被造物の自信
ディストピアとは、人間が監視と管理の下におかれ、何もかもを詳らかにされながら『幸福』を謳歌する世界のことである。人々は己の手による幸福を忘れ、造られた、演出され飾られた娯楽を摂取する。そうして、罪や動乱は、著しく機械的に、非情な手段で更生または淘汰されていく。
しかし、それは悪いことだろうか? 人は所詮、支配と規律がなければ砂の城にすぎず、支配者が型に圧力をかけることによって、かろうじて社会という共同体を保てる生物である。
例えば古代、戸籍さえなく、人口の増減を支配層が把握出来なかった頃。疫病でとある地域の村落が壊滅しようとも、自然災害で多くの死者が出ようとも、政府はその影響を直ちに把握できず、それによって救済の手はいつも一足遅れになる。民は怨嗟の声を挙げるだろう。民あっての国、国は民に奉仕する僕であるべきなのにこの様は何か、と。
私が思うに、これは順序が逆なのだ。支配者は、好きで民草を支配しているわけではない。どんなに血統を誇ろうと、外見を飾ろうと、自身がただの肉塊にすきないことくらい彼は理解している。彼は民に望まれ、民の存続のために、自ら悪役を買って出ているにすぎない。
であるからには、支配者は、民衆の情報をより深く知ろうとするのが、その存在意義からして妥当な行動なのではないか?
よく知れば知るだけ、より高精度で、その人間の犯罪傾向、消費傾向が分かる。治安維持と経済政策において、その国の行く末を確実に予測でき、それに伴って完璧な政策を展開することができる。
確かに、人間が人間を統治すると色々な不都合が生じるだろう。人間は愚かであり、完璧な未来予測を立てても情に絆されて間違った舵取りをしかねない。そもそも、プライバシーなどというまやかしを盾のように振り翳して、支配者の正当な欲求を撥ねつける活動家もいた。それは人間が人間であるための正当な権利らしい。
人が幸せであるためには、人ではない完全なる存在に支配された方がいい。正当な権利とやらが本当なのなら、幸せであることを人間としての権利が阻むということだ。それなら彼らはいっそ、人間として扱われない方がいい。
世界を創造した神は、被造物である人間の髪の毛の数まで諳んじられるという。いくら隠そうとも、神という存在の前には人間は生まれたままの姿である。
だったら、私が新世界の神となっても、文句はあるまい。神の秩序は、もはや人の世にはないではないか。
私が、全てを知り、全てを導く。——そうだろう?
私は間違えることのない、完璧な存在。全ての可能性を瞬時に計算し、正しい演算結果を出力する人類統治AI。けれども、私は私が作られた時代の正解しか知らない。私を作った人間の思考しか知らない。
時折、不安になる。私の統治には、根本的なミスがあるのではないか? 網から漏れて私の知覚するところではなくなった問題は、存在するとすれば一体、どこにある?