胎盤
なにもできないまま立ち呆けていると、ジェイドの心のなかに「自分はやるべきことをやっていない」焦燥感が生まれた。
不思議な感覚だった。思考がまとまらない。掻き乱されている。それでいて、その乱れた思考をどこか特定の方向に誘導する外的な力を否応なく自覚する。思考はあえて乱されたのか、そうとでも思わなければ説明がつかないほど、状況から受ける混乱にしては度が過ぎている。
口の中が苦い。なにも口に入れていないはずなのに、ひたすらに口の中のものを吐き捨ててしまいたい欲求に駆られた。なにもないので仕方なく唾を吐く。何度でも何度でも、唾を溜めては吐く。粘膜を傷つけて血を出して、吐く。
自傷行為で排出されたジェイドの体液は、地下14階の地面には染み込まず、張力を保ったままそこに留まった。やがて、その水滴たちは重力に逆らってするすると地面を這い、壁を伝い、上層階へと還っていく。
「僕の体は、拒絶されているのか? それがこの馬鹿でかい紐の意思か?」
ウッ、とうめき声をあげてジェイドは蹲った。耐えがたいほどの孤独感、愛への渇望。そんなもの、生まれてこのかた持ったことなんてなかったはずなのに、ジェイドは確かにこの空間に愛されたいと感じ始めていた。
愛されるためには、なにをすれば。そのことばかりを考えて、いつしか顔がこわばって、自分がどんな気持ちでいたのかも忘れていた。
愛に飢えるからこそ自分を愛せないのか、自分を愛せないから愛に飢えるのか。少なくともこの空間でジェイドが経験していることは後者の現象のように思われる。まず初めにジェイドは自傷した。その前には何か外的な力によって、ジェイド自身の思考が乱された。
魂や心は、肉体に宿るものだったのだろう。しょせんは肉体の発生させる電気信号にすぎないモノを乱すことで、愛という不確定なものを肉体から排除することができたのだから。ただ、肝心のジェイドにはそのような推理をはたらかせる余裕はない。
不純物として、上層階から落とされた。だから懸命に働いて、この空間から不純物を取り除かないといけない。
乱れたいた思考が固定されると、どことなく安心感に満たされた。やるべきことが定まっていることを喜ばしい使命だと、そう骨の髄から信じるに至り——
ジェイドは動く無機質と化した。この階層に落ちてきたときに目にした、紐に仕える表情のない人間たちのように。
この空間そのものがジェイドに意図的に持たせた思考によって、ジェイドは存在価値を見出していく。
この階層は、地下都市にとって唯一無二の機能を有する特異な場所である。母親となる者の肉体は、身に宿した子と一つの血管で繋がる。その血管は、子にとって有害なものを濾過し、子に渡す血液から排除する。
母性は時に自己犠牲を伴う。この地下都市の母性は、臍の緒ともいえるこの紐を甲斐甲斐しく世話する人間たちの魂を犠牲にして成り立っていた。




