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ノアの終焉  作者: 齋藤昴
第1部
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第二章 カレンツァ帝国(2)

 皇帝の宮殿は、帝都の中心にあった。

 そこは他のどの建物よりも際立って雄壮で、気品高く、威厳があった。

 正面の鉄門をくぐり抜けると広大な中庭に出る。そこは皇帝が自らの言葉で市民へ語りかけるための広場である。宮殿の上階から突き出たバルコニーが、集まった者たちが帝王を仰ぎ見る舞台となっていた。

 宮殿の内部に入ることができれば、より一層この国の技術の高さを知ることができるだろう。

 当世の建築技術の粋を集めて築かれた宮殿は、細部にいたるまで優美に、荘厳に造られていた。回廊の床石は滑らかに磨き上げられ、吹き抜けを通して天窓からの光が降り注ぐようになっている。巨大な柱を仰ぎ見れば、神話を象った数々の彫刻を目にすることができた。

 この宮殿は、他の建造物を圧倒する存在感の中に、厳かな静謐さをも備えているのであった。

 回廊を進んだ先には、皇帝へ謁見するための大広間があった。

 玉座の背後には大きな切子硝子の明り窓が設えられ、空間全体を一層荘厳にしている。

 今はちょうど、陽光が色とりどりの硝子を透かして、玉座に座るものの背を輝かせていた。

 その、玉座に座っている者こそ、この大帝国の支配者たる皇帝・カルタスであった。

 彼は肘掛けに頬杖をつきながら悠然とこの帝王の椅子に身を預けていた。若く、生命力に溢れる、太陽のような支配者。その顔は、回廊の彫像にも劣らぬ美しさが宿っている。

 彼は今、隣国から訪れた使者を目の前にして、その言葉を聞いているところだった。その顔は穏やかで、微かに微笑んでいるようにも見える。しかし、青く澄んだ瞳の奥には、何を考えているか窺うことができない底知れなさも感じられた。

 皇帝の前に跪いているのは、ハーラント公国の有力貴族の一人で、公爵の甥にあたるシュナイデル伯爵が遣わした使者だった。

 彼は今まさに、ハーラント公が、如何に狡猾で大それた野望を抱き、油断のならない男であるかを熱弁しているところだった。

「かの公爵は、慈悲深い好好爺を装いながら、奴隷どもへ手を差し伸べているかのように振る舞っておりますが、しかしてその真の目論みは、秘密裏に反乱者どもの後ろ楯となりて帝国内の混乱を扇動し、この国を瓦解せしめんとするものなのです。畏れ多くもあの男は、表向きは皇帝陛下へ臣従を誓いながら、腹の底では隙あらば領地を切り取り、私腹を肥やさんと企んでいる不届き者なのです!」

 使者は、渾身の口上を述べつつ、皇帝の表情を窺っていた。

 皇帝は相変わらず穏やかに微笑んでいるだけだ。その顔からは、少しも感情を読み取ることはできない。

 使者は、心中に渦巻き始めた困惑と、猜疑と、焦燥を振り払うため、より一層力を込めて訴えた。

「我が主は、この恐るべき企みを看過するべからずと思し召し、義は帝国にありと確信するに至り、包まず陛下へ申し上げるべきと仰せられたのです。不義不忠なるはハーラント公にございます。どうか、公正なるご処分をお願い申し上げます!」

 最後の言葉は、深々と頭を下げるのと同時に述べられた。

 広間に反響する声が消え、再び静寂が戻ってきた。しばしの間を置き、長く息を吐いた後に、皇帝が言葉を発した。

「ご苦労だった。返答は追って伝える。下がってよいぞ」

 その言葉を聞いて、すぐさま皇帝の脇に控えていた男が使者の前に進み出てきた。壮年の男で、精強そうな体躯に肩章のついた立派な衣服を身に纏っている。

 宰相らしきその男は、落ち着いた声で、使者に告げた。

「遠路ご苦労であった。今日のところは体を休め、旅の疲れを癒すがよい。返答は一両日中に伝えられるものと心得よ」

「はっ!」

 使者は安堵の表情を浮かべ、広間から下がっていった。それを見届けると、宰相は皇帝へ向き直り、主へ問いかけた。

「今の話は、誠でしょうか?」

 皇帝は、表情を変えぬまま答えた。

「嘘であろうな」

 ハーラント公からは、数日前に既に書簡が届いていた。

 彼は、事態の事細かな様子をすべて報告してきていた。また、奴隷たちを拒み続ければ不満が暴発しかねず、帝国の反乱者たちと合流し両国に被害を及ぼす恐れもあることから、やむを得ず彼らを公国に留めることを許してほしい、との陳情が、彼らしい礼節を持った文面で記されていた。

 密偵からもほぼ同様の報告がなされていた。伯爵の言うような邪悪な企ては、荒唐無稽と言う他なかった。

「主を蹴落とし、己が家督を手に入れるための方便だろう。うまく争いの火種を煽り、帝国を担ぎ出そうという魂胆であろうな」

「けしからんことです」

 宰相は嫌悪感を露にして言った。

「然らば、捨て置くのがよろしいかと。そんなものより、領内の反乱者どもへの対応が先決と思われます」

 反乱奴隷たちの不穏な動きについては、元老院議員をはじめ多くの貴族たちから対応を急ぐべきとの声が上がってきている。臣従しているとは言え他国の内輪揉めにかかずらっている余裕はない。宰相には、当然のことと思われた。

 だが、皇帝の考えは違った。

「ラケロよ」

 不意に名を呼ばれ、宰相はハッとして皇帝に向き直った。

 皇帝の顔は相変わらず微笑を浮かべてはいるものの、先程より眼の色の深みが増したように思われる。

「彼奴らは、奴隷どもは、何と吹聴しているか、聞いたであろうか」

 決して大きくはないが、よく通る声だった。

「あ奴らは、『天の意思』のみに従う、と言っているそうだ。『天』とは、大地を覆う全て、この世の生あるもの、生を持たぬもの、その全てを、一つの理で治めている、巨大な存在・・・だそうだ」

「そ、それはつまり…」

 神、と言おうとして、ラケロは言葉を飲み込んだ。卑しい奴隷どもがあがめる対象にその呼び名を使うことが憚られたからである。

 皇帝はラケロの心中を見透かしたかのように、僅かに視線を送った。

「彼奴らがあがめているのは、他の神々を認めぬ唯一無二の存在。それを信じることで、我らの神々を否定しようとしている。その血脈も、我らをも。それはすなわち、血の正統による統治を破壊することに他ならぬ」

 広間に響く声すらも美しい。それ故に、言葉は一層恐ろしく感じられる。すでにラケロの顔は青ざめていた。

「もはや、ただの反乱では済まされぬ。帝国の根幹を破壊し、信仰、秩序、善悪すらも変えてしまわんとする、破滅的な挑戦なのだ。奴らも、奴らの信仰も、神々の子孫が築いたこの神聖なる国を蝕まんとする、忌まわしい病魔に他ならぬのだ」

 皇帝の眼には、氷のように冷たい光が宿っている。その顔からはいつの間にか微笑が消えていた。

「ハーラント公は慈悲深い、善良な領主なのであろう。だが奴は選択を誤った。その所業は赦しがたい。皇帝は、神々の作りし帝国の守護者である。血の正統による秩序を脅かす者を、決して許してはおけぬ」

 いつの間にか、広間に差し込む陽光が大きく傾いていた。辺りに冷気が満ちて来るように感じられ、ラケロは身震いを禁じ得なかった。

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