第3話 伽羅(きゃら)
日が昇り始め、空が白んできた。
男はふらふらした足取りで大通りのガードレールにたどり着き、もたれかかった。
少し飲み過ぎたか、と男は苦笑した。
「景虎く~ん、お願~い」
この夜は、乳と尻が一際でかい女に求められるまま、店で一番値が張るというボトルを注文し続けた。3本目までは数えていたが、それから先のことはよく覚えていない。ただ、自分の酒をそこらの男どもにも飲まれているのが目に入って、それがしゃくに障り、既にいっぱいだった腹に流し込んでいった。
一晩で数百万と使い込んだのは、いつぶりだったろう。
まぁ、別に良いか、と景虎は笑った。
自分の属するチームは、警察の目をかいくぐっていくつもの『仕事』を成功させてきた。しかも、先月は調子が良く、情報弱者の代表みたいなジジイやババアが次々と引っかかって、あっという間にン千万の稼ぎをたたき出したのだ。
仮に面倒なことになっても、末端の、脳足らずなガキどもが年少か少年院に入れられるだけで、自分の所にまで捜査の手が及ぶことは、絶対にない。
こうしている間にも、自分が管理している、しかし越乃景虎ではない名義の口座には、また大金が振込まれているかも知れない。
へへ、と声が漏れ出た。
大通りには、まだ出社する社畜どもすらほとんどいない。
いるのは、自分と同じような酔っ払いや、そんな酔っ払いを相手取って高い金をふんだくっている夜の仕事の手合いくらいのものだった。
ふわ……
不意に、嗅ぎ慣れないにおいが漂ってきた。
クラブの女どもの香水が、自分の服にも染み付いたか。
それとも、自分がつけた香水のにおいか。
そのどれとも違うような、それどころか今までに一度も経験したことのないような、不思議な甘い香りだった。
うつろな目できょろきょろ見渡してみるが、それらしい店は見当たらない。
景虎はガードレールに預けていた尻を持ち上げ、ぼりぼりと掻きながらふらふらと歩き始めた。
「なんとなく、こっちのような気がすんだよな……」
においを辿ると言うよりは、勘に突き動かされるように景虎は歩を進める。
「お……」
あった、と確信を覚えた。
目に入ったのは『カオル堂』というぼろぼろの看板を掲げた、そこだけ歴史に取り残されたような古くさい建物だった。
しかしそんな見た目とは裏腹な、漂ってくる芳しいにおいに、景虎は惹かれていた。
こんないいにおいのする香水が手に入ったら、話題としては面白いし、それを餌にして女をひっかけることも出来るだろう。とにかく女ってのは、高い物や珍しい物をちらつかせると股を開く。それが本当に高いかどうか、珍しいかどうかも知らないくせにと景虎はいつも心の底では笑っている。そもそも、自分にもその真贋は分かっていないのだが。
建物の中に電気が点いているのを見て、景虎は古い木のドアを引っ張った。思った以上に重く、ギギィと鈍い音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
景虎は、酔いが覚めたような気がした。
なんだこいつは、と芯から驚いた。
こんなに整った顔の人間がいるのか。
金に物を言わせて、テレビに出ているような人間に会ったこともある。整形を繰り返した人形面も見た。読者モデルだと自慢する女を、札束で釣って抱いたこともある。
だが、そのどれと比べても、目の前にいるこいつには、決定的に劣る。
艶めかしい艶のある黒髪に、透きとおるような白い肌、どこか漂う色気。
そして、よく見ると両目の瞳が、銀色の円で縁取られている。カラーコンタクトをはめているだけだろうが、ミステリアスな雰囲気を醸し出していた。
景虎は好色な目を隠そうともせず、視線を下に向けていく。
しかし、胸の大きさは着ている服からは判然とせず、尻は角度的に見ることが出来なかった。
「何かお求めですか」
透明感のある美しい声で言葉が紡がれ、景虎はハッとなった。
「ああ、なんかいいニオイがすると思って、ふらふらとね」
そう言いながら、景虎は店内を見渡した。
どこかで見たことのあるような線香みたいなものもあれば、こじゃれた箱、小さな壺みたいなものもあった。ただ、それらのどれをとっても、景虎のこれまでの人生には関わりが無かったものばかりだ。
「香りは一人ひとり好みが違いますからね。お客様は、何かお好きな香りはありますか?」
好きな香り、と言われて、景虎は少し考えを巡らせた。
俺の大好きなニオイだ、と女にはよく言うが、ただの建前だ。どれを嗅いでも香水くせぇと思うばかりで、良いニオイだと思ったことはない。
「いや、特にねぇかな。さっきの甘いやつは、悪くなかったけど」
