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第1話 桂皮(けいひ)

「いいんだな、大多喜」


 林立するビル群のひとつ、その中でも一際高い一角に、夕焼けが射し込む。

 すべてを察して、男は辞表を受け取った。

 引き留めようとは思えなかった。

 慰留することが相手にとってどれほど残酷なことか、よく分かっていた。


「すまん」


 大多喜が言葉を紡ぐ。その目に、涙がたまる。


「三人で会社を立ち上げて、上場企業にまでなって、これからだっていうところだったのにな」


 男が静かに笑う。だが、そこに喜色はない。


「責める気は無い。かけたい言葉は、別にあるからな」


 男はそう言うと、大多喜に近づき、両の手で、その肩をがっしりと掴んだ。


「元気でな」


 言葉を紡いだ途端、男の両目にも熱いものがこみ上げた。

 大多喜は何も言わず、男の手を肩から穏やかに外し、そのまま握手をした。逆の手で、その手を包み込みながら。


「すまん」


 その手にぎゅうっと力がこもり、男はそれ以上の力で握り返した。

 二人はそれ以上何も言わず、互いの目を見て、頷き、大多喜は踵を返して部屋を出て行った。


「死ぬなよ、じょう……」


 部屋に一人残った男は、出て行った友人の名を呟いた。


 大多喜は社長室を出て、オフィスの自分の机に行き、すでにまとめてあった荷物を抱えてエレベーターに向かった。抱えてといっても、みかん箱に詰められるほどの荷物しかなかったのは、自身にも意外だった。

 重さもそれほどない箱を片腕に持ち直し、大多喜はパネルを操作する。五十を過ぎて尚慣れない浮遊感を経て、表示される数字はやがて1になった。

 受付になって間もない若い娘と、屈強なセキュリティの男に一言ずつ挨拶をして、大多喜は長年務めてきた会社を後にした。

 頭の中に浮かぶのは、終活という言葉だった。

 会社にけじめをつけて、その半分が終わったように思う。

 もう半分は、先立ってしまった最愛の妻との、思い出の詰まった家に帰ってからになる。

 そうは言っても、お互いの両親は既になく、子どもも授からなかった自分には、準備しなければならないことがそれほどあるようには思えなかった。

 とぼとぼ歩きながら、何から手をつけようかと思案を巡らし始めたときだった。


 ほわ……


 鼻の先を、嗅ぎ慣れない香りが通り過ぎた。

 生き死にを意識したせいで、線香の香りでも思い出したろうか。

 自嘲気味に笑って、大多喜は周囲を見回した。

 それらしい店がないように思われたが、二度三度と視線を往復させると、ひとつだけ、妙に気を取られる軒が目に入った。


「カオル堂……?」


 はて、こんな店が、この辺りにあったろうか。

 佇まいは、到底立派とは言えない。

 自分が務めていたような、海外企業といくつも取引をするような会社ですらテナント料が重くのしかかる土地だというのに、こんななりの店がどうしてやっていけるのだろう。

 大多喜は不思議に思ったが、名前からして、先程から漂っている香りの元が、このみすぼらしい店……かどうかもあやしい建物だろうと思い、足は自然とそちらに向かった。

 年季の入った木製の扉に、やはり年季の入った木製のノブがついている。

 ぐっと力を込めて、大多喜はドアを引き開けた。


「ごめんください」


 やはりここだった、と思わせる複雑な香りが、建物の中に満ちていた。

 複雑だが、どれも嫌なにおいではなかった。

 線香のようで、しかし辛気くさくはない。

 かびくさいようで、しかし濁った感じがしない。

 透き通っていて、さわやかな春のもやのような、清々しいにおいだ。


「いらっしゃいませ」


 小さな店の奥の、小さなカウンターに座っていた人物が、口を開いた。

 大多喜は商売柄、これまでにたくさんの人と出会ってきた。男にも女にも、他のアジアの人にも、肌の白い人にも黒い人にも、多くの人と関わってきた。

 そんな大多喜でも、目を奪われる容貌の人物だった。

 整った目鼻立ちだった。潤いのある美しい黒髪は、短いながら光沢と艶をたたえている。姿勢もぴんとしていて、茶道や華道の人間のそれに似ていた。何よりも大多喜の目を引いたのは、その両目だった。色のついたコンタクトレンズなのか、瞳の縁が銀色の輪で彩られているのである。

 じっと目を見るのも失礼かと感じた大多喜は、視線を少し下に落とした。店主は紺色の作務衣をまとい、体のラインが隠れていて、それもまた性別を曖昧にさせていた。


「何をお求めですか」


 透き通って美しい声が、言葉を紡いだ。


「いや、何かを探しているわけではないのだが、こちらから良い香りが漂ってきたので……」


 年甲斐もなくどぎまぎした態度で、大多喜は口を開いた。花屋にすらろくに入ったことのない自分が、こんな風流な店にいることがなんとも場違いなように思われた。


「よろしければ、お荷物はそちらに置いて下さい」


 店主が手で指し示したのは、カウンター近くの丸テーブルだった。確かに、手に持ったみかん箱を置くには丁度良い広さだったし、細かな物が多く置かれた店内で荷物を持ち歩くのはいかにも不躾だ。

