第7話 竜脳(りゅうのう)
小次郎、と小筆を雑に走らせて、立ち上がり、離れて書を眺める。
作品の最後には、本来、雅号という書家としての名を書くものだが、とても作品とは言えない出来に、自分の本名を書いて終わらせてしまった。
そして若き書道家は首を振り、筆も硯もそのままにして、縁側に涼みに行った。
今の自分の状態が、いわゆるスランプだということは分かる。ただ、それがいつ始まったものなのか、また、いつ終わってくれるものなのか、まるで分からない。
物心ついたころには、もう筆を握っていた。十で神童、十五で鬼才、二十過ぎれば只の人と言うが、自分の場合は二十五を過ぎてなお、若き書聖だと持ち上げられ続けている。ゆえに、満足のいく書が完成しない状態というのは初めてのことで、悩み方も分からず、ただ困り果てていた。
「ごめんください」
聞き慣れた声にハッとなって、小次郎は玄関へ向かった。
「和尚」
呼び慣れた名で、客を出迎える。
「調子はどうですか、小次郎くん」
問いかけに、若き書道家は正直に首を振った。
「申し訳ありません。日頃お世話になっている和尚の、その檀家さんのご依頼ということで集中してはおるのですが……」
「やはり、調子が戻りませんか」
小次郎は首を縦に振った。
「情けないことですが、日を変えても、場を変えても、あるいは道具を変えても、どうにもなりませんでした。正直、どうすればいいのか、手前にも分かりません」
頭を抱える若者を見て、僧侶は禿げ上がった頭を撫でる。
「君はまだ若い。挫折のひとつやふたつは、あって然り。とは言え、君の焦りや苦しみは分からないでもない」
言いながら、僧侶はどう助言をしたものかと思考を巡らせる。
僧侶自身、筆が立たないわけではない。ただ、自分の寺の檀家に文化人が多く、彼らの希望に叶うほどの腕前はない。
そんな折、この神童が近所に生を授かり、様々に関わりを持っている内に、今のような間柄になった。つまり、自分の寺を支えてくれる方々に、彼が作品を快く譲ってくれているという関係だ。本来は結構な値が付くはずだが、彼はご近所だからとタダ同然の値段で卸してくれる。
いつかお礼を返さねばと思っていたが、そのひとつは今だろうと僧侶は頷く。
「私の、古い知人を紹介しましょう」
僧侶が言うと、小次郎は顔を上げた。
「人……ですか。しかし、他の方の作品を見ても、私の場合は……」
「いえいえ、その人というのは、書道家ではないのです」
怪訝そうな顔を浮かべる書家に、僧侶は用意してきた一枚の紙を手渡した。紙には、『カオル堂』という名前と、住所、そして電話番号が書かれていた。
「うちの寺で使うお香を用立ててくれている方のお店です。私が若い頃にお世話になって以来、ずっと助けられています。きっと、君にとっても意味がある出会いになると思いますよ」
僧侶の言葉を聞きながら、小次郎は何度も足を運んだことのある彼の寺を思い浮かべた。なるほど、確かに彼の寺は、足を踏み入れたときに何とも言えない芳香が漂っている。仕事柄、他の寺にお邪魔することもあるにはあるが、思い返してみれば、香りが印象的に残っている寺というのは、他にない。
しかし、である。
「お香……ですか。触れたことのない世界ですが」
僧侶は大きく頷いた。
「きっと、君がスランプになってから出会う運命だったのでしょう」
小次郎は受け取った紙をあらためて見た。
住所は都内で、なんとなくどのあたりか分かるような場所だった。自分の家から、そう時間もかからないだろう。
「分かりました。和尚がそこまでおっしゃるのであれば、伺ってみようと思います」
それでは一本電話を入れておきましょうと言ってくれた和尚と別れ、小次郎はすぐさま支度をし、件の店に向かった。
家にいても、筆が進まないのであれば仕事にならない。
書に関する取材やメディアからせがまれている依頼はあったが、本職である書作品が生み出せない今の状態では、他に何をする気にもなれない。
