」
三木は優雅に口角を上げる。
「あとは……そう、私自身も小説を書くことがあります。……ふふ、その先はご想像にお任せします」
三木の瞳の奥底に、氷のような冷徹さが宿る。
(……その通りだ、それこそがこの能力の真価。
……しかし、吐き気がするほど最低な女だな。
タイトルが分かる程度と思い込んでしまった私の甘さだな。……こんな女に覗かれるとは)
長谷川の推測通りだった。
彼女はリアルタイムで思考をハッキングする技術を持っていた。
それどころか、自ら本を執筆することで「読者」という獲物を罠にかけようとする、異常なまでの執着と悪意。
長谷川は改めて履歴書を見た。
『最後に読んだ本がわかる』などという生温い代物ではない。
「清々しいほどに、その力を使いこなしていらっしゃる」
「……うふふ。もし長谷川さんが最後に読んだのが官能小説だったりしたら、一体どんな顔をなさったかしら?
人の心を暴き、汚濁を晒すのは、最高に楽しいですよ」
「さあ、どうでしょうね」
長谷川は、超常能力者用の紹介状をデスクから取り出した。
しかし、記入を始めようとした瞬間、ピタリとペンを止めた。
(……コイツは純然たる悪意の塊だ。だが結局、それほどの能力と知性がありながら、ここへ「相談」に来ずにはいられない。
その程度の女だ。行き先は、『徴収室』……犯罪者の対策班が妥当だが、ただ紹介状を渡すのも癪だな)
「……三木さん。では、私があなたに提示する『最適解』とは何だと思いますか?」
「……あはは。私に思考を押し付けるのね、狡い人。
そうね、単純な利便性なら外交官。
特異性を活かすなら尋問官や精神科医……といったところかしら?」
「ええ、その通りです。真っすぐな結論はそうなります」
「そうね。そして真っ当な結論で満足するなら、私はわざわざここには来ない。……当然、長谷川さんは知っているはず。
私のような、異常な能力者に相応しい『特別な居場所』を」
「ええ、そうです」
「具体的には、精神操作を行う能力者が集う組織。
そこで私は、操作された被験者たちの思考をリアルタイムで覗き、事実を報告する『監査役』。
……違いますか?」
(……そうか、なるほど。……最初からそういう事だったのか)
長谷川は三木の真意を探るように、冷淡な瞳で見据えた。
三木は、長谷川の専門性を踏みにじり、主導権を握るという愉悦にどっぷりと浸っている。
「うふふ、これでは相談になりませんね。……頂けますか? その紹介状」
長谷川は少しの間を置いて、履歴書と紹介状をファイルに挟み込み、パタンと閉じた。
「……どうしました? あら、私の不遜な発言でお気を悪くされましたか?」
「いいえ。私はただ、三木さんの真意を知りたかった。……本当に、相談しに来たのですか?」
「うふふ、勿論ですわ。心から、相談に来ていますよ」
「わかりました。……信じましょう。失礼、再開します」
長谷川は再びファイルを開き、氏名と能力を読み直した。
(……私の『改竄』能力で、この女の力を捻じ曲げる。
最後に読んだ本の『タイトルだけ』がわかる無害な能力に。
発動条件は、この女が紹介状を手に取ること。……ククク、やりすぎたな、三木)
「三木さん。あなたに、特別な紹介状をお渡ししましょう」
長谷川はデスクの引き出しから、一通の黒い封筒を取り出し、差し出した。
「私の能力は、相談者が真に求める『職場を紹介する』能力です。
通常は私自身の思考で判断しますが……先ほどの私の振る舞いは、プロとして失格でした。
ですので、今回は『能力』を使用しました」
「……どうぞ」と、長谷川は受け取るよう促す。
だが、三木は動かない。
「……うふふ。やっぱり、ごめんなさい。私は嘘を吐いていました。
本当は相談なんてどうでもよくて、ただ、優秀だと評判の相談員を揶揄いに来ただけなの。
……ごめんなさいね。失礼します」
三木は立ち上がった。だが、長谷川の口角が不敵に吊り上がる。
「ククク……奇遇だな。私も嘘を吐いていたんだ。
本当は『改竄』や『職場紹介』なんて能力は持っていない。ただのハッタリだ。
……本以外でも覗けるんだろう? 私の思考を。提示された情報を疑いもせず、無防備に受け入れた……」
「それこそが、お前の言う『思考のサボり』ではないのか?」
三木が、氷を突きつけられたように言葉を失う。
「この封筒……中身は空っぽだ」
長谷川は、三木の目の前で新品の封筒を無造作に引き裂いて見せた。
「……う、嘘……私を、騙したの……?」
「それはお前だろう。驚いたよ、お前のような愚か者は初めてだ。
私をハッキングしようとした報いとしては、随分と安上がりな授業料だと思わないか?
