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第9話 竜涎香(りゅうぜんこう)

「伝授、ですか」


 店主は珍しくきょとんとした顔で、客の言葉を繰り返した。

 銀の輪に縁取られた黒い瞳には、まだ二十歳にも満たないであろう若い娘が映っている。


「はい。わ、私にお香のことを伝授していただければと思いまして」


 緊張した面持ちながらも、娘の瞳は爛々とし、情熱に燃えているようにも見える。

 店主は頬を掻き、まずは話を聞こうと着席を薦めた。幸い店内に客はおらず、ゆっくり話を聞くゆとりはあった。


「よろしければ、何がお客様を駆り立てていらっしゃるのか、お話を聞かせて頂けますか」


 華奢な指の美しい所作で促され、娘はハッとしてカウンター前の椅子に腰を下ろした。


「も、申し遅れました。私、千代ちよみどりと申します。すぐそこの大学の1年生で、専攻は動物学です」


 店主は微笑みながら頷き、緑を見つめた。

 見つめられた緑は緊張の度合いを増して、頬が赤く染まっていく。


「実は、その……す、好きな男性がいて、ですね」


 店主は小さく何度か頷き、ちらと店の横の棚に目をやった。

 恋愛成就を願って香を焚こうというのであれば、やはりローズ系のものをおすすめしたらいいだろうか。


「その人、ゴキブリがすごく苦手なんですけど、虫除けのお香にすごく助けられたそうで、それ以来すっかり没入しているんです」


 店主はさっきよりも深く頷いた。

 ひとり、その話の主人公に心当たりがあった。


「なるほど、それで共通の話題をつくって、仲を進展させたいというところですか」


 緑は「それもあります」と言い、言葉を次いだ。


「来週、お誕生日らしくて。仲の良い人たちでそれぞれプレゼントをしようっていう話になったんですけれど、やっぱり、お香が喜んでもらえるかなぁ、って。予算は、これくらいしかないんですけれど……」


「素敵なお話ですね。わざわざこんなお店に足を運んで下さっているところに、緑さんの本気が現れていて、応援したくなってしまいます」


 店主が形の良い唇で笑みをつくる。


「ただ、お香について伝授と言われましても、一朝一夕にご説明するには難しいものですから、一緒にプレゼントを考えるということで了承して頂けませんか?」


 緑はこくこくと小刻みに頷き、かわいらしい表情をさらに明るくした。

 それでは、と言って店主は言葉を次ぐ。


「お相手の方が普段使われているお香の種類や、好きな香りについてはご存じですか」


 はい、と言って緑はスマホを取り出し、操作を始めた。


「えと、普段焚いているのはチョウジというのが入っているお香みたいです。あとは……」


 指で画面を繰りながら、緑の表情がだんだんと曇っていく。


「……すみません、もしかしたら、チョウジというお香しか使っていないかも知れません」


 それを聞いて、店主はくすりと笑った。


「学生さんですから、あまり先立つものもないでしょうし、頻繁に色々試すことは難しいでしょうしね。それでしたら、同じ丁字のお香を買ってお渡ししてもよさそうですけれど……」


 そう言いながら、店主は目の前の恋する乙女を見据える。

 彼女の思い人が浮かんでいたがゆえに、少しばかり、その背中を押してあげたいという気持ちが店主の中にあった。


「それでは、どんな香りが好きか、ということも、あまりご存じないですよね」


 言われた緑は小さくなった。


「動物のにおいが好き、と言っていたことくらいしか」


 お香の知識がなく、相手の好みも分からない。しかし、好きな人が喜んでくれたらと明らかに専門的なお店に飛び込む。若いからこそ出来ることかもしれないな、と店主は心の内で苦笑した。

 店主は立ち上がり、カウンターの奥の棚の引き出しから、いくつかの小瓶を取り出した。


「緑さん、お時間はありますか?」


 緑はこくこくと何度も頷いた。

 店主はそれを見て微笑み、奥の部屋へ来るように手招きした。

 緑はそれに従って、店主を後に続く。

 二人は二重になった扉を通って店の奥の小部屋に進んだ。

 小部屋の中には一人がけのソファと小さなテーブルがあった。テーブルにはいかにも上等なクロスがかけられていて、その上に置かれている香炉もまた、高級そうだった。


「プレゼントの仕方として、相手が喜ぶものをお渡しするというのもひとつですが、ご自分の好きなものを贈る、というのもひとつだと思いませんか」


 緑はまた、こくこくと何度も頷いた。


「お香の趣味が合えば、きっとお話も盛り上がるでしょうし、そこから恋路が発展するかも知れません。なにしろ香りというのは好き好きが分かれるものですから、その好みが一致するというのは得がたい喜びです」


 店主は話しながらも香炉の前に小瓶をみっつ置き、それぞれの蓋を開けた。


「緑さんもお相手も、動物にご興味があるということですから、動物由来のお香を三つご用意しました。瓶を手にとって香りを聞き、なんとなく気になったものを焚いてみましょうか。それが気に入ったら、それを贈る。ゲームのようですが、いかがですか」


