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第5話 白檀(びゃくだん)

「ごめんください」


 男が店に入ると、美しい顔立ちの店主が出迎えた。


「いらっしゃいませ」


 出迎えられた顔と、店内に広がる複雑で心地よい香りに、ここで間違いないな、と男は確信した。

 『カオル堂』という名前、驚くほど美しい顔の店主、カウンターの横にある瓶とその中の白い植物。そのどれもが、彼女が教えてくれた通りだ。

 彼女は、店主が男か女か分からなかったと笑っていたが、こんなに綺麗な顔の男がいるはずがない。まず間違いなく、女性だろう。


「いきなりですが、先日、こちらに取材に伺った朝日という女性を覚えていますか」


 緊張した声で問う男に、店主は微笑んで頷いた。


「はい、覚えていますよ。雑誌の取材にいらした方ですね」


 男はほっと小さな安心をして、用意してきた言葉を次ぐ。


「私は、彼女と婚約している者で、あずま力士りきしと言います。今日は、感謝を伝えに参りました」


 微笑みは崩さず、しかし小首を傾げる店主に、東はにわかに照れを覚えた。これが男であるはずがないだろう、と病院で寝ているであろう恋人に向けて心の中で毒づく。


「あなたがしてくださった施術のおかげで、大病を早期発見できた、と彼女は言っていました。今は短期的に入院しているのですが、代わってお礼をしてきてほしいとのことで、自分が伺いました」


 家で何度か練習してきた通りに、東は言葉を紡ぐ。

 美貌の店主は頷きながらそれを聞いていたが、東が話し終えると、首を振って答えた。


「当店でしたことは、そんなに大それたことではありません。きっかけのひとつにはなったのかもしれませんが、朝日さん自身のお力があったからこそですよ」


 店主はそう言ってから、「素敵な恋人の支えもあってこそ、かもしれませんね」と笑った。思わず顔が赤くなってしまいそうな、魅力的な笑顔を向けられ、東はいかんいかんと心のタガを強くした。


「とにかく、彼女がすっかりお香に興味をもったようですので、今日は自分が退院祝いも兼ねて買い物に来させて頂きました」


「分かりました。お買い求めに来られたお客様を拒む理由もありません。それでは、どのような品をご所望ですか」


 美しい鳥が歌うような声で問われ、そこではじめて東は気付いた。


「退院祝いはお香にしてね。お礼も兼ねて、例のお店で買ってきてよね」


 朝日が何度もそう言うので、東は分かった分かったと笑いながら、店の名前と特徴を聞かされ続けた。そして首尾よく店に辿りついて、こうして品を選ぶところまで来た。

 しかし、考えてみれば、彼女が店でした不思議な体験や美しい店主の話は聞かされたのに、彼女がどんなお香を欲しがっていて、何を準備すればいいのか、まるで確認していなかった。

 数年の交際の間に何度もあったように、彼女は肝心要の部分を自分に教えなかった。東はまた心の中で毒づいた。今にして思えば、彼女自身、まだお香の買い方や選び方について分かっていないのでは無いかという気さえする。


「大変申し訳ないのですが、自分はこういうものにとんと疎くて……しかも、彼女がどんなものを求めているのかも分からないのです」


 東は観念して正直に打ち明けることにした。

 きっと、目の前の美しい店主は、何か自分たちに見立ててくれるだろう。美しい顔の人というのは、まあ、大抵は人に優しくしてくれるものだ。


「それでは、東さんが気に入った香りを買っていく、ということでいかがでしょう。恋人同士、似たような香りを好むことは多いですから」


 微笑む店主に、東は大きく頷いた。それと同時に、問いを口にする。


「しかし、好きな香りといっても、どう選べばいいのか……」


「あまり難しく考えなくて結構ですよ。とりあえず、ご自分の感覚で、三つ選んでみて頂けますか。色でも、名前でも、箱のデザインでも、あるいは形状でも。なんとなく、で大丈夫です」


 言われるがまま、東は店内を物色し始めた。

 店内には細々と色々なものが陳列されていた。

 円錐形の小さなもの、渦巻き状で蚊を寄せ付けなさそうなもの、『月』や『雫』など字面がきれいなパッケージ、何に使うのか分からない陶器のようなもの、和風な色彩の小さな巾着袋。

 お香の値段の相場が分からないまま来店したが、ひとまず、自分の給料で十分に買うことが出来るものばかりに思えて、ほっとした。

 東は、線香のようなスティックが入っているらしいピンク色の小箱をひとつ、親指くらいの大きさでコーン状のお香が入っているらしい黄緑色の小箱をひとつ、そして同じ形状で紅色のものをひとつ選んで、カウンターに持って行った。

