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第2話 甘松(かんしょう)

 長く息を吐くと、奥から吐瀉物のにおいが口に蘇る。

 夜も戻して、朝も戻して、空っぽの胃の中からは緑色の苦い液体だけが出てきた。

 それでも女はスーツを着て、満員電車に揺られて、誰かに臀部を触られても抵抗する気力もないままに、流されるようにしてオフィス街に辿り着いた。


「オイ、吉野桜ぁ!」


 怒鳴り声を浴びせられ、女は振り返った。

 しかしそこに声の主らしき人物はいない。勢いよく振り返った、若い、しかし顔色の悪い女を気味悪がる数人が、彼女を避けて通っていっただけだった。

 いよいよ幻聴まで聞こえてきたかと、彼女は長く息を吐いた。また、嫌なにおいがした。

 大学の卒業祝いに自分に買ってあげた腕時計が、出勤時間までそれほど余裕がないことを教えている。

 しかし、彼女の足は根を張ったように駅から数歩歩いたところで止まった。

 ブラック企業、過労死、労働基準、自殺、弁護士。

 これまでに考えたはずの単語がぐるぐる頭の中を巡る。

 しかしその思考は、記憶の中の怒鳴り声にいつも寸断される。


「ホイホイ辞められるわけがねぇだろうが」

「青森の実家に迷惑がかかるんじゃねぇのか」

「せっかく東京に来たのに、応援してくれる家族に申し訳ないとは思わねぇのか」


 めいっぱいなじられて、決まって最後には「いいから契約とってこい」と吐き捨てられる。

 もう、限界だ。

 毎朝の儀式がかった挨拶練習を思うだけで、涙があふれてくる。

 助けて欲しいのに、誰にどう求めていいのかも分からない。

 大学でも高校でも、中学校でも小学校でも、助けの求め方を教わらなかったような気がする。


 ほわ……


 不意に、優しい香りがした。

 口の中に広がっていた吐き気とは真逆の、清涼感。

 何か、懐かしいような、でも、自分が知っている香りとは違うような。

 桜は立ったまま目を閉じて、すり切れた神経を鼻に動員した。

 林檎をかじったときに口に広がる香りのように感じた。

 香りは、風に乗って漂ってきていた。

 そういえば高校生の頃、こんな風に、テニスコートで緑の香りを嗅いだっけ。

 でも、こんなコンクリートジャングルで、植物のにおいなんてするはずがないのに。

 桜は目を開けて、ふらふらとおぼつかない足取りで、香りが漂ってきているであろう方向に歩いていく。その方向は、出勤しなければならない会社には続かない道だったが、桜は気に留めずふらふらと進んだ。


