生きるために
目の前には地下11階と似た、死肉にたかる蝿のような人間たちが、地下11階と異なってただ座っている。
ヒトの人生が極端に短い地下11階に比べ、地下12階は少しだけ人間の生息に適している。それこそ、空気の汚染度がほんの少しマシになった程度だ。一度に吸い込むと咳込んでしまう砂埃も、上層階からフワリと舞い落ちる汚染された埃も同じ。視界はすこぶる悪い。
しかし、幸運があってこの層に降りてきた者は気づく——息のしやすさに。靄のかかった視界に、泥か砂しかない地面、奇形の植物たち。しかし、この層に来たならば、誰もが呼吸がとても楽で、体に流入する空気の粘り気が薄いと感じる。
そうなれば必然、ヒトは長く生きたいと思うものであった。
ここでは、人間どもは動かない。誰もがピタリと停止し、浅く長い呼吸を巡らせている。とても静かな世界の中、人間の呼吸音だけが風の音のように聞こえてくる。だが、その均衡は、動く物体の出現により崩れる。
ジェイドが動いたことによって、人間たちの大いなる波がジェイドに襲い掛かろうとしていた。
「——ッ!?」
先程踏みつけたばかりの、地面だと疑わなかった場所がむくりと起き上がり、砂埃を撒き散らす。果たしてそれは人間であって、鋭く払われたナイフはジェイドの衣服をかすかに掠めた。
彼は続けさまにもう一振りを試みたが、靄の中から現れたもう一人に腕を切り落とされてしまう。彼の腕は切断面からひどく爛れていき、動きが鈍くなり、彼はガクリと膝をついた。
ジェイドはその後も次々と襲われたが、奇妙なことに敵はジェイドを殺そうとはしていないように見えた。服を剥ぎ、そしてサッと引いて靄の中に消えていってしまう。腕を切られた者は、どうやら欲を出しすぎたらしい。
どうやらこの階では、衣服よりも、布切れの方が価値があるらしい。人間を殺して、その衣服をまるごと貰い受けるのではない、新たな価値観だった。
「ふぅん……」
攻撃を躱すたび、身にまとう服がボロボロになっていく。このまま裸になり、布切れも得られないくらいならば、たぶん——奪うしかない。
そうと決まればジェイドは早かった。
先程の膝をついた男の持ち物であったナイフを指先で掬い上げ、軽く握る。そして、大きく振りかぶってきた人間の衣服の袖と胴のあたりのダブつきを切り裂き、ハラハラと空気をはらんで落ちる布を素早く掴み、口に咥えた。
空気が、変わった。
浅く長く息を潜めていた人間たちが、深く長く呼吸をして、流れるようにジェイドに襲い掛かり、そしてまた靄に隠れ息を潜める。その呼吸が乱れ、スッスッハッハッと短い周期に変わった。
ジェイドはその後も多くの人間の布を奪った。そうして、動き回れる範囲の人間は、もうジェイドに襲い掛からなかった。