分岐点
人生にはターニングポイントってやつがある。
それはふとした時に現れて気付いた時には過ぎ去っていく。
そんで極稀にその瞬間に確信を持つ時がある。
ああ、これが人生の分岐点ってやつだって。
恥ずかしながら僕には小学生来の夢がある。作家になりたいって夢が。この夢を引き摺って高校生になって、一学期も半ばというところでヒビが入ってしまった。
ほら、早いと高校生で作家デビュー! なんて見掛けるわけで、そんなら僕でもーなんて小気味良い夢を見て、それが他人だったら嫉妬に狂ってしまう。少なくとも僕なら耐えきれずに叫んだりするかもしれない。
僕だって去年公募に出したんだ! 同じ賞に! ってさ。
最近デビューした作家のサイン会が近くであるもんだから、自分の才能ってやつばかりを信用できなかった僕は現役作家の知己を得れるかもなんて甘い考え一つで開催地である書店で列に並んでいた。
これが僕にとっての分岐点ってやつで、このことが僕の夢とかプライドにヒビを、なんならどでかい亀裂を入れることになった。
野枝小道。新進気鋭の作家である。去年の大手出版社の公募にて拾い上げられたミステリ小説『私の愛の形』でデビューした売れっ子である。
そう、売れっ子。なんかティービーショーとかにも出演しているらしい。若くて美人とかそんな噂を聞き及ぶから天は気まぐれに二物どころか三でも四でもくれてやるようだ。その太っ腹具合を僕にも与えてくれよと思わざるを得ない。
別に僻んではいない。僕の小説に対する原動力は少なからず世の中に対するやっかみが多分に含まれているからね。そんなことで僻んでいたら世の作家全てを全員どうにかしないといけなくなってしまう。
まだ、高校一年生。それが僕のアドバンテージってやつで、在学中に華やかにデビューしてやろうという目論見をこそ携えているから僕は歩いていけるのだ。……大学に進学してもまだ大学生だからと言いそうな自分が想像できて凄ぶる不安でもある。
さて自分のことよりも、野枝小道だ。痛快でかつ性格の悪い本を書く作家である。話の面白さは流石人気作家と言わざるをえないものの、ビターエンドというか、遅効性の毒のような本を世に生み出す作家である。
去年末に本が出て、今年の頭に二冊目。今回のサイン会はそれを祝してのもので、編集部イチオシってやつなんだろうな。というか凄いな早すぎるだろ。学生の僕でさえ一学期の期間で長編一冊ぎり書けるくらいだぞ。目を掛けられすぎていることから多分、きっと良くないことをしているに違いない。僻んでない。
羨望と妬みと嫉みに、自分もああなるんだという野心を転がしながら待つ僕はこの時逃げるべきだったのだ。理由なんてなんでもいい。鍵閉めたかな? とかガスの元栓閉めたっけなとか。
いづれ僕もこうなるのだ、なんてニヤついてた自分を殴ってやりたい。
自分の番が来て、一歩踏み出して。どれどれ偉大な若手作家先生の面を拝ませてもらいましょうかなんて手に持つ野枝小道の著作から顔を上げて。
目の前に座っていた作家先生が見知った顔だったから馬鹿みたいに僕は口をぽかんとあけて立ち竦む。
腰ほどまである黒髪はいつも以上に艶やかで、整った顔に浮かぶその表情はいつも以上につまらなそうに中空を眺めていた。口をあんぐりと開ける僕と良い勝負かもしれない。
……いや、読者の前なんだからもう少しにこやかにしてほしい。いいのかこれ。
大きなアーモンドのような目がぎょろりと僕を認めると、何度か瞬いた。
「……あら、あなた見たことがありますね。確か、そう隣のクラスの山田くん」
でしたよね? と小首を傾げる野枝小道を前に僕は目をぎゅっと瞑る。
同い年。そう同い年だ。去年受賞って、え? 中学生のうちに作家デビューってこと? 早すぎだろ。僕だって小学生の頃から作家に憧れてずっと書いてきたんだ。自分の描いた世界が読まれていることを望んで、ずっと。
どこで、どこでこんなに差がついたんだろう? 去年出してみた僕の作品は一次も通らなかったのに。なんならひっそりと小説投稿サイトに上げてる作品だって正直奮っていないのに。
批評もされず人知れず消えた僕の物語と出版されて誰もが評価する野枝小道の物語。その差が、事実が胸を締め付ける。
いつまでも口を開かない僕に野枝小道が眉根を寄せた。それでも綺麗にまとまった顔は可愛げがあって、憎たらしく思えてくる。
「……僕は栗本だよ。それに隣じゃなくて同じクラスだ」
「あら失礼、勘が外れましたか。あまり人の名前を覚えるのが得意ではなくて」
淡々と言う野枝小道は微塵も間違いを気にしていないようだ。これがプロの作家の在り方なのだろうか。確かにちょっと普通ではない。
勘で人の名前を呼ぶのか……? と訝しむ僕の手から野枝小道が本を掻っ攫った。
「まさか同級生にフアンが居るとは思いませんでしたね。折角なのでサインついでに花丸もあげましょう」
フアンて。変な発音しやがって。キャメラとでも言うのかお前は。あと、サラッと書いてるけど僕は栗本だ。田中じゃない。つーかそれさっき言ってたのとも違わない?
