第1話 発見
その日は、満ちた日だった。
夕方、妻と娘が家に帰ると、玄関に夫の靴があった。
仕事の日にしては少し早い時間だったが、夫が先に帰宅していること自体は珍しくない。
ただ、玄関の向こうが暗かった。
人のいる家の暗さではない。
音もない。
妻は靴を脱ぎながら言った。
「もう帰ってるのね」
娘は鞄を肩から外しながら、廊下の奥を見た。
返事はなかった。
夫はいつも「おかえり」と言う人だった。
台所からでも、書斎からでも、必ず声をかける。
それがなかった。
娘が小さく言った。
「……お父さん?」
それでも返事はない。
妻は少しだけ首をかしげたが、特に不安は感じなかった。
ただ暗いだけだと思った。
リビングのドアを開ける。
電灯のスイッチを押す。
パチン、と音がして、部屋が明るくなった。
そして、そこに夫がいた。
天井の照明器具からロープが垂れている。
その先に、夫の体がぶら下がっていた。
足元には椅子が倒れている。
時間が止まったようだった。
妻は何も言わなかった。
娘も声を出さなかった。
ただ、三人のいるはずだった部屋に、二人が立っていた。
やがて娘が震える声で言った。
「……お母さん」
その声で妻が動いた。
「だめ」
娘の腕を掴む。
近づかせないようにする。
何かを考えていたわけではない。
ただ体がそう動いた。
妻は震える手で携帯電話を取り出した。
番号を押すのに時間がかかった。
救急車と警察が来るまでの時間は、ひどく長かった。
そして、そのあとに続いた時間は、ひどく短かった。
警察は部屋を見回した。
メモもない。
争った形跡もない。
足元には倒れた椅子。
それだけだった。
「事件性はないと思われます」
刑事が静かに言う。
夫は五十二歳だった。
借金はない。
仕事は安定していた。
健康上の問題もなかった。
妻と娘との関係も、周囲から見れば穏やかだった。
近所の人は言う。
「あのご主人が?」
会社の同僚も言う。
「信じられない」
葬儀の席でも同じ言葉が繰り返された。
「幸せそうな家庭でしたよね」
妻は何度もうなずいた。
違うと言えなかった。
それは事実だったからだ。
夫は優しい人だった。
責任感の強い人だった。
娘の進学の話もしていた。
週末には家族で外食をしていた。
いつも通りだった。
何も変わっていなかった。
だから、誰も答えを持っていなかった。
なぜ死んだのか。
葬儀が終わり、家に静けさが戻った。
夜、リビングに妻と娘が座っていた。
テーブルの上には何もない。
娘がぽつりと言った。
「お父さんさ」
妻は顔を上げる。
娘はしばらく黙ってから言った。
「なんで死んだんだろうね」
妻は答えられなかった。
ただ、部屋の天井を見上げた。
そこには、いつもと同じ照明があった。




