第三章 動乱の幕開け(1)
帝国軍が国境に現れたとの急報がハーラント公の元に届いたのは、ゲネブ山脈から冬の訪れを告げる冷たい風が吹きおろし始めた頃だった。公爵が対策を練る暇もなく、現れた軍勢は瞬く間に国境の守備隊を突破し、領内へとなだれ込んできた。
帝国軍を率いるハルディアは、十二神の一人・戦神タイタニスの子孫と言われるニヴァナ家出身の女将軍であった。その容姿は美貌で知られていたが、その顔は常に冷徹な無表情を貫いていた。戦場に出れば、戦神の末裔に相応しい鮮烈な勝利を重ねてきた。そしてこの女傑は、皇帝の后という顔も持ち合わせていた。
ハルディアは馬上で指揮を執りながら軍を進めつつ、伝令からの戦況報告を聞いていた。それによると、国境沿いのいくつかの村落は、すでにシュナイデル伯爵率いる一隊によって制圧されたとのことであった。
伯爵は功に逸っていた。帝国軍がこれほど素早く公国領内へ侵入できたのは、彼の手引きがあったからだ。すべては、公爵家を追い落として自分がハーラントの新たな領主となるための企てだった。両国の戦力差は比べるべくもない。間違いなく、この戦でハーラントは帝国に飲みこまれるだろう。その後、この国の新たな領主として皇帝に認めてもらうためには、なんとしてもこの度の戦で目立った戦功を挙げなければならなかった。
彼には、祖国を裏切ることに対する呵責の念などは、微塵も持ち合わせてはいなかった。もともとハーラント公は気に食わないと思っていたのだ。自分の従兄弟でありながら、宗家であるという理由だけで公爵位を継いで領主となった男だ。自分と違ってすべてが約束されていた。そんな男がいつまでものさばっていることに我慢ができなかった。
伯爵は公爵より10も若かったが、その顔は卑屈に歪み、双眸は落ち窪んで常に嫉妬の炎をゆらめかせていたので、実際よりずっと老け込んで見えた。今、その炎は、鬱屈した野心を得て、激しく燃え上がっていたのである。
伯爵の部隊は、明らかに前へ出過ぎていた。しかしその報告も、総司令官は眉ひとつ動かすことなく聞き流しているようだった。
伯爵の浅い腹の内など、最初からすべて見透している。ある程度勝手な動きをすることも予想できていた。仮に奴の部隊が敵の先遣隊と交戦になり犠牲が出ようが、本隊への被害が避けられるのなら喜ばしいことだ。奴が討ち取られるようなことになったとしても、労せず煩わしい者が片付くだけのことだ。
ハルディアには、さほど興味のないことだった。