 店主に促されてカウンター前の椅子に腰を下ろし、東は少し緊張して店主の言葉を待った。


「薔薇の香り、お好きなんですか?」


 店主が微笑んで言う。


「いえ、薔薇の香り……と言われても、ピンと来ないくらい、よく分からずに選んだのですが」


 東は正直に言葉を紡いだ。

 パッケージには色々書かれていたし、値札の側には何がどうのと細かく説明が書かれていたが、いかんせん男一人で慣れない買い物をするとあっては、落ち着いてじっくり読むことも出来なかったのである。実際のところ、東はまさにフィーリングで、色や形が気に入ったものを選んだだけだった。


「三つとも、ローズの、薔薇の香りですね。二度までは偶然、三度目からは必然と言いますし、三つとも選ばれたということは、きっとそういうことなのでしょう」


 微笑みをたたえたまま、店主は三つの商品の裏面を見て、カウンターの下から大きなケースを取り出した。金属のような陶器のような、不思議な質感のケースだった。

 店主は美しい所作でケースを開き、細い指でいくつかのお香を取り出した。


「三つとも、火を点けて焚くタイプのお香です。実際に煙を立たせてみますから、どの香りがお気に召すか、試してみましょう」


 カウンターには香を立てる器が三つ用意され、それぞれにお香が置かれた。


「少しだけご説明させていただきますね。これらの品は、すべて白檀という香木をベースにつくられた香です」


 聞き慣れない言葉に、東はとりあえず小さく頷いたが、あまり詳しい説明になってついていけなくなるのもまずいと思い、口を挟むことにした。


「すみません、香木というのは何か、そこから教えてもらっていいですか。せっかくの機会なので、ちゃんと覚えておきたいなと思いまして」


 内心は、恋人よりも詳しくなって優位に立ってやろうという下心でいっぱいだ。ただ、こんなことをきっかけに共通の趣味や話題が増えるというのは、二人のこれからを考えると決して悪いことでは無いだろうと思った。

 店主は微笑んで頷き、説明を続けた。


「香木とは、読んで字の如しで、香る木のことです。大きく二種類あって、伐採して熟成が進んだことで木そのものが香るようになったものと、外的要因で傷ができ、その傷を治すために集まった樹脂の成分が変質し香りを放つようになったものとがあります。白檀は前者で、常温でも香るのが大きな違いですね」


 ふむふむと頷きながら、東は懸命に頭の中にメモをする。まぁ、覚えきれない分は、あとでネットで調べて確認すればいいだろう。


「聞いた感じだと、どっちも貴重そうというか、高そうですね」


 店主の微笑みに、少し困ったような感じが加わった。


「ええ、特に後者の香木で有名な沈香や伽羅は、宝石やきんのようなものですから、年々価値が高まっています。気軽に試してみて下さいとは、ちょっと言いづらくなってきました」


 頬を掻きながら言葉を紡ぐ店主に、東も苦笑で応えた。


「ですが、サンダルウッドとも呼ばれる白檀は、それらに比べれば求めやすいですし、今あるお香の多くは、白檀のチップを使ってつくられています。東さんが選ばれたこれらも、そうですよ」


 そう言って店主にお香を指し示され、東は何やら愛着のようなものを感じ始めていた。


「どれもベースは白檀で、メインとなる香りはローズです。配合する分量や成分を微妙に変えている品ですから、違いが明確かと言われれば難しいかもしれませんけれど……」


 店主はカウンターに置いてある木箱を開けて見せた。中には白いシートのようなものが入っている。


「ひとつの香りを確かめたら、このシートで鼻の周りを包んだり、拭いてあげてください。ニュートラルな状態に戻りますから」


 東は分かりましたと答えた。


「鼻先から15から20cmほど離して通過させてください。鼻の前で止めてしまうと煙を吸い込んでしまいますから、気をつけて下さいね」


 スティック状の香を手に取り、逆の手で着火するための機器を操作し、店主は先端に火を灯した。小さなほむらはやがて落ち着き、緩やかに立ち上る煙だけが残った。

 細く華奢な指から、東の無骨な手に香が受け渡される。

 東は店主の言葉のとおり、受け取った香をゆっくりスライドさせた。

 しかし思ったほどに香りを感じることが出来ず、さすがに遠すぎたかともう一度、今度は少し高さを上げて香をスライドさせた。

 ふっ、と爽やかな香りが届いたかと思うと、次いで優しい甘い香りが漂った。菓子にあるような甘ったるさではなく、輪郭はしっかりあるのに内側が透明に色付いているような清涼感があった。

