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時速160kmで「逆走」しかできない男

執務室。


「……次の方、どうぞ」


「失礼します! 長谷川さん。 本日はよろしくお願いします」


ドアが勢いよく開き、「背中」が入ってきた。

仕立ての良いスーツを内側から弾けんばかりの、圧倒的な広背筋。


男はバックステップとは思えない滑らかな足運びで、椅子の前まで「逆走」してきた。

正面を一度も見ることなく、明後日の方向(ドアの方)へ向かって深々と、緊張して頭を下げる。


「……陣内さん。あの、逆です。こちらを向いていただけますか」


「ハッハッハ! これは失礼」


陣内が独楽こまのように鋭く反転する。

そこには、直視すれば目が潰れそうなほどの、ギラつくような太陽の笑顔があった。


(厄介なのが来たな)


デタラメな超常能力者達に最適な就職先を提案することを使命とする男。

長谷川浩一は、手元のファイルを捲った。


【氏名:陣内 勝】

【能力:時速160キロメートルで走行できる】

【備考:ただし、後退バックに限る】


(……下らないにも程がある)


「なぜ、後ろ向きに入室してきたのですか?」


「前向きに進むと吐き気がする体質でしてな。僕は常に『背後』へ向かって全力投球!

同じ方向に進む人とはずっと顔が合いますから、笑顔のコミュニケーションを大切にしてますなあ」


「そうですか。では、早速ですが能力の説明を」


長谷川が淡々と促すと、陣内は白く輝く歯を剥き出しにして笑った。


「もちろんですとも! 僕は時速160キロで走れます。いずれはF1マシンをバックで抜き去るのが夢ですなあ」


「その速度で逆走して、障害物の回避はどうしているのですか?」


「そんなもの『勘』に決まっているじゃないですか」


「……勘?」


「冗談ですよ、引っかかりましたね。ハッハッハ!」


長谷川のペンが止まった。

陣内は「やりすぎましたな」とでも言いたげな、微塵も反省していない顔で話を続けた。


「普段は運転していただいているので、安全性は完璧です」


「乗車中は後ろ向きに座っている、と?」


「ハッハッハ! 違いますよ。僕に『乗車』してもらうんです。僕を運転してもらうから、安全なんですよ!」


「は?」


「僕が座席シートを背負い、そこに客人を乗せる。

あとはよしなに、僕の尻を叩けば走り始めます。

両手で連打アクセルすれば急加速! 長押し(ブレーキ)すれば減速!」


「右の尻だけ叩けば手信号を出して右折します。ほら、安全でしょう?」


『シートベルトの着用はお忘れなく』


と、指を立てて真剣に語る陣内を、長谷川は無視した。


(……落ち着け。信号待ちの真ん前でこの笑顔の男が「直立」している想像をするな)


陣内の不条理が、長谷川の論理を轢き逃げしていく。


「乗車の話はもういいです。他には?」


「趣味の野球ですな、投手をしてましてな、こちらどうぞ」


陣内は笑顔でスマホを差し出した。


動画が再生される。

画面には、なぜかマウンドを背にして、怯える二塁走者を顔面数センチ先で睨みつける陣内が映っている。

次の瞬間、彼はマウンドに向かって爆走で逆走し、股下から剛速球を放った。


爆笑しながら崩れ落ちる打者。


――ストラィィク! バッターアウト!


沸き上がる歓声。


続いてバッターボックスに構えるのは、手慣れた様子の強打者だ。

陣内が再び二塁走者を執拗に睨みつけると、猛烈な勢いでバック走を開始し、股下から剛速球を放った。

振り向く陣内。


――カァァアン!


