清浄世界の入り口
血が通っているかのようにその紐は脈打ち、上層階から多くの空気を取り込んだように見えた。何本かある紐のうちの、青みがかった細いものがミミズのように腫れ上がり、先ほどまで脈打っていた赤く太いものは息を潜めた。
地下14階の人間たちは、それぞれの仕事をやめ、紐を一心に見つめ始めた。なにか重大な仕事がこの後に待ち構えているらしかった。
ジェイドも心の赴くまま、周囲の人間に倣い、空間の中心を柱のように繋ぐそれを拝した。慈しむように、敬うように。
紐が再び脈打った。大勢の人間が床を足で打ち鳴らして歓喜した。紐は周囲に汚物を撒き散らし、人間たちはそれに群がった。ジェイドも、もはややるべきことを迷わない。
ジェイド自身が落ちてきたときに床や壁自体が行ったような異物排斥の機能が追いつかないのだ。人間のフケや、死体に集まるハエや、腐った肉片などがどんどん紐から滲み出て、染み出してくる。それを手を使って拾い集め、それでは間に合わないので上腕を使って掻き集め、上へと、上へと押し上げる。それを天井が自ずから降ってきては、それを吸収して還っていく。
汚物は汚物のあるべき場所へと還っていくのだ。
汚染された地上からもたらされた汚染空気はここで濾過されるのだ。
空気がなくては人間は生きられない。しかし、汚染された空気をそのまま取り込んでは、地下都市が死んでしまう。人類の最後の居住可能地域が存続する上での、苦渋の決断であることは、今のジェイドには容易に想像できた。
地下都市そのものの意思と同一化していたからである。
——しかし、ジェイドは抗っていた。大いなる存在の一部として生きる悦びに満たされながらも、心のどこかで抗っていた。都市の存続のために人間の存在が脅かされるこの構造に疑問を呈したのである。
「おまえ」
抑揚のない声で呼び止められた。振り返ればそこには、なんの特徴もない顔があった。自分にあまりにそっくりだとジェイドは感じた。あるいは自分と他人の区別が失せかけていたのかもしれない。
ジェイドを呼び止めた人間は言った。
「おまえ、フゴウカクだ。下層へオチろ」
「妙な、コトを言うなよ。ダッて、汚染さレタ地上から遠ザかることハ、嬉しいことのはずだろう?」
誰か他人の口を借りて喋っているような違和感が、徐々に薄れてまともになっていく。思考の混乱がなくなったことで、自己決定が重しのように脳にのしかかる。なにをするとも分からず仕舞いで、生まれたばかりの子どものように自分の手のひらをしげしげと見つめてみれば、自分の爪は驚くほど伸びており、痛々しく割れていた。




