だらしなく緩やかに流れる川 後編
しかし僕や彼らが追いつけるわけではない。彼女の恋人は彼女がもうじき帰ってくると言っていたと話した後、スマホにあるメッセージを見せる。彼女のアカウントから送られてきた手紙はアルバム保存されていた。手書きの字は小さく、弱々しく書かれ、よろめいていた。メッセージにも彼女が見ていた夢の輝きなどはなく、ただ帰るとだけ書かれていた。僕や彼らはそんな彼女の幻想を砕くことで悲しみの中にいる、哀れな妹を助けてやらなくちゃいけない。今ならまだ間に合うのではないか。
だから彼らが彼女の帰りの便で迎えに空港へ行くと決めたとき、その期待に賛成するふりをした。当然のごとく、僕や彼らは彼女が戻ってこないことをちゃんとわかっている。たとえ彼女が空港に着かずにいるときも全く驚かない。だが彼らにとっての哀れで、愚かな妹はこう言い張るのだ。
「便を間違えたの」、と彼女は告げた。
「すぐにここに来るはずだから」僕らはまた行く。また彼女はいない。再度彼女は便を間違えたのだと言い、戻ってくるからと言う。僕らはまた行く。その間もなく僕らはいつでも迎えに行き、僕らが忘れていくことはこの哀れで愚かな妹が同行する限り、あるものだと考える。それどころか、僕らは彼女のように考え始める:彼女が帰ってくるのだと信じ出す。
僕らは空港で自分たちが何百人といるのだと示し合う。それほど沢山迎えに来ているのだと言い合う。たとえ僕らがこんなときに何人もいないのだと知っていても、彼らや僕は過去を何度も演じ直す。彼らが何度もくり返すことで出来上がった過去は精巧だが、やらなかったこともそこには含まれている。何度も何度も僕らは彼女の出発する便そして彼らと過ごした最後の日々を生き直している。僕らは僕らのいた場所から声援を送り、手を振っている。そのとき何もしなくてもよかったのだと試みようとしている。でも本当は、僕らはずっと彼女が向かうことを望んではいなかった。僕らは恐れていた。
過去が僕らに返ってくると、それは生き生きとした血のように、その最後のやすらぎにより自分たちをなだめようとしている。しかし僕らは彼女が出発する前夜にガイドブックを渡し彼女の大好きな料理でお祝いし、さよならパーティをした。愛は不滅なのだと誓いあった。そして僕らは忘れられないことが必要だったと知り、唯一それがここにある悲しみから自由にしてくれるのだ。だが今でさえ僕らが自らの悲しみについて出来ることは何もないのだ。
僕らは出発前夜ずっと彼女と一緒にいた。もし出来たのならあなたと立場を変えられたらねと話した:でも出来なかった。僕らの持つ正しい意志は全て僕らや彼女にないがゆえに役に立った。僕らは何か出来る振りをしていた―彼女が戻ってくることと―彼女が僕らと共にいたことの間にいた。
それは僕たちがパーティをお開きにして空港へ行ったからだ。僕たちはおかえりなさいと歌い、ケーキにおかえりなさいとデコレートし、彼女の部屋を又貸しすることを断り、彼女の恋人が助けてほしいとほのめかしても僕たちはそれを望まないから彼女の恋人が助けを求めるのを断り、ボンボヤージュとデコレーションした、ピンクイエローの飾り、壁付したチェリー色の半透明な風船、カラー付きのフォークとスプーン、僕たちはおかえりなさいとするものたちをリサイクルするなんてとっても頭がいいねと言い笑い合う、つまり僕たちは彼女が出発する前に続けていたことを覚えているのだ。
僕たちはずっとゲートとゲートのあいだをうろうろしていた。僕たちは飛行機から降りその人たちが愛する家族にキスするのを立って見たりしていた。パーティハットを被りパーティ用の笛を吹いたりしてひしめき合う。僕たちはパンチやクッキーを再会したカップルや家族や友達に振舞った。おかえりなさい! おかえりなさい!