 大多喜は促されるままに荷物を置き、商品棚をじっくりと眺めて回った。

 てっきりお香といえば線香くらいしかないものと思っていたが、そうでもないものなのだなと感心した。匂い袋のコーナーや香炉の棚、ガラスケースに入った香木など、店の中は新鮮な驚きに満ちていた。ただ、渦巻き状のものを見ると、どうしても夏が想起されて、感心しながらも笑ってしまった。

 一通り見て、あらためてカウンターの方に目を向ける。

 美貌の店主は微笑を浮かべていた。なにとなく視線を奥の壁に向けると、貼られた短冊に見慣れない単語を発見した。


「反魂香あります」


 一通り商品は見たと思ったが、そんな名前のものは無かったように思われた。


「あの、もし。そちらに書かれている……」


 大多喜の言葉に、店主はゆっくり頷いた。


「反魂香ですね」


「はんごんこう……」


「立ちこめる煙の中に、亡くした最愛の相手を見ることが出来ると言い伝えられています」


 艶のある唇から、とても信じられないような話が紡がれた。

 大多喜は短冊のその字をまじまじと見つめる。

 魂を反す香。

 平時なら一笑に付して終わるようなオカルト話だが、店に立ちこめる非日常の香りと、目の前の不可思議な魅力をまとった店主の雰囲気が、大多喜にそれを信じさせた。


「お試しになりますか」


「あ、いや……」


 店主の申し出をとっさに断ったものの、大多喜の目は『反魂香』の字に引きつけられて離れない。


「試す、というのは、店内で香りを確かめてみますか、という意味で、ご購入を進めたわけではありません。言葉足らずで、申し訳ありません」


 そう言うと、店主は大多喜の返事を待たずに、カウンターの下から白い木の箱を取り出し、立ち上がると、店の隅の扉の方に向かった。

 そして振り返り、大多喜に向かって微笑んだ。

 詐欺か、美人局か、何か悪いことに誘われている可能性はあったのかもしれない。

 しかし、大多喜はすっかり魅入られてしまったように、店主に続いて奥の部屋に入っていった。

 扉は二重になっていた。


「面倒ですが、香りのためには必要なことなので」


 申し訳なさそうに苦笑する店主に、大多喜は無言で相槌を打って答えた。

 奥の部屋は四畳ほどの狭さで、座り心地の良さそうな一人がけのソファと、その正面にベルベットのクロスをかけた四角いテーブルが置かれていた。テーブルの中央には、掌大の陶器が設置されている。

 店内で見かけた香炉によく似ていて、おそらくこれも香炉なのだろうと予想がついた。その蓋が開けられると、中には灰が敷き詰められており、ほんのり熱を帯びているのが遠目にも分かった。

 店主は大多喜に座るように促し、大多喜はそれに従った。

 そして、店主はテーブルの上に先程の白い箱を置き、注意深く蓋をあけた。中はさらに高価そうな布で覆われており、店主は細くしなやかな指を繰って、何やら黒くて小さな球体を取り出し、香炉の灰の真ん中に据えた。


「墨は既に炊いてありますから、ほどなく香ってきます。それでは、ごゆっくり」


 それだけ言って立ち去ろうとする店主に、大多喜は思わず声をかけた。


「火は点けないのですか」


 店主は振り返り、また、優しく微笑んだ。


空焚そらだきといって、香木や練香ねりこうを炭で温めることで香りを広げるやり方なのです」


 そう言って店主は音の無い足取りで部屋を出て行った。

 一人残された大多喜は、香炉に置かれた黒い粒を見る。大多喜の目には、それが小動物の糞を丸めたもののように見えて、つい苦笑してしまう。

 それから大多喜は部屋のほの白い壁を眺めていたが、すぐにその殺風景にも飽きて、やがて目を閉じてしまった。

 どれくらいの時間が経った頃だろうか。

 大多喜の嗅覚に、得も言われぬ香りが触れて、通り過ぎた。

 寝入ってしまったのか、大多喜は心地良さでまぶたが重く、その姿勢のまま香りを追いかけた。果実とも違う、花のものとも違う、青臭さでは当然無い、しかし自然を凝縮したような香りがある。