甘いやつですか、と美貌の店主は手を顎にあてて考える仕草を見せた。
その手の華奢なのを見て、景虎は劣情がもたげてくるのを感じた。
「香りは五つで分類されます。五味といって、甘、酸、辛、苦、そして鹹です。甘い香りが好きと言うことであれば、そうですね……」
店主はそう言って、店内を歩き回り、いくつかの商品を手に取っていく。
景虎はすかさず臀部に視線を注ぐが、やはり着ている物が体のラインを隠してしまっていて、よくは分からなかった。
このまま後ろから襲ってしまおうかと思うほどに下腹に熱を感じ始めていたが、自ら手を汚すのは自分のやり方ではないと思い、すんでのところでブレーキをかける。
「あのさぁ」
景虎が口を開くと、店主は振り返った。表情にはほほえみが浮かんでいる。
「せっかくだから、一番高い奴をくれよ。金ならいくらでもあるんだ、俺は」
それを聞いて店主は、微笑んだまま視線を横に動かした。そして景虎を見つめ直して、口を開く。
「伽羅という香木が、もっとも高級です」
「きゃら?」
「はい。沈香という、インドシナ半島やインドネシアなどで産出される代表的な香木があります。長い年月をかけて樹脂が化石化したものです。伽羅とは、その沈香のなかでも、ベトナムの限られた場所でのみ産出する極上品のことで、古来より珍重されています。年々価値が高まり、1gで3万円以上するものもあります。」
へぇ、と言いながら、景虎はそれがどこにあるのか、店内を見回した。しかし、それがどんな形なのかも分からず、探しようがなかった。
「1gで3万ってのは、たいしたもんだな。持ってれば自慢できるじゃんよ」
店主は微笑んで、そうですねと頷いた。
「実際、資産家の方が香木をお求めになることもありますよ。常温で香るものも多いので、特別に焚き方を知らなくても、ということもありますから」
それならひとつ、と景虎が口を開きかけると、それよりも早く店主が口を次いだ。
「ただ、せっかくお求めになるのであれば、香を体験してみるのも一興かと思います。もしお時間があれば、いかがですか」
景虎は一瞬面倒にも感じたが、この店にたどり着いた甘いにおいに心惹かれて、店主の申し出を了承することにした。
「まぁ、時間はあるよ。金も時間も、たっぷりあるといえば、ある」
にやりと笑う景虎に、店主は微笑んで応じた。
どういうことかと尋ねてくるかと思ったが、当てが外れたなと景虎は思った。金が潤沢にあるそぶりを見せれば、どんな女でも、どういうことかと聞きたがるものだが。しかし酔いが残っているせいか、景虎の口は抵抗なく開き、饒舌に言葉が紡がれる。
「お金持ちのじいさんやばあさんから、お恵みを頂いていてね。大体、タンス預金だとかなんとかで金を貯め込んでる奴が多いもんだから、経済が回らないのさ。言ってみれば、俺は社会に貢献してるんだよ、経済を回すっていう意味ではさ」
景虎の言葉を聞いているのか聞いていないのか、店主は手に持っていた品の数々を棚に戻し、カウンターに向かった。そしてカウンターの下から、何か黒い木の箱を取り出して、そのまま店の奥にある扉に向かう。
「こちらへどうぞ」
調子が狂うな、と苦笑しながら、景虎は店主に続いた。
扉は二重になっていて、その奥には小さな部屋があった。
さっきまでいた店内には複雑な香りが充満しているような気がしたが、部屋に入るとまるでなんのにおいもなく、壁の殺風景さも手伝って、異世界に迷い込んだような感覚に囚われた。
店主が一人がけのソファを指して、景虎に座るよう促した。景虎はそれに従って腰を下ろした。体がひどく重く、上質そうなソファにぐったりと体重を預けた。
それから店主は、ソファの前にある四角いテーブルの上に、持ってきた黒い箱を置いて蓋を開けた。そして中から黒い塊をひとつ取り、同じくテーブルの上にあった小さな入れ物の上にそれを置いた。
「それでは、ごゆっくり」
それだけ言って、店主は早々に部屋を出て行った。手には黒い箱を持って帰った。
一人残された景虎は、しまった、この部屋で押し倒せたら、無理矢理やれたんじゃないかと小さく後悔をした。
それにしても、あの店主は何者なんだろうと顔を思い浮かべる。
女一人で、この土地代の高い場所で店を構えるとは、中々のもんだ。いや、そもそも女なのか? 女だと思い込んで見ていたが、思い出してみると女にしては胸も尻も出ていなさすぎやしないか。いやしかし、そういう体型の女も、それはそれで……
景虎が、そんな埒もないことをあれこれ考えている内に、部屋に変化が起き始めた。
熟れた果物を、さらに二、三日放置したあとのような、甘さと酸っぱさが混じったようなにおいが立ちこめてきた。瞬間的には甘くていいにおいだと思ったが、鼻の先に嫌な感じが残り、その感覚は鼻の奥にまで上ってきた。
