第6話 丁字(ちょうじ)
「またクマ出来てるな、正宗」
友人に笑いながら言われ、青年はため息をついた。
「眠れていないんだから、仕方ない」
大学の食堂で頭を抱える正宗を、心配そうに、あるいは面白がって級友が囲んでいる。
「秋田にだって、ゴキブリくらいはいただろうに。何をそんなに怖がってるんだ」
正宗は首を振った。
「数が違うんだよ。一匹見たら百匹、なんて都市伝説だと思ってた」
「そりゃまぁ、東北の田舎から見れば、東京は都市そのものだからな。伝説も息づくさ」
正宗が落とした肩をポンポン叩いて、級友達は次の講義があるからと立ち上がっては去って行った。
正宗はまだ新しい手帳を開き、今日受ける講義が午前中で全て終わったことをあらためて確認した。午後はゆっくりできそうだ。
そうは言っても、寝不足がたたって食欲は沸かないから、このまま学食に留まっていても仕方がない。かと言って、帰ればまたカサカサと恐怖の音が鳴る部屋に居なければならない。
ため息が、またひとつ口から出ていった。
「正宗くんのアパート、そんなにひどいの?」
声がして顔を上げると、少し離れて、同郷の徒である緑が座っていた。
「ひどいってもんじゃないよ。金がないから仕方ないとは言え、まさかここまでとは、って感じだ。都内で安すぎるのは幽霊が出るからかなと思ってたけど、今となっては幽霊の方がマシかもと思ってる」
うなだれてから、正宗はハッとして顔を上げた。
いくらなんでも、女性の前でこんな姿を見せるのは、男がすたる。既に十分見せ続けたかも知れないが、正宗は思い直して、言葉を紡ぐ。
「緑さんのとこは、どんな感じ?」
問われて、緑は申し訳なさそうに視線を落とした。
「私は、親が心配性で、なんていうか、オートロックの、新しくて……」
おずおずと話す緑に、正宗は純粋なうらやましさを覚えながらも、まあ仕方が無いかとも思った。
それはそうだ、二十歳前の女の子が、都内の大学に通うとなれば、親は気が気でないだろう。間違いがあっては大変と、血眼で家探しをするのは過保護とは言えまい。
それに比べて、自分の親は「東京に行くと決めたのは自分、だから家も自分で探しなさい」と言って、小学生から貯め続けたお年玉をポンと渡されて、それでおしまいだった。
「自炊は苦じゃないし、バイトも充実してる。本当に、あの黒い奴だけなんだよ、問題は……」
両手を頭の後ろで組んで、正宗は体を反らせた。
ちらと視線を送ると、緑は細い指でスマホを操作していた。
そう言えば、大学に入ってスマホを持つようになったと言っていたっけ、と思い出す。そんなちょっとした話を聞いた限りでも、いいところのお嬢様なんだろうと正宗は感じていた。
入学式でばったり隣の席に座り、学科も同じで生まれも近いと分かって親しみを感じてはいるのだが、生活水準がこうも違うとなっては、その差をひがみたくもなるというものだ。
顔はかわいいというか美人というか、自分の好みだし、話していれば楽しいし、お近づきになれればと思うタイミングはあるのだが、この座る距離はそのまま、二人の身分の差だなと正宗は苦笑した。
「ゴキブリ退治用のグッズとかは、置いてるの?」
緑に問われ、正宗はう~ん、と唸った。
「効果があるようなないような、っていう感じなんだよな。しかも、あれが入った箱を捨てるっていうのがまたハードでさ……かかってないのに捨てたらもったいないから、一応中を見るじゃん。いなきゃいないで意味がないけど、いたらいたで、ほら、さ……」
言いながら昨夕の光景を思い出し、正宗は気分が悪くなった。
小さい頃から虫が得意だったわけではないが、あの油虫のせいで完全にダメになってしまったかもしれない。
「今調べてみたんだけど……」
緑が細い声で言葉を紡ぎ、正宗は体を前に出して、斜め向こうに座る緑に少しだけ近づいた。
「ゴキブリ対策で、ハーブとかお香が有効だっていう話が、あるんだって」
そう言いながら、緑がスマホを正宗に向かって差し出した。
正宗は丁寧にそれを受け取り、画面を見る。
なるほど、そこにはクローブというハーブが有効だとか、お香は虫除けにいいとか、それらしい情報が長く掲載されていた。
正宗は感謝を伝えながらスマホを返した。
「ありがと。参考にしてみるよ」
スマホを受け取りながら、緑はどういたしましてと嬉しそうに笑った。
うん、やっぱりかわいいなと正宗は思う。
「それじゃ、私、これからバイトだから、行くね」
「おう、頑張ってな」
手を振って見送って、正宗は自分のスマホを取り出した。
さっき緑に借りた物よりも、ずっと性能は落ちる機種だが、まあ、大切なのは身の丈に合った物かどうかだ。そしてこれは、今の自分の生活にしっかり合っている。
「ハーブ、ね……」
育て方や栽培方法などの単語を付け加えながら、検索をかけてみる。
