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償いの果てに  作者: 伊平愉音
経九郎記
7/9

経九郎記ー時間を刻む音

 唸るような風が吹き大量の雨を降らせ、春の嵐が通り過ぎて行く。そんな、太陽の光が遮られる日が数日続いた。ガラス越しに荒れる外の様子を時々伺いながら本を読み、ノートに文字を書きとり、油揚げの作り方を勉強する。

 この家には使われていない土間があり、ヨシオはそこに農作業に使う道具を収納していた。大雨で外に出られない間に、その土間を豆腐作りと油揚げ作りのために再び使えるようにしようと言い、嵐に負けじと作業をしていた。勉強だけでは退屈を感じた僕も出来る事を尋ねては手伝いをした。

 生活には慣れた僕だったが、一つだけ中々慣れない事があった。時間とともに生きると言う事だ。果てしない時代を人として生きることになるという予感はあっても、今はまだ狐の時代の方が長いと言えた。

”暗くなれば夜。明るくなれば朝。”

それでよかった。だから、今は何時かということに気を配ることは、もうしばらくは出来ないかもしれないと感じていた。今までは、それでも何の問題もなかったのだが、初めて経験する長期間の雨模様のおかげで完全に感覚が狂ってしまっていたのだった。分かりやすく起きる時間を遅らせ、体調を崩していく僕の様子を見かねて、シズエが言った。

「柱時計、音が鳴るように修理してもらいましょうか。」

雨が弱まった頃を見計らって派出所のリュウイチを呼んだ。


「ああ、ようやく収まりそうな雰囲気ですね。久しぶりの大雨。」

そう言いながらリュウイチはシズエからタオルを受け取り体の雨粒をふき取ると、ドカドカと足音を立てて上がり込み、早速、柱時計を修理し始めた。作業をしながら口も良く動くリュウイチのお陰で、僕は少し元気を取り戻した。

「よし。後は時間を合わせて、おっ、もうすぐ丁度12時だ。それまで待たせてもらっていいですか。一応ちゃんと鳴るか、確認したいので。」

リュウイチがそう言うと、

「じゃあ、少し早いですけどお昼にしましょう。駐在さんもご一緒に。」

とシズエが言うとリュウイチは、

「もちろん頂いていきます。」

と元気よく言った。思わずみんなで声をあげて笑った。

 雑談をしながらリュウイチは左腕に巻いているものを見つめる。

「それは何?」

と僕が聞くと、

「え、これ、何って、時計だよ。見りゃわかるだろ。」

とリュウイチが言う。

「時計。それも時計なんだね。」

と僕が言うと、

「あ、そう言うことか。腕時計は見たことないのか。他にも色々な時計があるぞ。そうだ今度プレゼントしてやるよ。似合いそうなヤツ。」

と、言うリュウイチにありがとう、と言ったその後、

「後十秒。」

とリュウイチが言い、続けて、

「五、四、三、二、一、」

と言った直後、

”カーン、カーン、カーン…”

と、お寺で聞いたものとも、除夜の鐘とも違う甲高い鐘の音が鳴り響き数回鳴って止まった。

「今のは?」

僕は少しドキドキしながら言うと、

「今、12時になったんだ。その合図だよ。」

とリュウイチが言った。

「時間のことは、あまり説明しなかったわねそういえば。」

シズエが言うと、ヨシオも言った。

「こんな長く天気が悪いことが今までなかったから、特に必要なかったんだよな。」

それを聞いて、リュウイチも納得したようだった。

「なるほどな。えっと、昼の12時と朝と夕方の6時の三回鳴るようにしときました。時計は狂っていませんね。気が付いた時でいいので時々ネジを巻いてください。あ、じゃあケイ九郎、お前の係りにしよう。時間と時計に慣れるためだ。」

「うん、わかった。」

と僕は頷き、ネジの巻き方を教えてもらった。


そして、僕は”時を刻む”と言う言葉を知った。


 ようやく雨戸が開けられるようになった日。だけどまだ、ガラス戸は閉めたままだ。緩やかだが、雨はまだ降り続いている。土間の再生作業と農業の学習をひたすら繰り返す中、僕は新たに”ラジオ”というものを知ることになった。未来の天気を教えてくれるんだとヨシオが言った。そのラジオによると、明日には止むと言っていた。本当だったらすごいなと思う。明日の天気なんてきっと、神様にも分からない。