 緑はおずとして口を開く。


「あの、こんなにしていただいて、大丈夫なんですか」


「ご予算のことでしたら、学生割引しますから大丈夫です。それに、緑さんが思っている方というのは、たぶん当方の常連さんですから」


 小さく驚く緑に、店主はもう何も言わず、手で瓶の香りを確かめるように促した。

 緑は左の小瓶を手に取り、鼻を近づけてみる。

 そこまで近づけていないのに、バニラのような芳香が伝わってきた。


「甘い香りですね」


 店主は何も言わず、頷いて、白いシートを手渡した。

 緑はその意図を察して、鼻の周りをシートで拭き、真ん中の小瓶を手に取った。

 鼻に近づけてみたが、今度はすぐに遠ざける羽目になった。

 記憶の中にある、苦手なにおいだった。


「苦手な香りでしたか」


「す、すみません。ちょっと、強いというか、濃いというか……」


 瞬間的に緑の脳裏をよぎったのは、実家の父親の車だった。これに似たような芳香が車の中に充満していて、なんとなく好きになれない香りに車酔いも混ざって、気分が悪くなった記憶があった。

 緑は鼻の周りをまた拭き、最後の小瓶に手をやった。


「あ……」


 緑の口から感嘆の息が漏れた。

 甘い香りだが、ひとつめのものよりも爽やかで、はじめて感じる香りなのにどこか懐かしいとさえ思ってしまう。ただ、それはかすかなもので、集中しなければなくなってしまいそうだった。

 思わず目を閉じて、鼻腔の奥で繊細に感じ取ろうとしてしまう。


「不思議な香りですね。爽やかで、広がりがあって、そう、なんだか、海のような感じ」


 言ってから目を開けると、店主が少し驚いたように、綺麗な目を大きくしていた。


「あ、あの、何か変なことを言いましたか」


 ハッとした店主は首を横に振り、言葉を紡いだ。


「いえ、逆です。緑さんの表現に、感心していました。最後のものは竜涎香りゅうぜんこうといって、マッコウクジラの体内にできる結石です。排出されて海上に漂流しているものや、海岸に打ち上げられたものを採取して使います」


「クジラの結石、ですか」


 緑は小さく驚きながら、店主の言葉を反復した。


「捕鯨が許された時代は積極的に入手しようとしていた節もありましたが、そうではない時代は海岸に漂着するものが主となります。もっといえば、生体の腹部から取りだした竜挺香は決してよい匂いとはいえないので、香りというのは自然で培われるものがよいという好例ですね」


 すらすらと説明する店主を尻目に、緑はうつむいて小さく言葉を紡ぐ。


「でも、それって、すごく、貴重ですよね……」


 店主は頷いた。


「もっとも高かった時期は1948年頃で、金の8倍にもなりました。しかし、これをふんだんに使ってお香をつくっているわけではありませんから、お香の値段としてはピンキリですよ」


 前半の説明を聞いてあやうく落としそうになった瓶を、後半でしっかり握り直す緑だった。

 そしてそっとテーブルに置き、姿勢を整えて店主の言葉を待った。


「本当はこれらを用いたお香を試してから、と思いましたが、お聞きするまでもないと思いますので、最後の竜涎香を使ったお香をひとつ、ご用意します。先程緑さんが提示された額で見繕い、ラッピングもしますが、それでよろしいですか?」


 緑は感謝とともに了承し、二人は店に戻った。

 店に戻っても他の客の姿はなく、店主は手慣れた様子で小箱や香、リボンなどを用意してプレゼントに相応しい姿へと変身させていく。

 その間、緑は棚やテーブルに置かれているお香の数々を見ていた。

 商品の近くには説明用のカードが置かれていて、その中のいくつかの固有名詞は緑にも分かるものだった。意中の彼から聞いた丁字はもちろん、白檀や沈香というのも、何かの本で読んだような気がした。

 しかし、竜涎香という記述はどこにも見当たらない。

 やっぱり、よほど高価なものなんじゃないだろうかと今更になって冷や汗のようなものが出てくる。


「お待たせしました」


 店主の透きとおった声にハッとして、緑は小走りでカウンターに向かった。

 最初に説明した通りの金額を出しながら、緑はちらっと店主を見た。

 店主は相変わらず微笑をたたえているだけだ。


「あの……」


 意を決した様子の緑に、店主は何も言わず微笑んで少し頷いた。


「竜涎香、やっぱり、すごく珍しいものなんですよね。不躾かも知れませんけれど、本当は、おいくらのものなんですか」


 緑の真摯な視線を受け止めて、店主は小さく何度か頷き、口を開いた。


「私がつくっているものですから、値をつけようとすれば、高くも安くも出来ます。ただ、私としては、自分がつくった香が何のために使われるかということが大切なのです」


 店主は小箱を緑に手渡しながら、言葉を次ぐ。


「想いを伝える鍵として使われるとあらば、これ以上の喜びはありません」


 店主の言葉に、緑は顔を真っ赤にして口を開いた。


「ど、どうして……」


「うまくいくといいですね、告白。もしもお二人が恋仲になりましたら、是非一緒に当店にいらしてください。それも含めて、今回のお代ということにしますから」


 耳まで赤くした緑の背中を見送り、店主は軽く伸びをした。

 どんな香木も香料も、時間をかけてゆっくりと醸成されていくものだ。それを思えば、あの二人の関係性は、まだなんの芳香も発していないと言える。

 けれど、何事にも始まりはある。今はまだ香りが立っていないだけで、これから二人が紡ぐ物語は、得も言われぬ味わいを含んでいくかも知れない。

 秘蔵の小瓶三つを引き出しにしまいながら、店主は満足そうに笑った。


作者の成井です。


今回のエピソードをお読み頂き、ありがとうございました。

「面白い話だった」「続きも読んでみよう」と思って頂けたなら、

下の☆☆☆☆☆欄で評価していただけると幸いです。


では、また。

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