 まどろんでいるせいか、鼻の感覚だけが、今の大多喜の全神経だった。

 なんというにおいだろう。

 いや、このにおいは、どこかで嗅いだことがあるような。

 そうだ、これは……

 「あまり得意じゃないのがデザートに来ちゃった」と君が笑った、あのときのにおいだ。

 大多喜の脳裏に、ひとつの光景が浮かび上がってくる。

 妻がいる。

 まだ若い。

 これはふたりとも二十八のときだ。

 場所は、いかにも瀟洒な雰囲気のレストラン。

 そうか、と大多喜は思い至った。

 これは、自分がプロポーズをしたときの光景。

 この日、永遠の愛を約束して、承諾してもらい、30年が過ぎ、先月、彼女は突然の事故で逝った。

 閉じたままの目から、熱く涙があふれ出す。

 彼女のために働き、彼女のために休みをとり、彼女のために生きた。自分の命は、彼女のための命だった。その彼女がいなくなった今、もはや目的を見失い、会社を辞し、彼女の後を追おうと……

 そんな自分に、彼女は「自分のためにも時間を使ってください」と困り顔でよく言っていた。

 たまらず目元をこすり、大多喜は目を開いた。

 滲んだ視界で、様変わりした光景を見る。

 立ちこめる煙が部屋を満たし、自分と壁との距離感を失わせている。

 そして煙の中に、思い出の彼女とは違う、つい先月まで一緒に笑い合っていた彼女が、寂しそうに笑って立っているではないか。


「お前……」


 座ったまま手を伸ばすと、彼女はゆっくりと首を振った。

 おぼろげに見える亡き妻の顔は、見たこともない、慈悲に満ちた表情を浮かべていた。もしも自分たちに子どもがいたら、子どもに向ける表情とはこういうものだったのかもしれないと思う、そんな愛情に充ち満ちた表情だった。


「そうか。そうだよな」


 生きろ、というのだな。

 姿が見えるだけで、声が聞こえるわけもない。

 いや、今こうして見ている姿も、うとうと眠った自分が見ている夢か、煙でどうにかなった脳が見せている幻なのかもしれない。

 しかし、二人で過ごしてきた時間は、何も言わなくてもふたりの会話を成立させることを、何度も証明してきた。今もただ、そこに声がないだけで、お互いの気持ちが通って言葉を交わせていることには、確信がある。


「少しだけ、自分の時間を過ごしていいかい」


 妻は、頷きながらその輪郭をおぼろげにして、そしてそのまま消えてしまった。

 充満していたはずの煙は不思議なことに一斉に立ち消え、陽光に照らされた朝露のような爽やかな香りだけが部屋に残っていた。


「いかがでしたか」


 少し経って部屋を出た大多喜を、店主は立って迎えてくれた。


「良い香りでした。そして素晴らしい体験でした。ただ、煙が多くて少し驚きましたが」


 大多喜がそう言うと、一瞬、店主の笑みが変化したように見えた。表情自体は変わっていないのだが、何か喜びの色を足したような、そんな顔つきに見えたのである。


「あの、何かおかしなことを言いましたか」


 店主は目を閉じた。何を思案しているのか分からず、大多喜も黙った。

 そして店主は、銀縁の瞳に大多喜を映して、小さく言った。


「練香を空焚すると、本来、煙は立たないのです」


 店主の言葉に、大多喜は言葉を失った。

 だが、確かに自分は見た。

 部屋一杯に煙が立ちこめ、その中に最愛の妻が現れ、自分と声なき会話をしたのだ。しかしそれを口にするのはなぜかはばかられ、やはり大多喜は言葉を見失って黙ってしまった。


「再会することが、出来たのですね」


 その微笑みはそれまでに浮かべていたものとは少し違って、どこか寂しげな色を覗かせている。

 大多喜は口を閉じたまま、小さく頷いた。


「あの香は、特別なものなのでお売りすることは出来ません」


 譲って欲しいと言われることを想定してか、店主は優しい声でそう言った。


「しかし、香りによって思い出される記憶は、言葉を手がかりに思い出される記憶より詳細で鮮明だと言われています」


 店主は「プルースト効果と言うそうです」と付け加えて、大多喜を見つめた。


「それでは、もしもあれば、でよいのですが」


 大多喜が口を開く。

 店主は微笑したまま、小さく頷いた。


「シナモンのような香りのするお香はあるでしょうか。亡き妻との思い出に浸れる香りになると思うので」


 それでしたら、と言って店主はいくつか、コーン状のインセンスを見繕い、大多喜に提示した。


「これらは、桂皮という香木をベースに私がつくったものです。桂皮は、クスノキ科の常緑高木の樹皮を乾燥させたもので、まさにシナモンと呼ばれている木です。きっとお気に召すかと思います」


 大多喜はその値段が存外安かったことに驚きつつも、カードで一括払いして、深く感謝を伝えて店を出た。

 外に出ると、すっかり日は暮れ、夜のとばりが空に下りている。ただ、それは暗く重苦しい物ではなかった。街のネオンが明るいためではなく、自身の心境が変わったせいだと、大多喜は笑ってしまうほどに自覚できていた。


作者の成井です。


今回のエピソードをお読み頂き、ありがとうございました。

「面白い話だった」「続きも読んでみよう」と思って頂けたなら、

下の☆☆☆☆☆欄で評価していただけると幸いです。


では、また。

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