外の空気を吸うのも、気分転換にちょうどよかったなと小次郎は思った。
いくつかの電車を乗り継いで到着したのは、自分が思っていたよりもビルが林立するオフィス街だった。
ふわ……
駅を出てすぐ、懐かしさを感じる香りが鼻に入って来た。
つい最近も感じたにおいだが、はて、どこでだったか。
小次郎は疑問に感じながらも歩き始め、その香りが例の店から漂ってきているものだと分かった。
「ここか」
ふるぼけた看板に『カオル堂』の文字。
良い字だ、と小次郎は思った。
正統派である王義之の流れというよりは、どちらかというと我が道を進んだ顔真卿の流れを汲んでいる字だ、と感じた。
書く数の少ない文字はごまかしがきかないものだ。カタカナをここまで美しく書くとは、只者ではない。店主は書道家ではないという話だったから、どこかに外注したものだろうが、これを書いた人物は一角の人物だと小次郎は一人で得心した。
「ごめんください」
小次郎が入ると、店の中には誰もいなかった。
不用心なものだ、と訝しみながら、小次郎は店内を見渡す。
いくつもの棚があり、いくつもの品が陳列されている。自分がイメージしていたような棒状の香もあるにはあるが、円錐状のものや渦巻き状のものなど、なるほどそういうものもあるのかと小さく感嘆した。
ガラ、と音がして小次郎が目を向けると、店の奥にあった扉から、線の細い人物が姿をあらわした。
目が合い、小次郎は頭を下げる。
頭を下げながら、瞬間的に見えたその人物の顔に動揺していた。
美しい。
弘法大師の書のように、非の打ち所がない。
表面的な美しさもさることながら、その内側から気品がにじみ出てきているような、そんな印象をさえ受けた。
「いらっしゃいませ。秩父小次郎様ですね」
微笑みながら言葉を紡ぐ店主に、書家は頷いて応えた。
「御坊様から、電話で申し受けておりました。早速ですが、奥へどうぞ」
振り返るその様は、墨を含んで穂先を整えた筆のように美しかった。短く整えられた黒髪の艶は、何時間もかけて溶き出した濃墨のそれに似ていた。
小次郎は促されるまま、店の奥の扉をくぐり、もうひとつの扉も抜け、小さな部屋に案内された。
部屋には、駅を降りてすぐに感じたあの香りが漂っていた。
「この香りは……」
小次郎が呟くと、美貌の店主は先ほどの微笑みよりも、嬉しさを増して笑った。
「さすが書道家の方ですね」
店主は客に座るよう勧め、小次郎は一人掛けのソファに腰を下ろした。ソファはいかにも上等な造りで、その前に置かれたテーブルも、かけられたベルベットのクロスも、どれも一目で上質だと分かるものだった。
「書家の方を迎えてもらいたいという御依頼でしたので、浅慮ですが、竜脳を焚かせていただきました。なんといっても、炭をつくる際によく使われるものですから」
透き通った声に、小次郎は動揺を隠しながら「そうですか」と言った。そうか、この香りは、墨を擦っているときに感じるほのかな香りだ。馴染みがあるのは道理である。
「竜脳という名は知りませんでしたが」
小次郎が言うと、店主は微笑みながら小さく頷いた。
「インドネシア原産のリュウノウジュの心材にできる白い鱗片状の結晶なので、その名がついたそうですね。防虫・防腐効果があるとされ、混ぜ合わせた香として焚いたときに最初に感じる香りになることが多いですね」
ふむ、と頷きながら、小次郎は次の言葉を待った。
「それで、御坊様からは、お客様を迎えて欲しいとだけ言われておりましたので、こうして香りの準備だけはしていたのですが、他に何かご所望でしょうか」
店主の柔らかい微笑みに、小次郎は少し思考を巡らせる。
「所望できればよいのですが、何分、香のことなど何も知らないもので。実際の所、和尚がなぜ私にこちらへ向かうよう薦められたのかもよく分かっていないのです」