 シンプルな心地よさがあった。

 東は目を閉じた。

 薔薇の香りと先に聞いていたせいか、頭の中に薔薇の花が浮かんでくる。

 短い時間ながらぼぉっとして、慌てて東は目を開いた。

 美貌の店主が微笑をたたえている。

 東は何か恥ずかしさを覚え、持っていた香を店主に返した。受け取った店主がそれを皿に置き、さっき紹介したシートを一枚手渡して返した。

 ひとまずそれを受け取って、東は鼻の辺りを覆ってみる。予想としては消臭剤のような、あるいはアルコールのような強いにおいを考えていたが、存外、シートからはなんのにおいもしなかった。ただ、不思議なことに、さっきまで感じていた甘い香りは感じられなくなり、シートを顔から離すと自分の周りだけが新鮮な空気になっているような錯覚を覚えた。

 店主は続けて二つ目の香に火を灯した。小さな円錐状のてっぺんから煙が上ってきて、その皿ごと受け渡された東は、丁寧に受け取って皿ごとスライドさせた。

 今度の香りは、より甘い香りだった。どこかで嗅いだことがある香りだと思い、目を閉じて記憶を探る。

 あっ、と思い至ったのは、蜂蜜だった。

 小さい頃、親が焼いてくれたホットケーキにかけようと思って開けた蜂蜜の瓶の、蓋を開けた瞬間の芳香。それをより繊細に、クリアにしたような柔らかい甘さだった。

 思えば薔薇の花に鼻を近づけたことなどないのだから、これが薔薇っぽいのかどうかは分からない。ただ、植物らしいな、という気はした。

 東は一度目と同じように、香を店主に返し、シートを受け取り、鼻を回復させて、次の香を受け取る。

 最後の香りは、それまでのふたつとは大きな違いがあった。

 甘さよりも、やや刺激的な香りだった。東の言葉に浮かんだのは、スパイシーという言葉だった。もちろんカレーやステーキを想起するような強さではないにしろ、先の二つと比べると違いは明瞭だった。

 面白いとは思ったが、好みではないな、と東は思った。

 それと同時に、こんなに違いがあるものなのかと感心した。


「いかがでしたか?」


 香の乗った皿を受け取りながら、店主が言葉を紡ぐ。


「最初のが、一番好きでしたね。こんなに違いがあるとは思いませんでしたけど」


 なぜだか照れくささを感じ、東は頭の後ろを掻きながら言った。

 店主は「そうですか」と微笑みながら、三つ目の香に何かシートのようなものをかけた。おそらく、店内に香りが広がるのを防ぐためだろうか。あらためて見れば、一つ目と二つ目の香には既にシートが被さっていた。


「それでは、ひとつめの物をお買い求めになりますか?」


 店主に言われ、東ははたと考えた。

 自分にとってはこの香りが一番だったが、彼女はどうだろうか。

 目の前の専門家は、恋人同士で好きな香りが似るというようなことを言っていたが、食の好みから酒の好みまで、自分たちはとにかくずれる。今日はラーメンにしよう、と意気投合したかと思えば、塩か醤油か味噌かで同じ注文になることはない。一杯飲みに行くかと言うところまではいいのに、ビールかハイボールかで同じグラスになることはない。


「いや、三つとも買います」


 微笑みから、小さな驚きの表情になった店主に、東は言葉を次いだ。


「彼女にも、三つとも感じてもらって、どれを選ぶのか試してみようと思うんで」


 なるほど、と言うように店主は二度三度頷いて応える。

 会計を済ませて紙袋に商品を入れ、それを渡しながら店主は口を開く。


「白檀は心を落ち着ける効果があり、ローズは女性の幸福感を高める効果があると言われています。それらのことから、薔薇を用いたお香は恋愛に良い影響を与えると言われていますので、お二人にとって良い時間が訪れることを陰ながらお祈り致します」


 東は満足げに笑いながら、ありがとうございますと答え、店を後にした。

 誰もいなくなった店で、店主は三つの香を片付け、レジの側に置いてあった一枚の名刺に目をやった。そして手近な付箋に「恋人 あずま りきし様」と書き、その名刺にそっと貼った。

作者の成井です。


今回のエピソードをお読み頂き、ありがとうございました。

「面白い話だった」「続きも読んでみよう」と思って頂けたなら、

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では、また。

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