怖いと笑い出すホラーな詩野さんと帰ろう
居残り補習で遅くなった。
補習をやらされたのは僕と、詩野さんの二人だった。
詩野詩美さんはちょっと変わった人で、物理の授業中に国語の教科書を読み耽っているような女の子だ。ちっちゃくて眼鏡っ子で、顔も可愛いんだけどあまり人気はない。
不思議っ子ちゃんと付き合えるスキルを持った男子はそうそういないのだろう。
先生に言い渡されたところまで課題を終え、僕が何も言わずにバッグを肩に下げて立ち上がると、慌てたように詩野さんが振り返った。
「玉国くん! もう終わっちゃったの?」
小動物が鷹に襲われたような声を出す。
見れば彼女はノートにずっとパラパラ漫画を描いていたようだ。隅っこにデッサンの狂ったかわいいハムスターの絵が描いてある。
「うん。終わったから、先に帰るね」
僕がそう言うと、詩野さんは急いで自分のノートを閉じ、下の端っこだけ開き、パラパラとハムスターをてってけ走らせながら、悲痛な声で言った。
「今、逢魔ヶ時じゃない? こんな時間に帰ったら、魔に会っちゃうよ?」
「え……。何に間に合うって?」
「魔だよ、魔! ま、マママ……ママ?」
よくわからないのでほっといて帰ろうとしたら、腕にしがみつかれた。
「怖いよ! 怖いよ! ママが来るよ!」
「ママが怖いの?」
「そうじゃなくて……! なんだっけ……。あ、そうだま! ま! まっ!」
「つまりは一人で帰るのが怖いから一緒に帰ってほしいってこと?」
「お願い致します」
そう言って詩野さんは深々と頭を下げると、パラパラ漫画しか描いてないノートを鞄に入れ、たたたと出口に小走りで先に辿り着き、電気をさっさと消すと、僕に指でカモンした。
「Here We Go!」
帰り道はすっかり薄暗くなっていた。
「ところで帰る方向一緒なの?」
「……たぶん」
「僕がどっち方向に帰るか知ってるの?」
「お任せ致します」
よくわからないので自分の家の方向へ構わず歩いた。
すると背後で詩野さんがへんな声を出す。
「ひっ……!」
「ど……、どうしたの?」
振り向いてみると、詩野さんが大きな口を開けて笑っていた。
「ひっ……! ひひ……、ひひひひひはは」
背筋が凍りつく思いをしながらも、聞いてみた。
「なんで笑ってるの?」
「わっ……、わたひ、怖いと笑い出す癖があるの。玉国くんがわたひを置いて先に行っちゃうんじゃないかと思ったら……怖くて、怖くて、へへへ、うはは」
「大丈夫だよ。置いて帰らないよ」
本当は置き去りにして行きたかったけど、僕は優しい男だった。
「じゃあ、『ここでいい』って所まで送って行くよ。家、どっち?」
その時、黒猫が僕らの間をサッと通り過ぎた。
「ああっ!」
詩野さんが大声をあげた。
「ふっ……、ふふっ……、不吉な! なはは、なはははは!」
「迷信とか信じるほう? 可愛い黒猫じゃん」
「あ。玉国くん、ねこ好きなんだ?」
「うん。自分が猫になりたいって思うほどにはね」
「ねこに……? なりたい……?」
どうやら詩野さんのイマジネーションを刺激してしまったようだ。
「ま……まさか……! 玉国くんは猫又なの?!」
「うん。じつはね」
つい、からかってしまった。
「百年以上生きてる猫又だよ。夜になったら町をうろついて、人を食うんだ。こうやってね……ガアっ!」
「ひっ……ヒヒヒヒヒ……!」
詩野さんが不気味な表情で、山姥のような笑い声をあげた。
「ヒーヒヒヒ! 食べないで!」
「冗談だよ。家どっち?」
「フハ……、フハハハハ!」
詩野さんの笑いが止まらない。
「イヒは! イヒイヒ! み……、ミヒ!」
まったく会話が不可能になったので、仕方なく僕の家に連れて帰った。笑いが収まるまでジャスミンティーでも淹れてもてなしてあげよう。
ジャスミンティーをくぴっと飲み干すと、詩野さんは言った。
「ありがとう。ごめんね」
「いいよ。あんな状態の詩野さんをほっといて帰れなかったよ」
「今晩、泊めて?」
「なんて?」
「こんなに暗くなっちゃったら怖くて帰れない……」
「いいよ。送って行くよ。兄貴に頼んで車で送ってもらおう」
「その前に……お腹減った」
うちの家族に混じって詩野さんは晩ごはんを食べた。小さい身体なのによく食べるので、お袋は嬉しそうだった。
「ひとつのお鍋を囲んだらもう家族よ。いつでも光のお嫁にいらっしゃいね」
「やめてよ、母さん。そんな関係じゃないよ」
「玉国くん、わたし、この家のお鍋のお味、気に入っちゃった」
「じゃ、メシ終わったら送って行くよ」
兄貴が言ってくれた。
「お礼なんていいよ。その代わり、これから何度も家に遊びに来てよ。詩美ちゃんいたら明るくなっていいわ。やっぱり家に女の子がいるっていいわ」
兄貴の車の助手席に詩野さんを乗せ、僕は後ろの席に座った。
「あ。この先のトンネルさ、心霊スポットとして有名だよ。知ってる?」
よせばいいのに兄貴が余計なことを言いはじめた。
「夜に通るとね、胴体から上がないランナーが走ってるのをよく見るんだって」
「よせよ兄貴!」
慌てて僕は兄貴の口を止めようとした。
「怖がらせると、彼女……」
「ヒヒヒヒヒ……」
遅かった。
「ケケ……ケケケケケ!」
「詩美ちゃん……?」
ぎょっとして兄貴が助手席を見た。
「うわあっ!? 詩美ちゃん!?」
僕からは彼女がどんな表情をしているのか見えなかった。でも兄貴の怯えようを見るとただならぬことが起きているようだ。
そうこうしているうちに車は件のトンネルの中へ入ってしまった。ちょうど歩道を胴体から上がないトレーニングパンツ姿の人が走っているところだった。
詩野さんがそれを見てしまった!
「ウギャアーッハッハッハ!」
彼女の笑い声が狂気を帯びた。
「ウホッ! うホホホ! ピギャーッ! ハッハッハガハハハ!」
胴体から上がないトレーニングパンツ姿の人が詩野さんの笑い声に気づき、びくっと下半身を震わせて振り返った。
ふつうなら怖いはずのその人がちっとも怖くなくなるほどに詩野さんの笑い声はホラーを極め、遂に兄貴は車をトンネルの途中で乗り捨て、外へ走り出してしまった。
「詩野さん……」
僕は彼女の肩を叩いた。
「ここから歩いて帰ろう」
何事も慣れるものだ。ほんの三時間ほどで僕は彼女の作り出すホラーな雰囲気に慣れてしまっていた。
車から出ると、胴体から上がないトレーニングパンツ姿の人に怖がらせたお詫びを言い、彼女の手を引いて僕は歩き出した。今ならどんなホラー映画も怖くない気がしていた。
「ウゲーッ! ギャハッ! ギャ~ハッハッハ! ゲゲゲーッ!」
笑い続ける彼女の手を握り、暗闇の中を歩きながら、彼女を守れるのは自分しかないという気が僕を強くしていた。