第一章 ハーラント公国(3)
物見櫓の上に立ってすぐ目に飛び込んできたのは、沢沿いに伸びる道に沿って集まった、5、60人程の集団だった。
老若男女様々だが、皆一様に薄汚れた格好をしており、飢え、疲労しているようだった。
彼ら一人一人の顔つきが、ここまでの道のりが決して平易なものではなかったことを物語っていた。
ヘルンが、櫓の先端へ立ち、そこに集まった者達へ向けて、よく通る声で問い掛けた。
「余はハーラント公国の公子、ヘルン・リュディシュ・ハーラントである。諸君らと話をしたい。代表者は誰か?」
うずくまっていた者たちの顔が、一斉にヘルンの方へ向けられた。驚きと、畏怖するような表情が浮かんでいる。居ずまいを正すもの、ひれ伏すものもいた。
集団の中から一人、痩せた初老の男が立ち上がり、静かにヘルンの前へ進み出た。他の者と同じく薄汚れた身なりをしており、顔は痩せこけて目の下が窪み、白髪混じりの頬髭をたくわえている。そこにはやはり疲労の色が濃く表れていたが、両眼は強い意志を宿しているように大きく見開かれていた。
「コバと申します。公子様の御拝謁を賜り、身に余る光栄です」
コバ翁はそう言うと、深々と頭を下げた。
「コバよ、お前たちは何者か。何故にこのハーラントの門扉を叩くのか」
ヘルンの声には、厳かな響きがあった。
彼を見上げる者たちは、その声に気圧されているようであった。だがコバ翁は落ち着いていて、ゆっくりと顔を上げると、小さいがこれもよく通る声で、ヘルンの問い掛けに答えた。
「私たちは、『天の意思』に従うもの。マラーヤータの預言に導かれ、自由を求め旅をしております」
マラーヤータ・・・”眼を開かれた者”、か。ヘルンは、そうひとりごちた。カレンツァ帝国の属州の一つ、辺境の小民族の言語だ。コバ翁は続けてこう言った。
「恐れながら、ハーラント公爵様のお慈悲を賜りたく参じ上げた次第でございます」
「慈悲、とは」
半ば検討はついているが、ヘルンはそう言って先を促した。
「願わくは、この国に我らの生きる地を御与え下さるるよう。それが叶わぬなら、せめて我らが通行することをお許し下さることをお願い申し上げまする」
年寄りで、長旅の疲れもあるだろうに、コバの両眼には強い決意が宿っている。
「私たちは、ただ自由と安寧をのみ求めるものたち。物騒なことは何もいたしませぬ。ご覧の通り、女こどもや年寄りも多くおりますで、誰かと争うことなど、できはしません」
やはりそうか、とヘルンは心の中でつぶやいた。
帝国にいる限り、彼らは奴隷の身分から逃れることはできない。奴隷の子どもたちも、生まれながらにして奴隷となる。彼らが「自由」となるためには、帝国から逃げ出すか、戦って勝つしかない。
帝国は強大だ。戦うにしろ、逃げるにしろ、抗うことは難しい。帝国が、彼らを見過ごすことなど考えられない。それは、彼らを助ける者も同じだ。
拒むべきだ。
ヘルンの理性は、その方が賢明であると彼自身に訴えていた。
ヘルンが口を開きかけたとき、ふと、道の脇に蹲る親子の姿が目に留まった。まだ4つか5つといった歳ごろの娘が、母の袖にしがみつきながら、じっとこちらを見ている。
「お兄様」
不意にリフローネに呼び掛けられ、ヘルンは思案より引き戻された。
「女神様であれば、どう仰されるでしょうか?」
妹の澄んだ瞳を見つめ返し、小さく頷いた後、ヘルンは再びコバへ向き直って返答した。
「公爵閣下にお伝えする。諸君らをどうするかは、追って知らせる。数日待たれよ」
力を込めて言い放ち、公太子は翻ってその場を去っていった。
ヘルンの背中に、コバはもう一度深々と頭を下げた。