第一章 ハーラント公国(2)
半刻の後、ヘルンとリフローネの二人は馬に乗り、城内の数名の兵士を引き連れ、城下町を東へと向かっていた。
街を取り囲むように造られた城壁には、東と南に門が作られている。その東門を抜ける頃には、陽はすでに傾きはじめ、一行の影は歩く方向へ長く伸びつつあった。右手に広がる湖からは、涼やかな風が吹いてきている。
ハーラントの象徴のようなこの湖は、ガリア湖、すなわち「女神の湖」と呼ばれている。古えの昔、女神ノアが、世界の屋根とも呼ばれるゲネブ山脈へ降り立ち、山々を分けて湖を作ったとする伝説にもとづいている。ガリア湖は、大地に生命を与え、人々の暮らしに豊かな恵みをもたらすとともに、信仰の対象でもあった。
そんな神秘的な湖であったが、湖畔を進む一行には重苦しい空気が漂っていた。先頭のヘルンをはじめ、誰も一言も話そうとしなかった。各々が、これから向かう先に待ち構えているものに対し、思案を巡らせているからであった。
先刻、ヘルンらを呼び寄せたハーラント公が二人に語ったのは、おおむね次のようなことだった。
ここ数年、隣国のカレンツァ帝国内では、奴隷たちの脱走が相次いでいるという。奴隷たちの中に、「天の意思」を授かったという預言者のような者が現れ、彼らに離反を呼びかけているというのだ。脱走した奴隷たちはいくつかの集団を作り、ある集団は貴族たちと戦う姿勢を見せ、また別の集団は追跡を逃れ、安寧の地を求めて放浪しているという。
その放浪している集団の一つが、公国の東の国境付近に現れたとの知らせが入った。そこで、ヘルンたちを調査へ遣わしたい、ということなのだった。
彼らは、ハーラント公国に何を求めてやってきたのだろうか?
帝国に臣従している公国としては、彼らを説得し、帝国に戻るよう促すべきなのだろう。しかし、それを彼らが素直に受け入れるだろうか。
湖から吹き付ける風がいっそう涼しく感じられ、リフローネはそっと腕に手を添えた。さざ波立つ湖面に目をやりつつ、胸中で女神に祈った。
そのうちに湖岸を通り過ぎ、山の稜線が覆いかぶさるように近づいてきた。砂利混じりの道が、沢へと伸びてゆくところまで来たとき、ようやく国境の物見櫓が見えてきた。
山々へこだまする葉擦れのようなざわめきが、少しずつ大きくなってゆく。それが葉擦れではなく、人の声であることが分かると、リフローネの鼓動は自然と速まっていったのだった。