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僕にはヨシオ以外の家族がいない。
これは、それは、あれは、どれは、文字通りの意味であり、僕の家族は交通事故が原因で、起因して、因果して、両親は他界してしまった。
当日の僕はまだ中学生、妹は小学生だった。
奇跡的に生き残った、生還した僕と妹だったのだが、身寄りがなかった僕たちは、妹だけなら面倒を見られるという両親の知り合いに妹のレモンを預け、僕は一人となった。
それでも今の今まで生活に困らずに、難なく、住んでいられたのは、両親が遺してくれた遺産のおかげだろう。
そして一人となってしばらくしていた頃に拾ったのがヨシオだったのだ。これではどちらが途方に暮れていたのか、わかったものではない。
ヨシオが言っていたことは間違いではなく、ヨシオが実は僕の親代わりなのかもしれない。
「さて、飯にするか」
「おっ! 待ってました!! 今日なに?」
「今日はそうだな。豚の生姜焼きにでもするかな」
ヨシオは何故かキャットフードを食べない。猫なのに、ネコなのに、ねこなのに。
『キャットフードなんてそんな不味いもの食べられるわけないじゃない!!』
『お前マジか。じゃあ、何を食べるって言うんだお前は』
『もちろん。アンタと同じものを食べるわよ。アタシはグルメなのよ? 舐めんじゃないわよ』
『舐めんじゃないわよって、正気か!?』
正気の沙汰ではない。
でも、それでも、継続は力なりという言葉は、慣れるという言葉は、事実であり、真実であり、真理であり、真理は心理となり、今では猫が人語を話すことも、猫が餌ではなくご飯を食べることも、最早驚きはしない。驚くほどのことではない。
「その前に風呂に入らせてくれ」
「仕方ないわね。早く済ませてよね」
「どうせお前も入るだろうが」
家族がいなくなった穴を埋めてくれるかのように現れたヨシオではあるが、僕にはまだレモンという妹が、唯一の家族が残っている。残されている。僕は早く一人前になって妹を迎えに行きたいと、そう思っている。
でもそれは、もう少し先の話になりそうだ。
翌朝ーーー
「痛っ」
「起きなさい。朝よ」
「うーん、わかったから叩くなよ」
ヨシオと出会ってからというもの、僕は目覚まし時計要らずとなった。何故なら、もうわざわざ話す必要もないのかもしれないのだが、この猫が起こしてくれるからである。
「もうちょっと違う起こし方ねぇのかよ」
「じゃあ、どうして欲しいのよ?」
「そうだな。もっとこう、なんだろうな?」
「………」
「………」
「「………」」
そんなわけで、こんなわけで、あんなわけで、どんなわけで、今日も今日とて猫の爪によって起こされる僕なのであった。
朝食を済ませ、学校の支度に取り掛かる。
「学生は毎朝大変ね」
「そういう前は暇そうでいいな」
「失礼ね! 私にも色々あるのよ!」
「色々ってなんだよ?」
「色々は色々よ」
「………暇そうでいいな」
「死ねし」
こんな、そんな、どんな、あんな、やり取りも毎日のようにこなし、僕は学校へと向かう。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「はーい。気をつけてね」
「はいよ」
戸締りを確認し、僕は高校生活2日目へと踏み出した。踏み切った。踏み付けた。
電車に乗るために当然のように、当然のごとく、駅を経由しなければならない訳なのだが、その道中で僕は見てはならないものを見てしまったようだ。
「お姉ちゃん、朝から可愛いねぇ。お兄さんたちと楽しいことしようよ」
酔っ払いのいかにも朝帰りだと主張したような、誇張したような、そんな出立ちのお兄さんカッコ笑いのオッサンたち数名が誰かを囲んでいた。
しかし、だがしかし、誰かはわからないのだが、定かではないのだが、囲まれているのは女性なわけで間違いはないだろう。