「カオル堂……」


 桜が辿り着いたのは、古びた一軒のお店だった。

 お線香屋さんだろうか。

 青森の実家に居た頃、祖父母に連れられて仏具を買いに行き、お線香を選んだことがあった。きっと、それと同じようなお店だろう。

 長い歴史を感じさせる質感をした木の扉には、開店とも準備中とも表示がない。営業時間は、ときょろきょろ見回してみても、それを教えてくれるものは何もない。

 しかし、どんなお店でも、早くて9時、多くは10時の開店だろう。

 今はまだ朝の8時よりも早い。

 桜は立ち去ろうかと思ったが、ダメで元々と扉に手をかけ、押してみた。

 しかし、扉は動かなかった。

 それもそうか、と思いながら、今度は力を入れて引いてみる。

 ギッ、と手応えがあった。

 そのまま扉を引くと、中からは複雑な香りがふわふわと漂って外に出てきて、風に乗って街中に旅立っていく。

 桜は扉を引ききり、小さな声で「ごめんください」と言いながら店内に足を進めた。


「いらっしゃいませ」


 細々したものが並べられた棚の前に、店主らしき人物が立っていた。

 ぎくりというべきか、どきりというべきか、桜の鼓動が大きくなった。

 それというのも、店主の容貌のためである。

 店主の髪は美しく艶のある黒で、上質なベルベットのような気品があった。長さは短めに整えられていて、それを見て男とも女とも判じかねた。

 まとった作務衣は体のラインを隠し、華奢なようにも見えたが、そうではないかもしれなかった。

 そして何より、桜を見据えるその瞳は、銀の輪で縁取られていて、どこか幻想的な雰囲気を漂わせていた。


「こんなに朝早くから、すみません」


 桜が言葉を紡ぐと、店主は柔らかく微笑んだ。同性にしても異性にしても、若い桜を虜にするには十分すぎる美しさだった。


「とんでもない。朝にしか時間のない方もいらっしゃるかと思い、時々、こうして早い時間に開店しているんですよ」


 店主は笑ってそう言うと、カウンターの方に歩いていった。そしてカウンター奥に立つと、その前にあるベンチを指して言葉を紡いだ。


「よろしければ、お掛けになって下さい」


 透明感のある声にいざなわれて、桜は吸い寄せられるようにベンチに座った。ふくらはぎの筋肉が弛緩していくのが分かった。


「お疲れのようだとお見受けしましたので」


「すみません、気を遣って頂いて」


 桜はそう言うと、長く息を吐いた。また、嫌なにおいがこみ上げてきて、桜は慌てて両手で口を覆った。思わず「まいね」と郷里の言葉が次いで出る。せっかく良い香りに満ちたお店なのに、こんな汚らしいにおいを混ぜるわけにはいかない。


「もしかして、青森の方ですか」


 店主の言葉に、桜はぱっと顔を上げた。驚いて目を開くと、店主がにこやかに見つめている。


「知己があって、津軽の言葉に聞き馴染んでいるので、もしかしたらと思いました」


 その瞬間、桜の両目に涙がたまり、留まることなくあふれ出した。桜はとっさにハンカチを求めたが、スーツのポケットにそれを見つけることが出来ず、バッグを開けようとしたが手間取ってうまくいかない。

 ふと手に柔らかい何かが当たり、それがタオル地だと分かると、桜はそのまま両目を覆った。

 情けない、と思った。

 就職して上京して、すぐに津軽訛を馬鹿にされた。悔しくて恥ずかしかった。それからなんとか共通語っぽく気取ったしゃべり方をしてみてはいるものの、やれ田舎者、やれズーズー弁だのと言葉尻を笑われる。慣れたと思っていたが、不意に指摘されて、弱った心の薄い殻が剥げてしまった。


「申し訳ありません、他意はなかったのですが」


 声が近い。

 覆っていた物を下ろして目を開けると、眼前に銀の縁の瞳があった。

 鼓動が一段と大きくなり、桜は慌てて口元を覆った。


「決して悪意も害意もありませんでした。傷つけてしまったことをお許し下さい」


 先程の微笑みと打ってかわって、店主は寂しげな表情を浮かべている。


「すみません、ちょっと、敏感になってしまっていて」


 ベンチに座る自分と、どうして目の高さがあっているんだろう。そう思って桜が店主の姿勢を見ると、まるで中世ヨーロッパの騎士がするように跪いているのが分かった。


「あ、あの、すみません、そんな姿勢で」


 桜の言葉を聞いて、店主はどこからともなく簡易な折りたたみ椅子を取り出して、桜の正面に座った。


「見ず知らずの私が、お話を聞いたりお力になったりすることは難しいかも知れません。ただ、ここには色々な香りを取り揃えています。何か、好きな香りなどがあれば、店内で聞いて頂いて結構ですよ」


 店主の言葉に、桜は首を傾げた。


「店内で、聞く、というのは」


 店主はまた、優しい微笑みを浮かべた。


「お香は、嗅ぐとは言わずに、聞く、という表現をするんです。不思議ですよね」


 にこ、という表現がぴったり当てはまる笑顔に、桜はつられて笑みを浮かべた。なんて素敵な顔の人なんだろう、とあらためて感心する。


「あの……」


 桜は店内をきょろきょろ見渡して、自分の求める物が見当たらないと思いながらも心を紡ぐ。


「果物みたいな香り、ありますか。その、林檎みたいな」


 このお店にいざなわれたときに鼻腔をくすぐった緑の香りを、もう一度味わいたいと思った。


「ありますよ」


 店主はそう言って立ちあがり、店に入ってすぐの机に広く並べられている商品をいくつか持ち、あらためて桜の前に腰を下ろした。その所作が、どれもどこか気品があるような感じがして、桜はうっとり見取れてしまった。


「いくつかの果実から抽出したオイルからつくったものです。甘松という、ヒマラヤ高地や中国、インド東北部に産出するオミナエシ科の草の根茎も入っているので、果物そのものよりも、少し深い香りがします。常温でも、少しは香ると思います」