……ああ、くそう。うるせー心臓!
口を開いたら心臓さえ飛び出しそうで、何も言えなくて。嫌な汗だけが体から出てくるばかりだ。干上がった喉は張り付いて機能をしてくれない。ところで自分も小説を書いてて良かったら? なに、夢見てんだ僕は。ああ、くそ。頭の中を耳鳴りが駆け回って、作家の席は一つじゃないのに何故だか自分には成れないんじゃないかなんて疑いだす自分がいる。
「さ、書きましたよ」
心と体の均衡を失ってぱくぱく口を開くだけの僕に、小首を傾げた野枝小道がぼそりと「さあ、お退きなさい。私はあなただけの野枝小道ではありませんよ」と言うのを聞いて、金縛りにあったような体がやっと動き出す。盛大に騒ぐ心は未だ煩くてよたよたとその場を離れる。
ふらふらと歩く僕に後ろから声が掛けられた気もするがそれどころじゃなかった。自分のことで手一杯だ。構うなら後にしてほしい。
知った事実を噛み締めれば噛み締めるほど、足元が覚束なくなっていく感覚に襲われ動悸だって苦しくなってくる。
同級生に先を越されていた。それも中学の頃に。しかも、二冊目まで出している。出すんだっけ? いや、どうでもいい。ただその事実が嫌な単語を思い浮かばせる。
自分と彼女。そこにある差が掛けた時間とか情熱に関わらないのならそれはきっと。
「……才能」
ぽつりと口をついて出た言葉に目の前が真っ暗になるような錯覚を覚える。
それでも才能ってやつに負けたんだと思わなきゃ、自分が何処に立てばいいのかも分からない。ぐらぐらと世界が揺れて、立ってられないほど嫉妬して悔しくて。僕は、努力型作家なんだ。遅咲きなんだよ。早きゃいいってもんじゃない。人には人のペースとかそういう──
「はは、何に言い訳してんだ僕は」
ろくに口も開けなかった。情けなすぎて泣けてくる。野枝小道もさぞ不思議だったろう。サインを貰いにきた同級生が何も言わずにサインを貰うだけ貰ってほとんど口も聞かずに去っていったのだから。
気づけば僕は一人ベンチに座っていた。道の真ん中でしゃがみ込みたいのを堪え、よく頑張ったとさえ思う。
「あーくそう。なんで、お前なんだよ」
同級生で、新進気鋭の作家で……彼女は僕の初恋の人でもあったから僕の感情はめちゃくちゃだった。ずっと好きで、だのに今その才能に嫉妬して憎くさえ感じている。
深いため息を吐いて、僕は手に持った本に目を落とそうとして気づく。
「あっ、本受け取ってない……」
途端に明日が来なければいいのにと思う。週明けの月曜日、僕はどんな顔で彼女に会えばいいのだろう?
サイン会なんて、行こうと思うんじゃなかった。
これはきっと僕にとって間違いなく人生最大のターニングポイントで、知らなければよかったを知った僕は作家になりたい夢を先に叶えた同級生を羨まずにいられない。妬まずにはいられない。だったら書くしかないのだと分かりながらも苦しい気持ちは胸の中に居座り続けることだろう。吸って吐きだした息とともに鬱屈とした気持ちがなくなりますようにと祈りながら小説を僕は書くのだ。