小次郎は丁寧に言葉を選び、軽く頭を下げた。
店主は聞きながら小さく何度か頷き、それから口を開いた。
「お香は仏教に深く関わっているという点では書に通じるものがありますから、何か得るものがあれば、というお気持ちがあるのかも知れません」
「お香は、それほど仏教に関わるものなのですか。確かに線香を立てたり、和尚の寺でも毎日香を焚いていたりしているようですが……」
そう言いながら、和尚の寺の光景を思い浮かべる。いつ行っても心地よい香りが漂っているからこそ、自分はあそこに足を運ぶことを厭わないのだ。
「歴史の古さという点では、書のそれに劣らないかも知れませんよ」
少しだけ自慢げな色合いを増して、店主は笑った。その笑顔に、小次郎はどきりとしながら次の説明を待つ。
「記録として香の歴史が最も古く確認できるのは、日本書紀です。ただ、それよりも以前から香は伝来していたと考えられていて、仏教とともに祈りの香りとして伝わってきたというのが定説ですね」
思いがけない言葉が登場して、小次郎は素直に驚きを言葉にした。
「日本書紀。それほど古い歴史があるのですか」
店主は満足そうに笑い、頷く。
「はい。主に魔除けや厄除け、実用的には虫除けなどの目的で使われてきましたが、平安時代になると貴族達の間で新しい文化が形成されていきました」
「まるで、漢字が仮名になっていったような話だな」
平安時代と言えば、万葉仮名が生まれた時代だ。貴族達が暇だったせいもあるかも知れないが、同じ時代に大きな変化をした文化は他にもあったはずだ。たしか、物語文学が多く生み出されるようになったのも、平安時代ではなかったか。
「そうですね。日本人は、外から取り入れたものを自分たち用にアレンジする力に秀でていますから……あ」
あ、という店主の呟きの意味が、小次郎にもすぐ分かった。
香りが変わったのである。
さっきまでの嗅ぎ慣れた香りから、少し刺激的な香りになった。
「これもお香の面白さです。作り方次第ですが、時間の経過で香る印象を変化させられます。科学の進歩で新しい方法も追求されていますし、なかなかに奥深いですよ」
ちょっと話しすぎてしまいましたね、と謙遜して、店主は「それでは、お香の世界をお楽しみください」と行ってそそくさと部屋を出て行ってしまった。
一人残された小次郎は、さっきの話を思い出した。
彼、いや彼女か。とにかく、出て行った香のスペシャリストは、香のことならなんでも知っていそうな風だった。それでいて、新しいことも学び続けているという。
自分はどうだろうか。
もちろん書の歴史や変遷について学びはしてきたが、いつ頃からか、その学ぶ姿勢を失ってはいなかったか。前衛書と呼ばれるような新しいスタイルや、海外向けの作品づくりなど、他にそれを学ぶという姿勢を忘れたのはいつ頃だったろうか。
「む……」
また、香りが変わった。
これを、落ち着きがないとは言うまい。
変化する、ということそれ自体に価値があるということもある。
小次郎は目を閉じ、しかし眠ることなく、ただ香りの変化と余韻を楽しんだ。
「お疲れ様でした」
小次郎が存分に浸って部屋を出ると、美貌の店主が立って出迎えてくれた。
「たいへん参考になりました」
店主は何も言わず、ただ優しく微笑んで、小さく頷いた。
「近々、香の焚き方を教わりに来ようと思いますが、今はすぐにでも帰って筆を持ちたいと思いますので、お暇致します」
小次郎は深々と頭を下げ、店を出た。
帰ったら、和尚に礼を言わなければならないな、と思う。
手土産には、自分の満足のいった書作品をいくつか、持って行くとしよう。
心にかかっていた霧が晴れ、視界すら明瞭になったように感じる小次郎は、軽い足取りで帰途についた。
作者の成井です。
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では、また。