……それでどうする? 尻尾を巻いて逃げ出すか?」
三木は一瞬、屈辱的な表情をしたが、折れたプライドを飲み込むようにして再び着席した。
「最初の質問まで戻る訳だが、能力を正確に教えて下さい」
「……『文字』を介した思考の読み取りです。思考は媒体の種別毎に記録されます。
長谷川さんの『本』の最後は先ほどの四季報……『書面』は先ほどの改竄の嘘。
……名刺や手紙など種別毎に読めますが、これ以上は……使用しません」
(……フン、だがこの能力は本物だ)
長谷川は三木の言葉を遮るようにキーボードを叩き始めた。
「社会貢献がしたいと言ったな。貴方にしか出来ない事があります。
……言葉を持たない子供たちの『心のSOS』を拾い上げる児童福祉の道に進みなさい」
「……この私に、児童福祉? それは能力に対して不足ではありませんか?」
「いいえ、逆だ。あなたにしか務まらない。
児童養護施設や、心を閉ざした子供たち。彼らは自分の苦しみや望みを言葉にする術を知らない。
だが、彼らが最後に手に取り、そっと閉じた本の『一文』には、魂の叫びが刻まれている」
「周囲の大人がいくら質問しても出てこない本音が、あなたがその子の『最後に読んだ一節』を読み取るだけで明らかになる」
長谷川は続ける。
「ある子は図鑑の『遠い星の彼方』に救いを求め、ある子は勇者の物語の『仲間の死』に自分の孤独を重ねているかもしれない。
……あなたは、心理学のどんな専門家も届かない、子供たちの心の最深部へ繋がる『唯一の架け橋』になれます」
長谷川は、特務福祉機関への推薦状を、まるで引導を渡すかのような力強さで叩き出した。
三木は困惑していた。
だが、自分の能力をハッタリだけで看破した長谷川の言葉を否定する術を、今の彼女は持っていなかった。
「……あなたが私の思考をハックした無礼は、これで不問にしましょう。 あなたが『職能』として、私の価値を証明した礼です」
三木は、自分の能力が、言葉にできない子供たちの未来を守る「希望」になると聞き、その鋭かった眼光をわずかに潤ませて深々と頭を下げた。
異世界。
この二週間、長谷川は業務終了後の全時間を、物語の世界の解析に捧げていた。
そしてついに、因縁の最終地点へと辿り着く。
「……私、ここは好きじゃないんだけどな」
珍しくマリアが悲痛な表情を隠そうともしない。
ここはかつての作者に長谷川が勝利した場所であり、同時に彼が物語から抹消された地点だ。
長谷川は自身の身体を見る。
あの時、白銀に焼かれたこの髪は、存在を削がれた痕跡そのものだ。
全ての能力を失い、消滅したあの日。
「すまないが、今日も最初から再生してくれ。……何度でもだ」
マリアは俯き、何も言わずに拳を握りしめた。
物語の登場人物が次々と召喚され、作者に抗っては消滅していく。
中身のない空虚な記号が閾値を超え、質量となって作者を圧殺した時、勝利は確定した。
だが代償として、男は道連れにされた。
すぐさま駆け寄るマリア。
そして、消滅した男を取り戻すために、彼女は「世界そのものへの復讐」を誓った。
――その「地獄」の光景が、長谷川の命令によって何度も、何度も、無機質に繰り返される。
「……かつての作者は関係ないのか? マリア、もう一度始めからだ」
マリアは、力なく従った。
かつての無力な自分と、眼の前で消滅し続ける最愛の男。
延々と掘り返されるトラウマに、彼女は今にも泣き崩れそうだった。
――そして、
「……可能性を自ら全て否定してしまったな。作者と我々以外に、この世界の権限を持つ者による干渉、とでも言うのか?」
「ねえ。もういい加減にして。おかしいよ、今のアンタ。自分の死ぬ姿を何度も見続けて、どうしてそんなに冷静でいられるの?」
「だから、その原因を究明しようと――」
【改竄:愛する人が壊れていないか精神状態が分かる】
――健康、問題なし。
「……そんな」
システムが下した判定は、非情なまでの「正常」。
狂っているのは世界か、それともこの男の心か。
マリアは、耐えきれずにその場に崩れ落ちた。