しかし、そこに表示された情報は、正宗にとってあまり魅力的なものに思えなかった。
思い返せば、小学校で朝顔の観察日記も飽きてすぐに放り出してしまった。
「お香、虫除け、と……」
ハーブはなんとなくイメージがついたが、お香についてはあまりイメージがない。墓参りで嗅ぐ線香のにおいや、寺にあがったときの、あのなんともいえない乾いたにおいは割と好きな方だったが、あれらとは違うものなんだろうか。
検索結果で一番上に来たのは、地図だった。
お香屋さんがいくつか表示されているらしく、そのいくつかは、この大学からもそう遠くはないように思われた。
手持ちはそんなにないが、時間は潤沢にある。話を聞いて参考に出来る部分があればラッキーだし、運が良ければ試供品なんかももらえるかもしれない。
正宗はテーブルの上をさっと片付け、台拭きで簡単に拭いて、スマホ片手にキャンパスを出た。
キャンパスを出て最初の二軒を遠巻きに覗いて、正宗は自分の考えが浅はかだったと思い知った。
二軒のお香屋はいかにも金持ち御用達といった装いで、とても自分のような貧乏学生が気軽に入れるような感じではなかったのである。
ひとつめは高層マンションに住んでいる方々が好みそうな、やたらと硝子が多い壁の明るい建物で、ふたつ目は京都や奈良からそのまま運んできたような、由緒の正しさを全身でアピールしているような佇まいだった。
これが門前払いってやつだな、と正宗は苦笑した。
おとなしくホームセンターで虫取りの罠を大量に購入するしか無いか、と鼻で息をした、その直後だった。
ふわ……
鼻先に、少し刺激的な、しかしどこかまろやかな香りが漂ってきた。
近くにカレー屋でもあるのか。
でも、そんな複雑な香りでもないし。
風に乗って漂うその香りを追って、正宗は歩を進めた。
「カオル堂……」
いつの間にかオフィス街にまで来ていたらしい正宗の目に、近代的な街並には似つかわしくない古びた建物が見えた。
年代物の木製のドアに、輪を掛けて年代物のように見える木製のノブがついている。扉の上の方には店名が掲げられているが、開店中とも閉店中とも判断がつかなかった。
しかし、近くまで来て、先程から漂っている香りがこの店から流れてきているものだという確信があった。
見てきた二軒と違って、なんとなく、入りやすそうな感じもした。
正宗は意を決し、ドアノブに手を掛けて、引いた。思ったよりもシブくなかった扉は、あっさり開かれた。
「いらっしゃいませ」
店に入ると正面奥に、店主らしき人物が座っていた。
伝統工芸の職人が着るような和風の衣装をまとい、カウンターの上で何か転がすように手を動かしている。その手は白く、細く、美しかった。
「何か、ご入り用ですか?」
声をかけられて、正宗は緊張を覚えた。
慣れない店だからということもあったが、これまでに聞いたことの無いような、透きとおった声だったからだ。東京には、やはり色々な人がいるものだと驚かされる。
「実は、困っていることがあって……」
時間がないわけではないが、なんとなく場違いなような、居心地の悪さがあって、正宗は単刀直入に相談することにした。カウンターに近づくと、店主はきれいな声で椅子に掛けるよう促してくれた。
座って、頬を掻きながら、正宗は口を開く。
「ゴキブリ、なんですけど」
店主は少しだけ目を開いて、微笑みながら小さく頷いた。
「借りているアパートが古くて、頻繁に、かなりの数が出るんです。夜もカサカサ音がして、最近はそれが原因で寝不足気味にもなってしまって……」
ふむふむと頷きながら、店主は微少を浮かべている。
話しながら店主を見て、正宗は思わず感嘆のため息が出そうになった。
それというのも、店主の瞳が、銀の輪で縁取られていたからである。カラーコンタクトをつけていると自慢する学生は自分の周りにもいるが、それを見たときはどこか不自然に感じられたものだった。ところが、今目の前にいる人からは、その不自然さを感じない。生まれつき、こうなのか。さすがは東京だ。
「虫除けのお香はないか、ということですね」
店主に言葉を次がれ、正宗は頷いた。
「丁字というものがあります。コショウとともに東洋の代表的な香辛料として珍重されてきたもので、防虫効果や防腐効果があるとされています。フトモモ科の常緑高木の花蕾を乾燥させたもので、クローブとも言いますね。」
「あ、クローブっていうのは、知ってます。ハーブ、なんですよね」
正宗の知識に感心したのか、店主は嬉しそうに笑い、頷いてみせた。その美しい顔に、正宗は照れくさくなった。ついさっき知ったばかりの知識だが、役に立ったと思った。
「ハーブもお香も、人の歩みの中で愛されてきた文化のひとつですね。香りを楽しむこともそうですが、料理に使うこともあれば、虫除けのように生活の知恵のひとつでもあります。特にクローブは、ゴキブリが嫌う成分が多いそうですよ」
