第3話 遺書
葬儀が終わって一週間ほどが過ぎた。
家は、少しずつ元の形に戻り始めていた。
電話はほとんど鳴らなくなり、花も少しずつ枯れ始めていた。
玄関に並んでいた黒い靴も消え、普段の家の静けさが戻ってきていた。
それでも、夫の不在だけは戻らなかった。
昼過ぎ、インターホンが鳴った。
娘が玄関へ行く。
「はい」
外から声がする。
「書留です」
娘は一瞬、戸惑った。
「お母さん」
妻が玄関に来る。
郵便配達員が言う。
「書留郵便です。こちらにご署名を」
差出人の欄を見て、妻の手が止まった。
そこには夫の名前があった。
消印の日付は、夫が亡くなる二日前だった。
妻はゆっくりとペンを取った。
受領のサインを書く。
封筒は厚くはない。
中に紙が一枚か二枚、入っているだけの重さだった。
リビングに戻る。
テーブルの上に封筒を置く。
娘が言った。
「……お父さん?」
妻は何も言わず、封を開けた。
中から一枚の便箋が出てくる。
夫の字だった。
静かな、整った字。
妻は読み始める。
私は幸せだった。
妻がいて、娘がいる。
それだけで十分だった。
娘はもう大人になる。
父としての役目は終わったと思う。
君たちの生活は計算した。
退職金、遺族年金、貯金。
生活は大丈夫だ。
失っていく未来ではなく、
私は幸せのなかで終わりたい。
妻は最後の行で手を止めた。
部屋の時計の音だけが聞こえる。
娘が言った。
「……お母さん」
妻は便箋を娘に渡した。
娘は黙って読む。
途中で目を止める。
「生活は大丈夫だ」
の行だった。
娘は少しだけ笑った。
その笑いはすぐに消えた。
「お父さん」
娘は便箋を見つめたまま言った。
「やっぱり頭いいよね」
妻は何も言わない。
娘は続けた。
「全部計算してる」
少し間があった。
娘は便箋をテーブルに置く。
そして小さく言った。
「でもさ」
妻が顔を上げる。
娘は静かに言った。
「お父さん、答えを一人で出したらだめだよ」
妻は何も言えなかった。
ただ便箋を見つめた。
そこには夫の字が残っていた。
静かな、整った字で。
部屋の窓から、夕方の光が差し込んでいた。
その日は、満ちた日だった。




