彼の始まり
鬱蒼とした森の奥。
辺りの草木は背が高く、とても見通しが良いとは言えない。
あるのはこの森唯一と言っていいかもしれない獣道というには少々立派な一本道。町まで出るためには人の足で軽く1時間は掛かるだろうか。
町から続く一本道の森の奥。その終点にはポッカリと開けた場がある。
街の光は届かず、月明かりにより辛うじて視認できるその場所は、木造の家と表すには少し贅沢とも思えるような、しかし小屋と表すには少し大きい建物。周囲には小さい畑、井戸、窯等があり、ここで生活している者が居ることを簡単に想像できる。戸の隙間からは微かな光が漏れ、煙の申し訳程度の煙突からは煙が上がっている。
普段なら静寂に包まれた夜の森に、今日に限っては招待されていない、歓迎などされるはずがない2つの影。黒ずくめのローブで更にフードを被り、着けている黒い仮面には視認するための穴などない。片方が小屋の方を見た後に相方を見、相方もそれに頷く。
2つの影が潜んでいた草むらから出る。
ジャリッ…ジャリッ…
森の奥だからか道は草木を刈って整備されてはいるが地面はそのまま、歩くたびに土と石が擦り合う音が響く。
建物へあと5歩もないというところだった。
「誰かおるのか」
嗄れた老人の声が二人の足を止めた。二人が声の主を確認しようと顔を向けると、建物の横から上半身裸の老人が立出てきた。風呂上がりだろうか、手に持った布で老人というには不相応な引き締まった身体を雑に拭いている。
「何だお前さんたちこんな夜遅くに」
老人はまだ二人の異様な黒ずくめの装いが、周囲の暗さでただの人影にしか見えていないようだった。その言葉からは怪しむ素振りはなく、純粋な疑問が感じ取れた。
「じいちゃん?どうしたの?」
建物の横開きの扉が開き、中から3歳位の小さな男の子が出てきた。髪は黒く寝ていたのか眠かったのか、目はほぼ閉じかけていた。
が、建物の扉を開けたことにより、中の光が黒ずくめの二人を照らし出す。全身黒ずくめに黒い仮面。その異様な姿に、男の子のほとんど閉じかけていた目が見開き、灰黄色の瞳が顔を出す。
「コレだ」
黒ずくめの一人が言うが早いか、男の子に掌を向ける。掌の中心が暗く光り、そのまま男の子に向けて放たれる。
ドォンッ!という轟音衝撃。建物の入口は吹き飛び、辺りには土埃が舞う。
「…ッ!!」
間一髪で老人が男の子を横に突き飛ばし事無きを得た。
「立てるか!?すぐ町まで走るんじゃ!」
明らかに人目を気にする風貌の二人だ。人目の多い町まで行けば襲っては来ないだろう。
まだ土埃が舞う中、老人はそう叫びながら襲ってきた者の背後に、常人では有り得ない速度で移動し、目の前の首を持っていた布で勢いよく締め付ける。
ゴキッという鈍い音と共に黒ずくめの身体は糸が切れた人形の様に力を無くした。
とても老人とは思えない身体能力に驚いたのか、もう一人の黒ずくめが焦ったように仲間と老人に掌を向ける。
「……え?」
男の子はまだ理解が出来ていないようで、突き飛ばされたまま土埃の向こうを見つめている。
ドォンッ!と数瞬前に聞いた同じ音と衝撃で舞っていた土埃が吹き飛ばされる。土埃が晴れた瞬間に見えたのは、首に布を巻かれた黒ずくめの者と、先程自身を突き飛ばして助けてくれたであろう、男の子にとって唯一の家族である老人二人の上半身が宙を舞う姿だった。
「じいちゃん!!?」
ドサッという音と共に老人の上半身が落ちた。男の子はすぐに駆け寄りたいが、理解出来ないことの連続だからか、足は産まれたての子鹿のように震え、立ち上がることすら出来ずに、地面を這いつくばりながら老人の元へ向かう。
しかし、残っていたもう一人の黒ずくめの前を通り過ぎることは叶わず、腹部を思い切り蹴り上げられ、肺の空気が強制的に外へ追い出されたかのようにゴフッっと口から音が漏れ、蹴り飛ばされた。
「ヤだ…ヤだよ…」
男の子は蹴り飛ばされてもなお、老人のもとに這いつくばりながら駆け寄る。
「じいちゃん…!じいちゃん…!?」
老人の周りには夥しいほどの血溜まりが出来でおり、這いつくばってきた少年も血で汚れていた。
「風呂に入ってたからの…血行が良いわい…」
自身の現状を把握し、老人は男の子の頭に手を置くと冗談交じりにそう言い、男の子のすぐ背後に歩いて近づく黒ずくめに目をやった。
「町に…な…。逃げ」
周囲に水っぽい音と骨が割れる鈍く軽い音が響く。
言い終わる前に老人の頭は黒ずくめの足で踏みつけられ、潰れたトマトのように形を失い、男の子の頭にあった手は力なくその場に落ちた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!!」
まだ少年と表すには幼すぎる男の子が、一瞬で目の前の光景を理解した。
いや、してしまった。
無理もないだろう。唯一の家族が文字通り目の前で形を失ったのだ。
その場に落ちた手を必死に握り、ここで初めて涙が堰を切るように溢れ出した。月明かり眩しい夜空を見上げ、見開いたその眼は金色に輝き、獣の咆哮のように絶叫した。
「しまっ…!!」
黒ずくめが発した言葉は最後まで続きはしない。
その瞬間、男の子を中心に金色の光が広がり、周囲全てを飲み込んでいった。
光は空へ登り、森の外からでも何かがあったことは用意に想像できるほどの異質な光景を森内外へと知らしめた。
森には似付かわしくない光が消え、周囲にはいつもの静寂が戻る。しかし、そこにはあったはずの人工物は消え失せ、森の中の開けた広場は周りの木が乱雑になぎ倒され、その面積を広げていた。
そこに残されていたのは意識を失った男の子と、手を握られたままの性別不明の遺体だけであった。
妄想を忘れる前に形として残しておきたかった。