第1話 脱出騒動
(八月十二日、ハワイ州ホノルル、パールハーバー・ヒッカム統合基地、南西検問所前カメラより)
常夏の陽光と代り映えのない日常が続き、鋭気が衰えつつある検問所の憲兵へ無線連絡が届く。憲兵は年季の入った机に脚を放り上げたまま、ラジオと並行して無線の声に耳を傾ける。
『――た! そっ――ち行った車両ッ止め――』
「聞こえないでさぁ。オーバー」
焦燥が混ざる声高な無線連絡に倦怠感を隠さない憲兵達。
検問所前は高圧電流フェンスとテロ対策用の車両止で固く防備されているが、それ以前に、米国本土の基地を標的にするほど余裕のある国家も過激派も、今となっては存在しない。
「なんか焦ってましたね」
「書類でも忘れてたんだろ。どの道、基地を出るにゃフェンスとボラードを突破しなきゃならん。車両が来てから確認すればいいだ――」
憲兵の口が閉じる前に、全身を打つ衝撃が轟く。
簡素な検問所の壁天井は紙切れの如く裂け、周囲に飛散した。
「「「げほっ……な、何が――!?」」」
憲兵達は揃って驚愕を口にする。
直後――連続する破裂音と共に、残された鉄製のフェンスとコンクリ製のボラードが弾け飛ぶ。
「――ッ!? 軍用車両もスクラップにするボラードが一瞬で……」
『――か? 無事なのか!? 応答しろ!』
「ファ〇ク! クーデターでも起きたのか!?」
既に壊滅状態の検問所に憲兵と無線の声が響く。
『とにかく車両を止めろ! 二〇三〇年製の上級将校用SUVキャデラック! 絶対に基地から出すんじゃない!! 出したら営倉行きだぞ!』
「敵の装備は? 艦砲でも備え付けてんのか!?」
憲兵達は悲鳴を上げる身体に鞭を打ち、全周警戒態勢で自動小銃を構える。誰もが呼吸を荒げる。当然だ。攻撃の第一波は検問所を薙ぎ払う正体不明の衝撃波、第二波は頑強な車両止が、まるでゼリーの中で爆竹が破裂したかのように吹き飛んだのだ。
脂汗を滲ませる憲兵達は思考を巡らせる。
自らを襲った攻撃はヒトによるものなのか、それ以外によるものなのか。
銃を握る力が最大限に達した時――対象を視認した。
対象はキャデラックの護衛用SUV。
アメ車特有の巨大なフロントグリルからは白煙が漏れ出ており、防弾加工済みの沈み込んだ車体には幾発もの銃創が刻まれている。
そして、漆黒の棺桶にも似寄る車両から漏洩する小競り合いも聞き取れた。
「こんなことになるなんて聞いてない! 国家権力の濫用だ!」
「ウチもや。日米同盟がここまで形骸化してるとはなぁ! 計算外やね!」
「計算外やね! じゃないっ! これもう国際問題だろ!?」
日本語の小競り合いは憲兵達には理解できない。
ただ、こちらへ向かってくる停止させるべき存在ということは理解できた。軋む足腰を奮い立たせ、未だ視界に残る霞をまばたきで取り除き、照準を定める。
「前方に戦闘態勢の憲兵三名確認。排除しますか?」
「さっきのは弱すぎたか……」
「では排除しますか? どのように排除しますか?」
「さっきから殺意高くないっ!?」
車両から聞こえる声は若い男の焦り声と関西弁の女の声、そして幼気が残りつつも楚々として澄み切った女の声の三つ。どれも屈強な兵隊が駐屯する基地とは不釣り合いなものだった。
三名の若者を乗せたSUVは、尚も憲兵達と距離を縮める。
憲兵の一人が落ちていたスピーカーを拾い上げ、「止まれ、止まらなければ――」と静止を促すが、SUVに停止の意思は一切感じられない。
「いいか? 安全第一、人命優先! 車両止を破壊した攻撃はダメだからな!」
「…………。再度、指向性衝撃波形成兵装による無力化を実行します」
「気絶させるだけでいいからな? やりすぎるなよ!」
「繊細な制御には経験の取得が不可欠です。現状の標的との距離は二百メートル。気絶によって無力化できる可能性は四割程度と予測」
「じ、じゃあ、あと六割は?」
「遺体確認には認識票が必要になります」
暗にグロテスクな結末になることを告げるうら若き女の声。
尚も車両は進み続ける。
基地内とはいえ、既に憲兵達は交戦規定から解かれている。先の不可視の攻撃が眼前に迫る車両から発せられたということは明白。尚且つ、ノイズが混じりつつある無線からは「何としても止めろ」以外は聞こえない。
「まさか基地に向かって発砲するなんてな……」
苦笑を交えながらも、引き金に人差し指を掛ける。
既に車両は有効射程距離内に入っているが、確実に車両を停止させるためには一発のミスもなく、弾倉が空になる前に確実に停止させられる距離まで誘き寄せなければならない。
「あくまで目的は停止だ。五十ヤード地点で一斉射撃。防弾加工車だからフロントガラスを狙えば罅で運転手の視界を遮れる。お前らはエンブレムより下を狙え」
「まだヤード・ポンド法使ってるんすか?」
「俺は歴戦の老兵だからな」
「骨董品の間違いでは?」
「ハハッ! 違いねぇ!」
緊張を解すための軽口を叩く間も、車両に止まる気配は一切ない。
百八十メートル。
百三十メートル。
八十メートル。
五十メートル地点を通過。憲兵達の指が引き金を引く――寸前、迫り来る車両から砲弾の如き速度で何かが飛翔した。
視認すら叶わず、飛翔体が発した突風が憲兵達をよろめかせる。
「経験不足により、中長距離からの無力化は困難。素手での無力化を実行」
次の瞬間、抑揚のない機械的な澄んだ声が、慌てふためく憲兵達の背後から響いた。
「「「――ッ!?」」」
銃口を反転する間もなく、二人の憲兵が膝から崩れ落ちる。
「ッこの――くらえ!!」
己を歴戦の老兵と称した憲兵は、反射的にバックステップを踏んで声の主から距離を取ると同時に、照準を声の主に合わせる。そして驚愕した。
「……おいおいおい冗談だろ!?」
憲兵の前には、軍基地には不釣り合いな白が基調のフリル付きワンピースをはためかせる少女が直立していた。残風で揺らぐ少女の白銀の長髪は陽光を反射して薄金色に煌めき、揺らぎのない無機質な菫色の両眼は、銃口を向ける憲兵を見据えていた。
「後頸部への打撃は後遺症の恐れがありますので、下顎部への打撃で無力化させていただきます」
少女は薄桃色の小さな唇を緩急なく動かし、淡々と攻撃的な台詞を述べる。
あまりの場違いさに唖然とする最後の憲兵の記憶は、ここで途切れた。