第8話 没薬(もつやく)
「小野様、またのお越しをお待ちいたしております」
四泊五日分のチェックアウトを済ませて、女は愛用の懐中時計を開いた。
帰りの名古屋行きの新幹線まで、まだ十分に余裕がある。
キャリーケースをガラガラ言わせて歩くのも恥ずかしいと思った女は、まず新幹線が発車する駅まで行き、高い金を払って大きなコインロッカーに荷物を入れた。
昔はコインロッカーといえば百円か二百円だったような気もするが、今ではキャリーケースを入れられるほど大きく、電子マネーで決済するほど高価なサービスになっていることに驚く。
まあいいか、と女は思う。
今回の講演では少し色を付けた報酬を頂いたし、著書の出版も決まって、財布と心には幾分の余裕がある。
くたびれたショルダーバッグだけで身軽になった女は、早速土産漁りの小旅行を始めた。
目的の品は、とにかく古く、安く、埋もれているものだ。
考古学者という仕事柄、目利きは得意だ。
いや、目利きが得意だから考古学者になったというべきか。
教授、あるいは研究員、あるいは学生になる以前から、女は価値があるものを見抜く才能に恵まれていた。彼女の祖父が趣味の骨董をやめたのも、孫娘が自慢のコレクションにけちをつけはじめたからだった。
「おじいちゃん、そのツボ、がらくただよ」
「いやいや、これは由緒正しいナントカいう陶芸家の作品で、江戸時代の……」
五十歳も離れた二人が次第に本気になって喧嘩をするものだから、間に立たされた親あるいは子は、それならばと有名なテレビ番組の力を借りて正式に鑑定をお願いしようという運びになった。
「今日は、おじいちゃんが宝物だと言い張るものと、私が宝物だと思うものを持ってきました」
小学校に入学して間もない小娘が生意気な口をきいて、会場の笑いをとったところまではよかった。
ところが、その日の収録は次第に剣呑な雰囲気になり、結局放送されずに終わっている。
それというのも、少女が次々と真贋を言い当てて、一種異様な空気が漂い、これは番組構成側の仕込みではないかという物言いがついたからであった。
ただ両親は、自分の娘に類まれな才能があることを認め、彼女の力が埋もれないように芸術や歴史、文化的なものに触れさせていき、彼女は立派に考古学の研究者として自立するに至った。
先日米寿の祝いをした祖父はといえば、孫のつけるけちが難癖などではなく、正確すぎるほどの鑑定だったことに驚嘆したとともに、自分にその才がないことを自覚したため、趣味の骨董収集はぱったりとやめてしまっていた。
「これからは自分で探さず、孫の見つけたものをコレクションしていくことにするわい」
こうして収集を完全に人任せにするという風変わりなコレクターとなった祖父に、旅先で見つけたものを届けてやることが、今ではすっかり仲良しになった孫と祖父との約束事だ。
ただ、いつものことながら、女教授に何かあてがあるわけではない。
とりあえずいくつかの駅に降り立って、骨董屋やリサイクルショップに飛び込んでみるのが常である。
「普段は行かない町に突撃してみようかしら」
女教授はひとり呟いて、オフィス街として知られている駅に向かうことにした。
先週東京に来たときは、海外のものが集まりやすい駅を拠点にして歩き回ってみた。それはそれで珍しい物が、例えば南米の古い民芸品が手に入ったりしたので、勘に従うというのも悪くない。
ふわ……
電車を降りて駅を出ると、不思議な香りが漂っているのを感じた。
何かしら、この香り。
どこかの博物館か、研究室にお邪魔したときに嗅いだ記憶があるような気がした。
別の駅で降りたときに、酸味と辛味の混じった刺激臭を感じたことはあったが、それはその町が外国の食品を扱うことで有名だったために、すぐわかった。
しかし、今感じているこの香りは、何か食品に使われるような香りではないし、そもそもビルが林立するようなオフィス街で、香りが充満するはずもないと女は思った。
女教授の勝手なイメージとして、みんな取引先に気を遣って、無臭の状態を四六時中キープしているのではないかと考えていた。