店主はそう言うと、音も無く立ち上がり、店内を歩き回っていくつかの商品を手に取り始めた。
正宗はそれを目で追うが、その所作の流麗さから、見ているというよりは見とれているという方が正しかった。
「丁字を使って作っている香としては、こういったものを取り扱っています」
店主はいくつかをカウンターに置き、並べて見せた。
「お香はひとつひとつ香りが異なりますし、中には体に合わないものもあるかもしれません。まして、この丁字は香りが強めなので、よろしければ、少しお試しになってみてからの方がいいかもしれません」
言われて、正宗は躊躇した。
確か、試しにどうですかと言われて試したら、後から高額な料金を請求されたというケースがある、という話を入学式の後の説明会で聞いたような気がした。
お香というのはいかにも金持ちが好んでいそうなものだ分かったし、後から請求されて飯を食えなくなったらたまったもんじゃない。
どう答えたものか逡巡していると、店主が「あっ」と声を出した。正宗はどきっとして、ぱっと顔を上げる。
「きっと学生さん、ですよね。大丈夫ですよ、お金をとったりはしませんから」
見抜かれた上に美しい笑みを投げかけられ、正宗は顔が熱くなるのが分かった。
「すみません、明日の飯にも悩む貧乏学生なもので」
頭を掻く正宗に、店主はフフッと笑いながら、カウンターの下に手を伸ばした。
持ち出したのは、陶器のような金属のような、不思議な質感の箱だった。
店主はその中から小さな袋を取り出し、正宗の前に差し出した。
「お試し用ということで、今日はこちらを持って帰ってください」
正宗は受け取って良いものかどうかためらったが、ひとまず両手でそっと受け取った。
「でもこれ、どうやって使えばいいのか、分からないんですけど」
「お家の中の、なんとなく嫌だなと感じる部分に、何かお皿を置いて、その上でこのお香を焚いて下さい。上の方に火を点けるだけで大丈夫ですから」
受け取った袋を持ち上げて、外から見たり、指で中の形を探ってみたりする。どうやら中には、円錐状の小さなものがいくつか入っているようだった。
「でも、いいんですか。俺が言うのもなんですけど、貧乏学生相手にサンプル渡しても、その後の商売に繋がらないっていうか……」
正宗の言葉に、店主は大丈夫ですと力強く言った。そして「それに」と付け加えた。
「私も苦手なんです、ゴキブリ。だから、お気持ちは分かりますよ」
笑う店主につられて、正宗も声を上げて笑ってしまった。
感謝を伝えて店を出て、正宗はまっすぐ家に帰った。
そしてバッグからお香を取り出し、実家を出るときに持たされた古い陶器の皿を一枚棚から抜いて、言われたとおりに火を点けた。
赤熱した山頂部から、細い煙が立ちこめてきた。ほどなく、カオル堂に入る前に嗅いだような、スパイシーな香りが鼻に届いた。
「なんとなく嫌だな、って所ね……」
正宗は独り言を呟き、にやりとした。
そんなのは、決まりきっている。
毎晩のようにカサカサ、カサカサと音を響かせてくる、台所そばの壁の穴だ。
お香が載った皿を穴の付近において、少し離れた場所で正宗はあぐらをかいて見守った。
じぃっと見つめてみる。
しかし、特に変化は見受けられなかった。
まぁ、だんだんと効果が出てくるものなのかもしれないし、おまじない程度に考えておくか。
安心したせいか、カレーのようなにおいに刺激されたせいか、正宗はにわかに空腹を感じ、随分遅くなってしまった昼食として何かつくろうと台所に立った。
買いためておいたもやしを二袋茹で、その間に冷凍しておいた米を電子レンジに放り込む。栄養としては心許ないが、とりあえず腹が膨れたらよし、だ。
準備ができ、ちゃぶ台にそれぞれを置き、正宗は穴をにらみつけながら箸を動かす。
皿の上のお香はまだ少し燃えているような感じだったが、上の方はすっかり白く変わっていた。そういえば、お香の効果はどれくらいで切れるものなんだろうか。店主は、ゴキブリが嫌う成分という言い方をしていたから、まあ、においが残っている間は安心できるのか。
結局その日、正宗は天敵に再会すること無く昼食も夕食も終え、久しぶりの熟睡を満喫することが出来た。
翌朝鏡を見ると、血色の良い顔が映っている。
こりゃたいしたもんだと思いながら、正宗は新しいお香を取り出し、火を点けた。
「無くなる前に、買いに行かなくちゃ、だな」
あの綺麗な店主さんにお礼も言わなくちゃな、と思うと同時に、パッと同郷の顔が浮かんだ。
そう言えば、お香の話をしてくれたのは緑さんだっけ。今日会ったときの話題にちょうどいいなと正宗は笑った。
作者の成井です。
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では、また。