第一章 ハーラント公国(1)
ゲーティア大陸のほぼ中央には、峻険な山脈に囲まれたハーラント地方がある。その山あいに、一つの大きな湖が存在していた。豊かな水をたたえたこの湖の岸辺には、わずかな平地が広がっていて、そこには古くから人々の生活があった。
およそ今から70年ほど昔、当時この地を治めていた領主が皇帝から公爵位を与えられ、ハーラント公国の建国を宣言すると、以降この地は帝国と隣国を結ぶ交易の拠点となって栄えるようになった。今では市場や宿場が立ち並び、活気の溢れた街になっている。
街の中心を走る大通りには石畳が敷かれており、その脇には露天商が軒を連ね、行商人たちの交渉する声が響いている。そこから視点を上げると、青空に美しい山々が映えている。その山の一つに、傾斜に沿って作られた石造りの荘厳な城がそびえ立っていた。公爵一家の住むハーラント城である。
今、城の中庭では、ひと組の男女が剣術の稽古に励んでいた。
男の方は、公爵家の長男ヘルン・リュディシュ・ハーラントだった。上背があり、肩幅の広いがっしりとした体格をしている。金色の短髪に碧眼、引き締まった口もとと、なかなかの美形である。
ヘルンに相対して訓練用の木剣を構えているのは、公女のリフローネ・レイナ・ハーラントだ。革鎧に身を包み、背中まで伸びたブロンドの髪を後ろで束ね、眼窩には兄と同じく碧色の瞳を備えている。
彼女は、その瞳にヘルンを見据え、ハッ、と短い息を吐きつつ打ちかかっていった。
ヘルンも素早い動きで、彼女の斬撃を受け止める。
木剣同士が激しくぶつかり、よく晴れた初夏の空に乾いた音が響く。続けて二度三度、リフローネが打ち込んでゆくと、ヘルンは木剣を自らの身体へ引きつけつつ、それらを丁寧に受け止めていった。鋭い剣撃の間隙を突いて、鋭く反撃の刃を振り下ろすと、リフローネは軽やかに身体を翻してこれを避け、再び距離を取った。
ヘルンの口元が緩む。
「また腕を上げたな。今のは危なかった」
構えた木剣を下ろしながら、ヘルンは妹に賛辞を送った。
「お兄様の手ほどきのお蔭ですわ」
リフローネはにっこり微笑んでそう答えた。花がほころぶような、可憐な笑顔である。それを見て、ヘルンも目を細めた。
「ヘルン様」
中庭の入口から若い男の声がした。続いて声の主が陽光の下に歩み出てくる。
歳の頃二十ばかりの、長身の男性である。目は切れ長で、端正な顔立ちをしている。褐色の肌が、一目で異国の出自であることを示していた。
ヘルンの従者の、ナジャだった。
「ナジャか。どうだ、お前も一汗流すか」
ヘルンは彼の方へ顔を向けながら、楽しそうにそんな言葉を投げかける。
ナジャは、みなし子であった。もとは行商人の子であったが、一家が盗賊に襲われ、彼だけが生き残った。助けたハーラント公は彼を引き取り、ヘルンの従者としたのだった。
以来、彼は子どもの頃からヘルンに付き従っている。ヘルンもナジャを心から信頼し、親友の如く扱っていた。寡黙で、ほとんど表情を変えることのない男だが、恩人のハーラント公爵家への忠義は厚い。また、ヘルンの稽古にもよく付き合うため、腕も立った。
「折角ですが、今は公爵様がお呼びです。広間へ来るようにとのこと。リフローネ様もお越し下さい」
ナジャは、やはり表情を変えず、落ち着いた声で用件を伝える。
「父上が。分かった、すぐ行こう」
ヘルンの方は、少し残念そうな様子でそう答えると、木剣をナジャへ渡して支度を整えはじめた。
リフローネは、自分も支度を整えながら、何気なくナジャの顔を眺めた。
彼の表情に、ほんのわずかに緊張の色を見たとき、何故だか心中が不吉にざわめくような感覚を覚えた。雷雨の前に訪れる風が、水面を撫でてできるさざ波のような、不吉な予兆に思えた。
「・・・リフローネ様、私に何か?」
当のナジャには、そのような表情になった覚えすらなく、自分の方をじっと見つめているリフローネに気付くと、不思議そうにそう尋ねた。
「いいえ、ごめんなさい。何でもないわ」
不安を打ち消すように、彼女はそう言って視線を外した。