念のため、自分の衣服の袖に鼻を近づけてみるが、少なくとも自分から発されているにおいではないし、近くにいる誰かから強烈ににおってくるというものでもない。
風に乗って流れてきているらしい不思議なにおいにつられて、女教授は足を進めた。
ネクタイを締めたビジネスパーソンや、額に汗して何かをデリバリーしている若者達を避け、女は一軒の古い建物にたどり着いた。
「カオル堂」
女は店の名前を声に出して読んだ。
味のある木製の看板だ。木の種類はさすがに分からないが、東南アジアの遺跡をめぐっているときに、こんな濃い茶色の古木を見かけたような気がする。日本の寺社仏閣とは違い、どこかどっしりとして、異国情緒を感じる黒さなのである。
ガラス窓を通して店内を覗くと、中は明るく、外観に反してこじゃれた感じだった。
骨董を探すという当初の目的からは随分外れてしまう気もしたが、それよりも、今もなお漂う不思議な香りが気になって、女教授は扉に手をかけた。
「いらっしゃいませ」
棚を整理していたらしい店主が、客に微笑んだ。
あら、と教授は目を惹かれたものがあった。
店主の瞳である。
瞳の色は黒いが、どことなく輝きを放っているような、不思議な印象をもたせる目をしている。それがなぜなのかは分からなかったが、美しい目をしていると感じた。
「こちらのお店は、なんのお店なの?」
どうみても自分よりも年長に見えない相手には、フランクに話しかける。これは、女教授が海外で様々な人と関わるうちに身につけたテクニックだった。
「こちらは、お香のお店です。仏事に使うお線香や、日常使いのインセンス、お守り代わりの匂い袋など、大抵のものは取り揃えております」
透き通った声、流麗な口調、そして柔らかな物腰。
教授は相手のことを、ややもすれば二十そこそこの若者だと判じたが、この落ち着きようを見れば、案外三十を過ぎているかもしれない。
いやしかし、肌や艶、髪の瑞々しさ、あるいは内から感じられる生気のようなものは、大学に入ったばかりの子らを思い浮かべても大差ない。
「よろしければ、何かご案内いたしましょうか」
何も言わずに立つ教授に、店主が微笑んで言葉をかけた。
「ああ、ごめんなさいね。少し考え事をしていたものだから」
言いながら、教授は店内をきょろきょろ見渡した。
なるほど、お線香と言われればそう見える棒状のお香が陳列されている棚があった。しかし、それ以外の棚については、見慣れない形のものも多く、少し手にとってはみるものの、すぐに棚に戻してしまった。
「そういえば」
教授はここにたどり着くまでに感じていた香りのことを思い出した。あの香りは、この中のどれから漂ってきたものなのだろう。これだけあって唯一感じられるような強い香りだったのか。それほど主張の強い刺激はなかったが。
「実は私、不思議な香りがして、このお店に足が向いたの。何か、焚いていたお香でもあるのかしら」
教授の言葉に、店主は微笑みを少し崩し、考え込むような口の形とポーズをとった。どこか愛嬌のある姿に、教授は好感を覚えた。
「今日はまだお客様が見えられていなかったので、何のお香も焚いてはおりませんでしたが……けれど、お客様ご自身が求めている香りが引き寄せた、ということが今までにも何度かありました」
「私が求めている香り? 私、お香を焚く趣味はないのだけれど、不思議なことを言うわね」
ふいに飛び出したオカルティックな話に、教授は関心を引かれた。
考古学という道に入ってからというもの、その手の話には事欠かない。
国外でいえばツタンカーメンの呪いを受けたカーナボン卿の話や、国内でいえば将門の首塚など、目に見えない祟りや畏れといったものは各地で信じられている。そして自分がそういう話を好んでいるという自覚が、彼女には強くあった。
「説明しがたいことですが、少ない経験の中で確かにあったことではありまして……失礼ですが、お客様は、何か歴史的なものに関わるお仕事をなさっておいでではありませんか」
