彼女はかくれんぼを斯く語りき
「ねえ、『かくれんぼ』って英語で何て言うか、知ってる?」
背中から掛けられた声に『僕』はスマートフォンから視線を持ち上げた。
放課後の夕焼けが窓から差して、僕らの世界を橙に染めている。
がらりとした空き教室に残っているのは、僕と後ろの席の『彼女』だけ。
椅子に座ったまま気怠げに振り向けば、彼女の屈託のない微笑みが頭一つ高いところから僕を見下ろしていた。
「いきなり何の話?」
「いいからいいから。ほら、かくれんぼを英語にすると……?」
頬杖を突いて彼女はコロコロと笑った。
からかうような視線に僕はどきりとしてしまう。顔の距離も近い。『タッパもデカけりゃムネもデカい』と同級の男子の間で囁かれていることを、果たして彼女は知っているのだろうか。
「ええと、なんだっけ……、どこかで聞いたことはあると思うんだけど」
「思い出せない?」
「……そうだね。うん、降参降参」
「もう。やる気ないなぁ、キミ」
お手上げポーズで肩をすくめると、彼女はぷくりと頬を膨らませた。
もっと真面目に考えろ、と責めているらしい。
僕が片眉を傾けて応じると、彼女は処置なしと息を吐く。
「ま、いいけど。『ハイド・アンド・シーク』よ。オッケー?」
「ああ……、うん、聞いたら思い出した」
「あっそ」
「それで? 英語にしてみたから何だっていうの?」
僕は意識して素っ気なく言ってみる。
事実、あんまり興味が湧かないトピックなのだ。けれども、彼女との会話を打ち切りたいわけでもない。なにしろ彼女は学校でも一二を争う、スタイル抜群の美少女なのだから。
そんな中途半端に打算の混じった僕の胸中はさておき。彼女は待ってましたとばかりに瑞々しい唇で弧を作った。
「これって興味深いと思わない?」
「それ、何を指して言ってるわけ?」
「『ハイド・アンド・シーク』だから、つまり、『隠れる・アンド・探す』でしょ。じゃあ、翻って日本の『かくれんぼ』は?」
「『隠れん坊』……。 ああ、探す側がいないってこと?」
「そうそう、わかってきたじゃん」
「いや、全然わからないんだけど。これ、話の着地点はどこなわけ?」
「せっかちだなぁ」と彼女が笑う。妙に上機嫌だ。
彼女はこんなにカラカラとした性格だったろうか。どことなく近寄りがたいような……、ある種の威圧的な雰囲気があると思っていたのだけど。
しかし、よく考えてみると、彼女とこうして面と向かって話すのは初めてかもしれない。今まで持っていたイメージは、彼女の高い身長が自然と醸し出していたものだったのかも。
「いい? 『ハイド・アンド・シーク』なら探す側と隠れる側は同等の立場にあるわけ。でも、『かくれんぼ』は隠れる側だけにフォーカスを当てている。これはね、探す側と隠れる側とを明確に区別しているためなのよ。役割だけじゃなくて……、そう、属性とか、もういっそ種族が違う感じ。こいつぁ同じ立場には並べたくないぜ、って」
「……なんか飛躍してると思う」
「そんなことないわ。だって、ほら、かくれんぼで探す側は何て言うかしら?」
「そりゃ……。『鬼』でしょ?」
僕が口をへの字に曲げると、彼女は「ほらほら」と喜色を浮かべた。
「はい、じゃあ、次! 隠れる側は?」
「特定の名前は思い浮かばない、かな。強いて言うなら、『鬼じゃないほう』」
「鬼じゃないなら人間、っていうのが自然でしょ。それも、人間の子供」
「『隠れん坊』ね」
「そのとおり! 似たような遊びだと『鬼ごっこ』もそうなのよね。こっちも同じように『鬼』っていう人間とは明確に別の種族が登場するわけよ!」
「あ、うん」
テンション高いなぁ、というのが正直な感想である。
どういうわけか頬まで紅潮させた彼女に、知らず、僕はたじろいでいたらしい。
無意識に背中を引こうとしたところに、ずいと彼女の顔が迫る。
「ちなみに英語で鬼役のことは『イット』ね。『ソレ』とか、こっちはこっちでタブーっぽい響きだわ」
「ああ、あのピエロの映画……」
「もちろん、それだけが由来ってわけじゃないんでしょうけど」
そう言って彼女はふっと目を逸らした。
僕を通り過ぎた視線は教室の前方へ。
橙色の夕焼けはますます濃くなっている。
彼女の視線を追った先、キレイに拭き取られた黒板には、黒い影がひとつ。
黒く縁取られた大きな彼女の輪郭。
気づく。
僕の小さな影は、彼女の影に呑まれているのだ。
