甘い雨と死の匂い
地下12階は、地下11階よりも心なしか暖かい。地底には熱源があり、そこに近づいているのだろうというのがスラムの常識で、誰もがその理屈に納得していた。ここにいる人々は多くが地下11階から生き延びたか、地下13階以下から脱落してきた者たちだ。地下に潜るほど暖かくなるというのは彼らの肌感覚と合致している。
地上に熱を注ぐ太陽という存在は、地上のはるか天高くにあった。それが、確かめようのない神話の示す世界の構造だったはずだ。ならば、なぜ冷たく凍りつくはずの地下が暖かいのか。神話は嘘だったのだろうか。
吐いた息が、奪い取った布切れの層に含まれ優しさを増して顔に戻ってくる。この階の人々が動きたがらないのは、汚染空気から身を守る布切れの厚みのせいかもしれない。分厚く重ねられた布を介して呼吸することは汚染空気の吸入を防げる代わりに、吐いた息の再吸入を余儀なくされる。
人間が地上から地下に住処を移したとして、そのままずっと地下に居たならば、干上がってしまう泥水の水溜まりのように、泥だけが固まって残るのではないだろうか。毒だけを溜め込んだ人間が、汚染物質の塵に帰すように。——現に、地下11階はそういう場所だったじゃないか。
肥溜めのように毒だけが濃くなって、滅びゆく人類——
そんな、何の意味もない感傷が胸をみたす。
——ぽつり。脳天に冷たい感覚。誰かに唾でも吐かれたか、と身構えるも、誰もいない。頭上にあるのは、上層階のある土色の天井だけだ。
不意に瑞々しいものが欲しくなって、口を大きく開けて舌でその水滴を受ける。
不思議な味がした。鼻に抜けた香りは、この地下12階に立ち込める靄のようにまどろっこしく、それでいてきめ細かい、流れていくような香り。苦い植物に蚊の湧く澱んだ水、スラムを形作る五感への刺激と正反対の様相を示すもの。あるいは概念。
未知の概念は甘さであったが、その味を知覚して覚えた感情は、焦り、恐慌、困惑、恐怖。
甘い水が、より汚染されている上層階から落ちてきた。通常でないことが起こった。それは、いずれここも安全ではなくなることを予感させた。
そして、その予感は正しい。地下11階で長らく、生きた壁として汚染物質の下層階への流入を防いできたシステムが、崩壊した。ヒトが生き、その生命活動のゆえに汚染物質を蓄積し、そこで息絶える。そうやって汚染の加速度的な進行は防がれてきたが、死んだ人間もまた汚染物質となる、それもより濃縮されたものに。防波堤が壊れたならば、呑まれるのは壁の影に身を寄せていた人間である。
地下12階の住民たちは、気づいた者から我先にと地下13階に逃げ込んだ。