教授はぎょっとした。
自分を知る誰からも「らしくない」と言われるほどには、外見に気を付けている。ぼさぼさ髪とよれよれ白衣で、大学教授でございという同僚もいなくはないが、女を捨てる気にはなれず、割と気を付けている。それがなぜ、この若者には見抜かれたのか。
「どうして分かるの?」
否定せず、素直に疑問を口にする。
「理由は、ふたつありました。ひとつはお客様から、かすかにですが、没薬の香りがすることです」
「没薬って、ミイラ造りの防腐剤として使われる、あの?」
教授の言葉に、店主は大きな目をもっと大きくして驚いた。
「よくご存じですね、と思いましたが、歴史にお詳しい方であれば、ご存じでもおかしくありませんでした。アラビア西南部やアフリカのソマリア北部に生息するコミフォラ属の樹木の樹脂で、おっしゃる通り、防腐剤として有名です。ミルラとも呼ばれますが、その香りをまとう方というのは、あまり多くはありません」
ふむ、と頷きながら、教授は頭の中で数日の記憶を辿った。そういえば、昨日研修の一環で訪れた博物館で、資料室にも入らせてもらったか。しかし、シャワーも浴びたし、服も違うのに、香りなど残っているものなのだろうか。
「もうひとつは?」
「これです」
そう言って、店主はカウンターまで行き、その下から何かを取り出した。それは丸い銀色の缶だった。
「まだ封は切っていないのですが、上質な没薬です。アフリカを旅している知人から贈ってもらったものが、今朝方届いたんです。これがもしかしたら、お客様との縁なのかもしれないな、と」
嬉しそうににっこり笑う店主に、教授はつられて微笑んでしまう。邪気のない、かわいらしい人物だと教授は感嘆した。
「ミイラ作りの工程は学んだし、エジプトだけでなくアジアのミイラや、南米で燻してつくるミイラも見たけれど、考えてみればミルラそのものを見たことはなかったわね」
教授は近づき、缶を見る。いくつかの言語は読めるように学んだが、自分の知識ではどうにもならない表紙だった。
「開けてみましょうか」
そんな、悪いわよと教授が言うより早く、店主は手際よくテープを切り、蓋をひねって缶を開いた。その様子からは、客のために開けてあげようというよりは、自分自身が早く見たいためだろうと容易に分かった。
中にはビニール袋が入っており、透き通ってごつごつした黄土色のかたまりがぽつぽつ含まれている。
「お客様がこちらに来られる前に感じた香りが、この香りであれば、不思議なことですよね」
店主は教授に笑いかけた。
女教授は、あ、と声が出かかった。
店主の瞳の輝きの秘密が分かったからである。
この人は、瞳の縁が銀環なのだ。まるで皆既日食や皆既月食で目にするのに似た、放たれるような光の輪を目の中にたたえている。これは目を引かれるわけだ。
「これは……」
空いた袋から漂ってきた香りは、まさに駅から出たときに鼻腔をくすぐったあの香りだった。
「同じ香りだわ。まだ封を開けていなかったのに、香りを感じたなんて、不思議ね」
教授の言葉に店主は満足そうに笑った。
「さらにいえば、ミルラはそれほど強い香りではなく、ほんのりと香るものですし、そもそも焚いてはいなかったわけですからね」
海外のホテルで人の気配を感じたり、誰もいない部屋から物音を聞いたりしたことはあったが、それらの経験よりもずっと神秘的だと教授は思う。
「面白い体験をさせていただいたわ。お礼に何か買おうかとも思うけれど、あいにく、お香というのに手を出したことがないから分からないのよね」
「それでしたら……」
銀の輪の目を輝かせる店主の説明を、教授もはじめはそれなりに聞いているだけだったが、そこは好奇心の塊の教授職である。次第にのめり込んでいき、例の真贋を見極める目も手伝って、一時間の後には、大枚をはたいて百年以上の歴史を刻んだ香炉を購入するところまで話が進んだのだった。
作者の成井です。
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