打球は完璧な放物線を描き、バックスクリーンへ吸い込まれる――はずだった。


しかし、画面の中の陣内は物理法則が悲鳴を上げるような加速で後退し、滞空する白球を背後のグローブで音もなく捕らえた。

再びの爆笑と、割れんばかりの喝采。

逆走する男にとって、ホームラン性の当たりは「ただの正面のフライ」に過ぎないのだ。


動画が終わる。

陣内が「のそり」と身を乗り出し、真剣な表情で付け加えた。


『でも、ピッチャーゴロだけは捕れないんです』


と、前進できないという致命的な欠陥を必死に弁明する陣内を、長谷川は静かに無視した。


(……ペースに乗せられるな、下らない)


「この前は陸上で、スタートラインで僕だけ逆向いて構えてたら、スタートの瞬間に審判に羽交い締めにされましてね。走る準備はできてたのに……」


「そこまでだ。もうスポーツの話はいいです。他には?」


「先月はサバンナへ行きましてな、動画を撮影しました、これどうぞ」


陣内は再びスマホを差し出した。

画面の中、本気で獲物を追うブチギレたチーターの目前で、購入したてのハンバーガーをウキウキで食レポしながら、爆速で逆走する陣内。


チーターはやがて自信を無くし、怯え、猫のように情けなく動かなくなってしまった。

陣内が応援しながらバーガーを差し出すが、もうその瞳からは光が消えていた。


(なるほど。……最前線で『観測』したわけか。哀れだ、チーター……)


長谷川の指が、キーボードの上で踊り始めた。


「陣内さん。一つ確認です。

吐き気がするとのことですが、無理に『前』へ進むとどうなりますか? この場で見せていただけますか」


陣内の顔から、初めて笑顔が消えた。


「……わかりました。お見せした方が早そうだ」


陣内は席を立つと、数歩下がった。

そして両拳を握りしめ、悲壮な覚悟で―― 一歩、前へ踏み出した。


「ウグッ……」


瞬間、陣内の顔から血の気が失せ、白目を剥いて崩れ落ちた。


「陣内さん、大丈夫ですか」


「ハァ……ハァ……ええ、なんとか。……こうなってしまう訳ですな。

子供の頃から、こうですから、悩んだ時期もありました」


陣内は生まれたての小鹿のように震えながら立ち上がり、とぼとぼと「後ろ向きに」歩いて席に戻った。


「でも、僕なりに真っすぐに生きたいから、……相談に来ました」


その表情には一点の曇りもない。


長谷川は陣内の真っすぐな熱量を、そのまま推薦文に込めた。


「多くは聞きません。あなたの能力は、陸上競技でも輸送手段でもない。……『超高速の対面観測』だ」


「対面……観測?」


「そうだ。例えばモータースポーツや航空科学の現場。

時速160キロで疾走する被写体を、至近距離から、真正面で、表情の機微まで捉えながら並走できるカメラマンはこの世に一人もいない」


陣内の動きが止まった。

長谷川は、紹介状を差し出した。


「サバンナのチーターを至近距離で『観測』できたのは、あなたがバックで走っていたからだ。

あなたは世界で唯一、最高速度の真実と視線を合わせ続けられる男なんだ。

……F1マシンに勝つ、と言いましたね?」


陣内は最高の笑顔で受け取った。


「あなたは世界で最も速い景色の『目撃者』に――」


「長谷川さん、ありがとうございます――」


陣内は涙を拭って一礼したまま満面の笑顔で長谷川を凝視して、猛烈なバックステップで退室していった。


嵐が去った後、長谷川は椅子に深く沈み込み、乱れた呼吸を整える。


「……不条理が過ぎる」


長谷川は深いため息をつき、陣内の履歴書の適性欄に『神業カメラマン』と書き込んだ。


(ふざけた能力だが……あの異常な映像がスポーツ界に放たれれば、数年で年俸10億は下らないだろうな)


ファイルには彼のような用途不明な能力者がびっしりと書き連ねられている。

残る空白は、まだ数百。


「あと何人、まともな『居場所』を作れば終わるのか……」



不条理はどこまで論理で抑え込めるのか、その限界を知りたくて執筆しました。

もしよろしければ、ポイントで読後感を残していただけると幸いです。

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