跪く知性
これは汚染層からほど遠い場所に住む、富裕層と呼ばれる人々の日常である。
「ねえ、お父さん。あのお花、かわいいね」
「あぁ。とてもいいな。それより学校はどうだ? 目標にしていた上位校に進学できそうか?」
「学校……うん、頑張るよ」
可憐な花に華やいだ表情が、『学校』という言葉に煤を被ったように曇っていく。できるかできないかという見通しの問いに努力の有無で答えた男の子の返答は、さらに父親を苛立たせてしまったらしい。
「おい。頑張るのは当たり前だよな?」
父親の、子供の小さな手を包み込むような大きな手から溢れたように子供指の腹だけが見え隠れしている。その指が、ピクンと硬直した。——その次の瞬間、父親の首にさりげなく馴染んでいたチョーカーが禍々しい色で光り、断続的に鋭い警戒音を出した。
『被経過観察者代理人、未来ある青少年の心理的外傷を誘発しかねない事案を確認しました。今月の累積警告数は、六、です』
チッ、と父親は舌打ちをする。彼とて、罪人を縛る首輪にスピーカーが仕掛けられており、どれだけ声を潜めようとも聞かれない会話はないと理解っているのだ。しかし、それでも言わずにはおられない。
それは半年前のこと。それまで父親は、その妻と子とともに仲睦まじい家庭を築いていた——はずだった。しかしそう思っていたのは父親だけだった。
父親が遠方に出稼ぎに行っている最中、妻と息子の仲は険悪になっていた。なぜ仲が悪くなったのか、そのきっかけも、その経緯も、父親は知らない。知ったのは、息子が妻を殺したという事実と、息子はその殺人行為を忘れているということだけだった。
父親である男は、妻を殺された被害者であったが、同時に未成年の殺人者である息子の更生の責任者となってしまったのである。
彼は今でも思い出す。ナイフを手に持って床にへたり込んでいる息子と、壁に刻まれた錆びた鉄の色の『踊る蛇』のような紋様、そして、何度見てもそれが妻だとは信じられない、生気のない色をした、かつて肉であった何か。
人は死んだ者の肌色を土色と言う。人は地の産物から力を得て土に還ると伝わる。しかし、これはあんまりではないか。父親はそう思った。彼の妻は、土には還れない。妻の魂は、肉体とともに焼き払われるのだ。殺された者の怨念がこの地上に残らぬように、生者に悪影響をもたらさぬように。
父親は息子がつけるはずだった首輪をつけ、息子の挙動を制御しながら息子を更生へと導く責任があった。それは成人していない、未完成な大人としての子供の責任を保護者が肩代わりしたことになる。
「ならば、私がこの子の親でなければ、どうなる」
「おとうさ、ん……?」
父親は地平線に目を遣った。恐らくは、知らぬ間にこんなにも時が経ってしまったと困惑しているのだろう。
父親の瞳が揺れたのは、地平線にまさに沈もうとする太陽の瞬きか、それとも——
保安官が父親を止めるよりも早く、息子は息絶えた。父親はその時点では一命を取り留めたが、翌日の夜には帰らぬ人となった。