 そう言って店主は封を開き、薄緑のスティックを取り出して桜の前でゆらゆらと振った。

 ほわん、と懐かしい香りがした。

 りんごの皮を剥き始めた最初に飛び散る、みずみずしいしぶきのようなさわやかさだった。

 思わず桜は目を閉じ、嗅覚に神経を集中させた。

 懐かしいな。

 そういえば、ふるさとのりんごなんて、食べなくなってどれくらい経つだろう。実家の両親が送るよと言ってくれるたび、皮を剥くことすら億劫に思って断ってしまうようになっていた。


「いいにおい……ううん、いい香り」


 ひとりでに言葉が口から出ていった。

 爽やかな沈黙が、二人の間を通り過ぎる。


「お客さま、もう少し、お時間を頂戴してよろしいですか」


 店主の声にはっとして、桜は手首を返して腕時計を見た。

 まずい、と思って立ち上がると、ぐっと強い力が桜を制した。

 見れば、店主が腕時計の少し上を押さえている。店主の腕は細く華奢なのに、どうしてといぶかるほどに強い力だった。


「きっと、あなたにとって、大切な意味をもつ時間になりますから」


 先程までのにこやかな表情とは違い、真に迫った、強く美しい視線に貫かれて、桜は思わず腰を下ろしてしまった。

 ……まぁ、いいか。

 どうせ、就業10分前に出社していなければ、それ以降何分遅れたって、ペナルティは確定だ。

 もう、どうにでもなれ。


「わかりました」


 桜がそう言うと、店主はさっきと違って優しく柔らかく桜の手をとり、店の奥に導いた。

 二重になった扉を開くと、そこは殺風景な小部屋で、中には一人がけのソファと小さな四角いテーブルがぽつんと置かれているだけだった。

 店主に促されるままに桜はソファに腰を下ろし、店主は手慣れた様子で、品良くテーブルの上の陶器を開け、何か黒くて小さな塊を置いた。


「よくお聞き下さいね」


 それだけ言い残して、店主は部屋から出て行ってしまった。

 ひとり残された桜は、うっすら灯されたダウンライトを少し見て、それからほどなく目をつぶった。

 疲労のせいだろうかか、全身がだるい。

 目を閉じて、舌の奥の苦みと喉の奥の痛みを思い出す。

 それも通り過ぎると、桜の感覚はただ甘い香りだけを感じ始めた。

 さっきのお香の香りとは、少し違う気がした。

 りんごのような香りだけど、もっとずっと未熟で、青臭くて、でも懐かしい。

 遠い記憶に重なりかけて、桜はそれを追う。


「わぁ(私)、このにおい大好きだぁ」(わ=わたし)


 小学生に入るか入らないかくらいの自分が、誰かに笑いかけている。


「んだば、桜さ、この畑ば継いでもらえばいいがな」

(それなら、桜にこの畑を継いでもらえばいいかな)


 おじいちゃんがそう言って、隣でおばあちゃんが笑っている。

 そうだ。私、おじいちゃんとおばあちゃんが大好きで、しょっちゅう家に遊びに行って、畑作業を手伝わせてもらってた。

 色々なことを教わって、学んで、本気でおいしい林檎をつくる人になるんだと息巻いていた。

 それが、いつからか、クラスメイトと競争するようになって、何かにあおられて、東京の会社に勤めるのが人生の正解なんだと考えるようになって、受験して、受験して、いくつもいくつも面接して……これは私が本当にやりたいことなんだろうかなんて、考える時間もないまま1年が過ぎて。

 目の奥が熱くなった。

 戻りたい。

 どこかのタイミングに戻って、やり直すことが出来たら、どんなに救われるだろう。

 桜は目元をこすり、勢いで目を開いた。

 いつの間にか部屋が煙で満たされていることに気付いた。

 涙でぼやけた視界に、人影が見える。

 店主さんが、部屋に戻ってきたんだろうか。

 そうではない事実に気がついて、桜は口を開いて言葉を失った。

 おじいちゃんがいた。

 おばあちゃんもいた。


「なして? だって、ふたりともわぁが中学生の時に死んでしまったばな」

(どうして? だって、ふたりとも私が中学生の時に死んでしまったじゃない)