これで寄ってたかってオッサンたちが男を囲んで、《楽しいことしようよ》なんて迫っていたら、それは一体全体何体なのかと尋ねたくなってしまう。
どころか絵面の悪さに吐き気を催す可能性もなきにしもあらずだろう。
朝から、朝っぱらから、早朝から、そのような奇行だけは見たくないものである。
さて、さてさて、誰が囲まれているのだろうか? と、オッサンの隙間を覗いてみると、そこには特徴的な黒髪がチラリと見えた。
赤でもなければ、青でもない、紫でもなければ、緑でもない、黄でもなければ、橙でもない、金でもなければ、銀でもない。でも、それでも、黒一色なのかと言われればそうでもない。色の全てが集約した、集結した、収束した、結束した、収集した、束束した、そんな黒。黒であって黒ではない、そんな黒。黒でなくとも黒である、そんな黒。黒と見せかけて黒でない、そんな黒。黒と見せかけて黒、そんな黒。虹色に最も近いであろう黒。
そんな、こんな、どんな、あんな、黒髪をしている人間を僕は未だ一人しか知らない。一人しか見たことがない。一人しか見覚えがない。
忘れるはずがない、忘れるわけがない、昨日会ったばかりの、あの女の子。同級生で、同じ学校で、同じ街に住んでいる女の子。名前も知らぬ女の子。
「どきなさい。邪魔よ」
「なになに? お姉ちゃんこの状況で随分と強気だねえ」
「怪我をしたくないのなら、早く退きなさい」
「あん?」
「?」
僕はどうして、何故、彼女があそこまで、あれほどまで、オッサンたちに囲まれている、この状況で、あの状況で、その状況で、どの状況で、強気でいられるのか、不思議で、疑問で、不可思議で、ならなかった。
「お姉ちゃん、自分の立場がわかってないみたいだから、その身体に教えてあげるよ」
オッサンがそう言いながら、彼女の肩に手を触れようとした時だった、彼女の肩に手を添えようとした時だった、彼女の肩に手を乗せようとした時だった。
その時だった、この時だった、あの時だった、どの時だった、彼女はどこからともなく見たこともない、見たはずもない、どこで売っているのかと問いたくなるような、尋ねたくなるような、訊きたくなるような、責めたくなるような、詰めたくなるような、そんな鋭い銀一色に輝く鋏をオッサンたちに突き立てた。
彼女の鋏捌きにオッサンたちは一人残らず、餅をついた、尻餅をついた。抜かした、腰を抜かした。
オッサンの一人の頬からは赤い、紅い、緋い、朱い、血が伝っていた。
「ひぃい!!」
「おいおい、マジかよ……。あの子ってそういう感じなの……」
「殺す。私に気安く触ろうとしたことを後悔しなさい。私に軽々しく声をかけたことを後悔しなさい」
「ひぇええ! た、助けてくれ!!」
これには僕も「どんな状況だよ」とツッコミを入れずにはいられない。
オッサンたちに迫る名も知らぬ彼女の目は、昨日見た時よりも、はるかに鋭く、きつく、尖っていた。もしかすると、ここから先は冗談では済まされないかもしれない。僕の脳裏に《真鹿高校の生徒が一般人を殺害》の記事がよぎった。
「ちょっと待った!!!」
逃げ惑うオッサンを庇うようにして、彼女の前に立ちはだかった。立ちはだかったのはいいのだが、立ちはだかったまではいいのだが、彼女のあまりの迫力に、威力に、立ち尽くしていた。
「こわっ」
「どういうつもりかしら?」
「いや、それは不味いって! 殺しちゃダメだろ!」
「はあ? アナタ、あんな奴らの肩を持つ気なの?」
「肩を持ってるわけじゃねぇけど、殺すのはダメだろ」
「あんな奴ら、死んで当然なのよ。生きてたってどうせまた同じように違う子に標的を変えて、的を変えて、同じことを馬鹿みたいにするだけなのだから、死んだ方が世の中のためなのよ」
美しい、可愛らしい、彼女にそこまで言わせるのは一体全体何体なのか?
僕は知らない、何も知らない、知るはずもない、知るわけもない、知る由もない。
to be continued.