これが高級品のにおいだなんて笑わせる、と景虎が一笑に付すと、今度は店主が置いていった黒い小さな玉から、もうもうと濃い灰色の煙が立ちこめ、部屋全体に広がっていった。
煙の多さにぎくりとしたが、不思議と景虎の体は動かなかった。
麻痺や金縛りといった類のものではなく、煙から目を離すことが出来なかったのである。
煙は部屋中に充満し、おぼろげに見えていた壁も見えなくなってきたあたりで、景虎の目に映ったのは人影だった。
まばたきを繰り返し、数度目をこすり、頬を叩いてみても、人影は消えない。それどころか、次第に輪郭をはっきり整えてきているように見える。
さすがに飲み過ぎたかと思ったが、頭は冴えてきているような感じがして、これが酔いのための幻覚とは違うようにも思える。
輪郭ははっきりと線を結び、煙の中に老婆が出現した。
見覚えのないばあさんである。
顔をしかめて老婆を見ていると、その隣にまた影が現れ、それは老爺になり、また隣に、そのまた隣に老婆がと続き、気が付けばソファに座る景虎を、見知らぬ皺だらけの顔が取り囲んでいた。どの顔も無表情で、生気の無い色をしていた。
あまりにも現実離れした光景に、景虎は声を出すことも出来ずに口を開けたまま固まった。
言葉が出てこず、目だけを動かして彼らの様子を窺う。すると、彼らがその手に何か、ひらひらしたものを持っていることに気が付いた。
それは通帳だった。
どの通帳の、どのページも、真っ黒く塗りつぶされている。
ぎょっとすると同時に、閃きというのは突然舞い降りるもので、景虎ははたと悟った。
ここに見えているジジババは、自分が仕掛けてきた特殊詐欺の被害者達なのだと。
……てことは、何か。
それを苦にして死んで、化けて出たとでも言うのか。
深く腰を沈めた景虎の顔に、幾人もの皺だらけの顔が近づいてくる。その顔に生気はなく、うつろな目はくぼんで瞳が無いように見えた。
言いようのない不安と恐れに包まれて、景虎は強く目を閉じた。目を閉じたせいで嗅覚が鋭敏になる。鼻の奥にぎりぎり留まっていたはずの甘いにおいは失せていて、腐った果実のにおいと、それを追いかけて、嗅いだことのない異臭が鼻腔を刺激した。
黒カビの生えたチーズを水に溶かし、それをさらに濁らせたような不快な悪臭だった。
吐き気を覚え、景虎は暗闇の中で口を押さえた。
不意に、がちゃ、という音がした。
バッと顔を上げると、見えたのはあの店主だった。
「助けてくれ!!」
情けなく裏返った声で叫ぶと、店主はすっと歩いて景虎に近寄り、横で膝を折った。
「いかがなさいましたか」
「いかがも何も、こいつらをなんとかしてくれよ!」
景虎は必死に仰け反りながら、煙の中の老人たちから遠ざかろうと努力する。しかし、店主はまるで焦る様子もなく、ただきょとんとした表情を浮かべるだけだ。
「やめろ、近づくんじゃねぇ!! 俺じゃない、俺じゃないだろうが!!」
たまらずぎゅうっと目をつぶり、景虎は背中を丸めて縮こまった。
自分の衣服に染み付いた香水ににおいがほのかに漂い、嫌なにおいを瞬間的に忘れさせた。
スッと肩に柔らかいものが触れ、驚き慄いて、景虎の体は大きく跳ねた。
「お客様、何の話をなさっているのですか」
景虎が恐る恐る目を開くと、表情のない店主がそこにいるのみで、老人の群れも、充満していたはずの煙も、どこにもなかった。
店主の口が動き、何か言葉を発しているように見えたが、景虎の耳には聞こえない。
代わりに聞こえてくるのは、しわがれた声で、延々と「返せ」「許さない」「償え」などと繰り返される呪詛だけだ。
景虎は立ち上がろうとして、膝が笑い、太ももを二度三度叩いて、慌てふためいて前のめりに、小部屋の扉に手をかける。その間も、呪詛は耳元で繰り返される。手が滑って、一枚目の扉にも、二枚目の扉にも手間取り、景虎はまさに逃げるようにして店を出た。
店主は、客とも言えない男が部屋から出ていくと、何も言わずに香炉に蓋をした。
そして部屋を出て、カウンター奥のガラスケースに飾られた、値のつけようのない大きく見事な伽羅を見て、やれやれとばかりに首を振った。
その夕方、テレビはどのチャンネルでも同じようなニュースを報じていた。
「今日、大規模な特殊詐欺グループがスピード検挙されました。長年にわたって犯行を続けてきた組織で、リーダー格の一人が突如自首し、全容を暴露したためとのことです。男の名前は……」
作者の成井です。
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