 振り絞るように声を出すと、ふたりは悲しい顔で桜を見つめる。


「わぁもふたりの方さ行きてぇじゃ。毎日忙しすぎるし、誰も褒めてけねし、しんどいじゃ」

(私も二人の方に行きたい。毎日忙しすぎるし、誰も褒めてくれないし、つらいんだもん)


 桜がそう言うと、祖父はすっと両手の平を上に向けて差し出した。

 足に力が入らず、桜は座ったまま背すじを伸ばし、そこに何があるのかを見る。

 手の平には、光があった。輝きのせいで、それが何なのか、よく見えない。

 目を凝らしている内に、光はだんだんと輪郭を明瞭にし始めた。

 現れたのは、花弁である。

 それを見た瞬間に、桜は「あっ」と声が出た。


「そうだ……この香り、林檎の花の香りだ。んだはんで、こたらに懐かしいんだ」

(だから、こんなに懐かしいんだ)


 花をよく見て、木が元気かどうか、教えてもらえ。

 遠い記憶の中のおじいちゃんの言葉が、今言われたように蘇る。

 おじいちゃんとおばあちゃんの林檎畑、今からでも継げるかな。

 ぱっと顔を上げると、そこに祖父母の姿はもう無かった。立ちこめていた煙も、嘘のように霧消した。

 桜は口の中に林檎の清涼感を覚えて、体の中に澱んでいたぐるぐるした何かが感じられなくなっていることにも気付いた。

 陶器の中に置かれた黒い玉はすっかり無くなっていて、ただ灰だけが残っていた。


「おかえりなさい」


 二重の扉を通って店に戻ると、美貌の店主が迎えてくれた。奥の部屋に行く前と同じように、穏やかな微笑みをたたえていた。

 ただ、奥の部屋に行く前と違って、スーツ姿の凛々しい男性もそこにいた。いかにも高級そうな、艶のあるスーツをまとい、イタリアかどこかで売っていそうなおしゃれなネクタイを締めて、どこかで見たことのあるバッジを着けている。


「おせっかいかと思いましたが、この人を紹介しておきます」


 店主が言葉を紡ぐと、男はきびきびした動作で名刺を差し出した。

 桜は両手を出し、余白の部分だけに触れるように、細心の注意を払ってそれを受け取る。


「弁護士の高清水と申します。いわゆるブラック企業等で苦しんでいる方々の力になる活動をしております。つまり、あなたのような方を救う活動を」


 男の言葉に、桜ははっとして顔を上げる。高清水と名乗った男は自信に満ちた笑みを浮かべ、誇りをにじませていた。

 視線を店主に移すと、店主は小さく頷いた。


「当店に、たまにいらっしゃるんです。命を削って働かされて、命の縁に立っているような、そういう顔つきの方が。そういうときは……」


 店主が高清水を見ると、彼は頷いた。


飛良泉ひらいずみさんから、直接、私に声をかけていただいています。とりあえず、あなたの会社を見学しに行くとしましょう」


 台風のような勢いで高清水は桜の会社を聞き出し、携帯電話でどこかの誰かと話をしたかと思うと、会社のビルに着く頃には十人近くのスーツの男達が集まっていた。

 よろしく頼む、と高清水が言うと、男達はぞろぞろとビルに押し入っていき、三十分ほど経つと、またぞろぞろとビルから出てきた。

 その中の一人から、高清水が封筒を受け取って、中をあらためて満足そうに頷く。

 何なんだろう、一体何が起きているんだろうと呆気にとられていた桜に、高清水は横に並んで書類を見せた。そして、口を開く。


「あなたの退職は受理されましたね。まっとうな金額の退職金と、未払いの給料が振り込まれます。今までの方がそうだったように、きっとあなたはこれから新しい人生を歩むのでしょうから、私とのお付き合いはここまでになるでしょうが、素晴らしい前途になることをお祈りしていますよ」


 呆気にとられたままの桜をおいて、スーツの屈強な集団はどこかに去っていった。

 桜は長く息を吐いた。

 喉の奥から、林檎の花の、さわやかでみずみずしい香りが広がっていった。

作者の成井です。


今回のエピソードをお読み頂き、ありがとうございました。

「面白い話だった」「続きも読んでみよう」と思って頂けたなら、

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では、また。

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