僕たちは泣く、次の便で彼女が僕たちのもとに帰ってくると知っているのだ。
みんなと一緒に歌の練習をしてパーティの格好をすることで、僕たちは幸せになる。特に彼女の恋人は。そういうわけで彼女が最も美しくなる。彼女の日に焼けた健康的な体、腕や脚は美しく若い動物のように引き締まり、その上に明るい春物の服を着ている。明るめのグリーンとブルーそしてイエローのシルクの洋服。彼女は優雅に微笑むけれど、そこには子供のような自信という期待があった。彼女の長く付き合ってきた恋人は戻ってくる。そんな彼女への郷愁が彼女の恋人の肉体を一インチごと暖かくし、強くする、僕たちは彼女に近寄ることがやはり怖くてできずにいる。彼女は何か起こるごとにその美しさは肌に現れた。彼女の艶のある、ちょうど半分開いた唇は、その準備が出来ていた。
彼女が僕たちから去ることができないのは確かなことで、彼女が戻ってくることも確かなことだ、そして彼女が去った頃よりも強く美しくなって戻ってくることも確かなのだ。彼女が何か素晴らしく奇妙なことにも勇気をもっている。彼女が元気よく入ってきて、僕たちがこれまで覚えていたことや忘れたことが間違いだったと教えてくれるのだ、それは僕たちがやったこと、つまるところ僕たちは彼女が戻ってくるのだと信じていたことを止めてしまった、そう確信する。
しかし今夜、ほぼ全てのことを僕は知っている。信じることを止めてしまったのだ。誰も気づかないけど;僕のパーティハットは真っすぐなままだし、フルレースのスカートはぴんと張ってストレッチできる。そして自分のほんの一部分だけで僕たちの幸せなおかえりなさいと歌っている。僕はパーティハットがうなだれて、紙の笛が湿って柔らかくなり、アイスクリームは紙のお皿から泡ぶくの水溜まりとなってひっくり返り、レモン層のケーキの粉くずがリノリウムの床の隙間に埋まっているところを想像する。おそらく彼女の肉体はひどく疲れていた。興奮もしていなかった。
実際、僕は彼女が戻ってくるのだと全く信じていなかった。しかし僕は何かすることが必要だとわかっていた。僕は僕たちみんなとしてそうしたかったのだ。僕は僕たちのした格好や友情、そして日常的行為の安心感からくるごくありきたりな行為に元気付けられたのだ。しかし、本当は、僕はみんなと一緒に歌うのが好きだったし空港にいる人たちに僕らの友人について話したりケーキを分けたりするときに向けられる優しげな視線も好きだったのだ。
しかし僕はこれらのことをやらなかった。僕は彼女が戻ってくると考えていたからだ。僕は僕たちのためにそれらのことをやった。つまり僕は、どういうわけか、彼女が知ってしまった場合のためにそれらのことをやった。僕が彼女を覚えていたと教えるためにそれらのことをやった。僕は彼女にさよならを言うためにそれらのことをやったのだ。
僕にあるあなたについての最後の記憶、あなたは階段から降りている。機内の通路に一人でいて、あなたはつまずいている。あなたの痩せた肩は何か押されているみたいに丸まっていた。あなたが振り向かないのは、出口で僕たちから視線が向けられることに耐えらないのは、僕たちがあなたの望みを失った顔を見ると知っているからだ。
あの音はあなたが僕たちにさよならを言う前のあなたの最後のあえぎ。
僕が彼女を引き取った。僕は部屋の中で、彼女のバッグを開いた。向精神薬、ビタミン剤、薬局の処方箋の説明にはそう表示されていた。彼女は治療を受けていた。病院以外に彼女のメモにクレジットされている探偵事務所の名前があった。加賀美緑という名前の探偵だった。電話で事情を聞く限り、彼女は衰弱しているところを向こうで保護されたが、頑なに病院へは行きたがらなかった。自分は病気ではないと言い張った。だが代わりに誰かに監視されているから自分を守ってほしいと探偵へ依頼した。しかし加賀美緑は以前の経験から、少女の精神的苦痛が何から来るか知っていた。だから彼女に病院に行けば、上手く逃げられるかもしれない、手配しましょうと告げた。
僕はもういいですよと相手が言うまで、何度も謝罪と感謝の言葉を探偵に繰り返し告げた。お金の問題ではない。だが気持ちの面ではどうにか誠意というものを示そうと依頼料の支払いを申し出たが、断られた。「もう彼女から頂いていますし、治療費だって彼女が自分で働いて支払ったのです」
おそらく彼女がなりたかった少女探偵の未来は受話器の向こう側にいた。ネットニュースでは彼女が事件解決に助力したと報じられていた。彼女がこちらを見つめていると気づき、僕の代わりに話すかいと訊ねた。彼女の返答を待っているうちに電話が切れ、その後二度程かけ直したが、繋がらなかった。その瞬間はまあそういうこともあるだろうと思い、今度ここに行こうと探偵事務所のアドレスを僕は指さしたが、そうしなければよかったと思う。後々判明することだが、アンダーグラウンドを通じて、その先に行けるのは少女探偵か少女探偵ではない別の女の子だけなのだ。僕はかつて少女探偵と同じ秘密のクローゼットを持っていた女の子だった。今や僕が好きなデザイナーと同じブランドのクローゼットを所有し、時折良き彼女の友人としてドレスを貸し借りする関係に留まっているのみだ。だから僕は行けないのだ。彼女にしてもそうだろう。
本来ならば、少女探偵ではない人間は生きて帰れるかどうかわからない。彼女は運が良かったのだ。僕はそう思っている。
今僕がやらなければいけないこと。僕は彼女に何か食わせてやらねばならない。たとえば少女探偵が好きだったレシピを開きかける。だが、閉じる。僕がかろうじて作れるハンバーグは少女探偵になる前の彼女も食べた料理なのだが、このレシピだけは、少女探偵が決して上手く作ることの出来ない料理であり、それゆえレシピにも載っていない。また彼女自身にも上手く作ることの出来ない料理なのだ。
僕らは懐かしい匂いを嗅ぎながら、ハンバーグを一緒に食べる。
僕や彼女が少女探偵にさよならを言うためにその料理を食べる。