「ところで、キミ、鬼ごっことかかくれんぼで、印象に残った思い出ってある?」
「またいきなり話が跳んで……。いや、特にないけど」
「本当に? なにか一個くらいはあるんじゃない?」
「あのさ、こんなことで嘘ついたり、はぐらかす理由があると思う?」
「と、言いつつ……」
「――だから。なにもないって」
自分でもびっくりするくらい冷たい声が出た。
黒板を睨んだまま、僕は顔を歪める。
いったい何をやっているのか。
頭は一瞬でさっと冷め、鉛みたいな居心地の悪さが腹の底に蟠る。
良くない態度だった。彼女に謝らないと。
そう思い、もう一度振り向こうとしたとき、僕の肩に大きな手が添えられた。
彼女の掌だ。
「悪いこと聞いちゃったかな?」
「別に、そんなことは……」
「でも何か気に障ったんでしょ」
肩に乗った柔らかな指が、僕の身体をそっと押さえる。
僕はわずかに瞑目し、ため息とともに瞼を持ち上げた。
「ウチの両親が転勤族だったってだけ。引越し先もマンション、というか、会社の集合住宅ばっかりだったし」
「うん」
「その、友達がいなかったわけじゃないんだ。けど、なんとなく機会がなかったって言うのかな。そんな感じで……、実は、かくれんぼも鬼ごっこもやったことないんだ」
どうして僕は言い訳がましく口を回しているのだろう。
両親の転勤が連続していたのは、もうずっと昔の話だ。今はこの町にすっかり腰を落ち着けているし、僕だってあの頃と比べれば多少はオトナになっている。
今更、どうしてもかくれんぼがしてみたいとか、そんな風に思うわけもない。
いや、そもそも当時にしてみたって、そういった遊びに憧れを持ってはいなかったはずだ。友達と遊ぶなら、持ち寄った携帯ゲームとか、一緒にテレビを見たりとか、そういう現代的な娯楽で物足りたのだから。
彼女の口ぶりが、かくれんぼくらい経験があって当然、というテイストだったこともあるけど……。結局のところ、今までまるで意識していなかったことをすとんと突かれただけのことだ。
こんなことで機嫌を悪くするなんて、我ながら、なんて子供っぽい――。
「うん、知ってるよ」
「……え?」
「だって、キミ、人間なんだもの」
くすくす、と笑い声。
振り向こうとして、振り向けなかった。
身体が回らない。肩の上には今も彼女の手が置かれている。優しく添えられた掌は、しかし、空間に糊付けされたみたいに、ぴくりとも動かない。
橙色を通り越して、夕日の色は粘つく深い赤。
教室の隅から濃影が這い寄る。
黒板の人影が輪郭を溶かし始める。
尻は椅子に貼り付いている。
動くのは首だけ。
捻じる。
見えたのは、彼女の顔半分。
茜色の頬。三日月の唇。
黄金の瞳孔。
「ワクチンはもう打った?」
「は……? なにを」
ワクチン? 流行りの感染症の?
思考が空転する。
肩の指に力が加わった。
じわりと滲む痛みに、喉がひきつる。
「本当、よくできたシステム。ううん、儀式って言うべきかな。厄介極まりない。誰だか知らないけど、昔の偉い人はよく考えたものだと思うよ」
彼女と目が合う。
本当に?
彼女はもう僕を僕として見ていない。
饒舌に溢れる言葉も、もはや僕の理解を待っていない。
「ルールがあるんだ。鬼の社会……、あるいは、生態の根底にあるルールが」
「お、に?」
「そう、鬼はね、鬼同士で襲い合ったりしない。してはいけない。……おかしいよね? 人間はあんなに簡単に同族で殺し合うっていうのに、さ」
肩から指が外れた。
意図せず、肺が縮こまる。
何もできないうちに、僕の首に彼女の両の腕が絡められた。
抱きすくめられている。
うなじに彼女の胸。
鼻をついたのは、獣の臭い。
「誰も意識してはいない。けれど、子どもたちは確かに、『鬼』を経験する。抗体ができるんだ。呪的な、目には見えない『同族』っていう抗体が」
「っ……」
「上の世代は苦労したって聞くけど、今はとっても良い時代。だって、キミみたいな混じりのない人間がどんどん増えてきているんだから」
絡みつく腕の力が増す。
気道が潰される。呼吸が止まる。
耳元に呼気。
湿って、生暖かい。
「ねえ、■■くん」
世界は赤黒い。
なにもかも、影は闇に溶けて、消えた。
囁きが聞こえる。
最後に聞いたのは、瑞々しく嗄れた、艶めかしい老女の声。
「つーかまえた」
かくれんぼ、あなたはやったことがありますか?