第2話 残された計算
葬儀が終わって三日目の朝、家の中はようやく静かになった。
親族も帰り、弔問客も途切れ、電話も鳴らなくなった。
それでも家の空気は、まだどこか他人の家のようだった。
妻はリビングに立ったまま、しばらく動かなかった。
娘が言った。
「お母さん」
「うん」
「……お父さんの部屋、片づけようか」
妻は少しだけ考えてからうなずいた。
「そうね」
書斎は二階の奥にあった。
夫は家で仕事をすることも多かったので、その部屋にはほとんど家族は入らなかった。
ドアを開けると、そこは生前のままだった。
机。
本棚。
書類の山。
しかし机の上は、不思議なくらい整っていた。
娘が言う。
「きれいだね」
夫は几帳面な人だったが、それでもここまで整理されているのは珍しかった。
妻は机の引き出しを開けた。
中には封筒がいくつも入っていた。
表に小さく字が書かれている。
「銀行」
「保険」
「年金」
娘が覗き込む。
「何これ」
封筒を開ける。
中には書類が入っていた。
銀行口座の一覧。
残高。
連絡先。
次の封筒。
保険証書のコピー。
契約内容。
担当窓口。
さらに別の封筒。
退職金の見込み。
遺族年金の試算。
数字が並んでいる。
きれいな字で、夫の手書きだった。
娘がぽつりと言った。
「……全部まとめてある」
妻は黙っていた。
さらに紙が出てくる。
家計の表。
生活費の試算。
娘の大学費用。
いくつかのパターン。
私立。
国立。
一人暮らしの場合。
すべて計算されていた。
娘は紙をめくりながら言った。
「お父さん……」
最後のページの端に、小さく文字があった。
『生活は大丈夫』
それだけだった。
妻はその字を見つめた。
あまりに夫らしい字だった。
娘が言う。
「これ……」
しばらく言葉を探していた。
「お父さん、全部計算してる」
妻は答えない。
娘は紙を置いた。
そして静かに言った。
「お父さん、頭いいよね」
妻はうなずいた。
娘は少し笑った。
でもその笑いはすぐ消えた。
「でもさ」
娘は紙を指で叩いた。
「これ、私たちに聞いてないよ」
部屋の中は静かだった。
机の上には数字が並んでいる。
きれいに、正確に。
まるで答えのように。
でもその答えは、
誰にも相談されていなかった。