「少し開けましょうか。ガラス戸。風も和らいだことだし。」

そういって、シズエがガラス戸を開けると勢いよく中と外の空気が入れ替わる。その感覚の気持ちよさに僕は大きく深呼吸をした。柱時計が十二時の鐘を鳴らし、僕はネジを巻く。土間での作業も区切りがつき、本を読むくらいしかすることがなくなった僕は、居間でくつろぐヨシオとシズエの気配を背中に感じながら縁側に座り、片手に本を持ったまま雨が降る様子を眺めていた。そこへ、車の走る音が近づいてきて近くで止まる音がする。その方向をみると傘をさす藤森先生とダイキが見えた。僕を見つけたダイキが手を振る。玄関の方へ消えた二人は、家の中から再び姿を現した。

「こんにちわ。嵐、大丈夫でしたか。」

と、藤森先生が挨拶をする。僕はそちらへ向き直り素直に言った。

「初めてのことだったので少し不安になりました。でも駐在所のリュウイチがあの時計に鐘を付けに来てくれたので、心が和みました。明るい方で助かりました。」

「鐘を…ああ、修理してもらったんですね。」

それを聞いてダイキが悔しそうな顔をして言った。

「えーそうだったんだ。聞きたかったな。」

 ダイキの方を見て僕は言った。

「昼の12時と、朝の6時、それと夕方の6時に鳴るようにしてくれたよ。」

すると、

「6時じゃ流石に遅くなっちゃうよね。」

とダイキが言うと、

「そうだなあ次はもう少し早く来よう。」

と藤森先生がダイキに向けて言った。

 いつも通りの簡単な検診を済ませると、それまで僕がしていたように皆で縁側に並んで座り、話しながら雨が降る様子を見ていた。

「畑、大丈夫?」

とダイキが言うと、ヨシオが

「さあな。でもま、大丈夫だよ。雨が降ってくれた方が返っていい場合もあるからな。」

と言う。するとさらにダイキが言った。

「僕らの畑はいつタネを蒔くの?」

僕は、ダイキを見て言った。

「さっき、話していたところなんだ。この雨があがって、土の表面が乾き始めてからだって。」

「丁度大型連休に入りますね。」

と藤森先生が言うと、

「いいタイミングかもな。」

とヨシオが言った。楽しみだねとダイキが言った。間髪入れず、ダイキが話を変える。

「ねえ、おじいちゃん。あんな場所あったんだね。」

ダイキが指差した方を一斉に見る。そしてヨシオが言った。

「流石に大輝は知らないよなぁ。あれは土間って言って、昔の台所なんだ。残しておいてよかったよ。豆腐作りに便利だと思ってな。」

それを聞いて、藤森先生が言った。

「なんだか随分本格的になってきましたね。私も参加したくなってきましたよ。」

はははと笑いヨシオは言った。

「ケイの好きな美味しいいなり寿司を手作りするためさ。最初は大変だろうが、作り方はなんとなく覚えているし、ケイも雨のおかげで随分学習が進んだだろう。時間はたっぷりあるし、そろそろ何かこだわって一生懸命になるものを初めて見てもいいと思ってな。」

僕は、頷き言った。

「雨が上がるのが待ち遠しいよ。」

「僕も。」

大輝はその場に寝転ぶように倒れこむとその姿勢のまま言った。

「外で遊ぶこともできない。」

僕は苦笑し、ラジオで明日は晴れると言っていたと言った。すると大輝は起き上がり、

「テレビでも言ってたよ。」

と言った。

「テレビ…」

と僕はつぶやき、藤森家の部屋で見たものを思い出す。と、その角度で見ていた空に太陽の光が洩れているのを見つけた。そして、

「アレを知っている。でも、名前、みんなはアレをなんて呼んでるの?」

と、零すように言葉を吐き出した。すると皆も声をあげた。

「私たちはあれを、虹と呼んでいます。」

藤森先生のその言葉を最後に、僕らは虹が消えるまで何も言わずにその風景を眺めていた。


時、場所、僕の姿が変わっても、あの美しさは変わらない。


 嵐が去ると、うって変わって雲ひとつない青空の日々が続いた。風はより暖かに、山々の緑の青さは輝きを増していく。シズエに作り直してもらった農作業用の洋服を着て、縁側に外から腰掛けてその季節の空気を味わいながら、ダイキ達が到着するのを待っていた。

「ああ、いい季節になった。今日もいい天気だなあ。暑いくらいだ。」

準備を一通り終えたヨシオが、そう言いながら僕の隣に腰掛けた。そうだねと、僕は言う。

「待ってる間に、手順を説明しておこうか。」

僕は頷き、ヨシオの解説に耳を傾ける。そうしているところへ、車が停車する音が聞こえてきた。

「よし、じゃあ行こうか。」

ヨシオが言うのを合図に僕も松葉杖を手に立ち上がる。ヨシオと手分けして道具を持ち、畑へ向かう。その途中で車から降りてきた藤森先生とミキ、ダイキと合流した。


 朝起きて朝食を済ませ、田畑での作業を始める。12時の鐘が聞こえ少し立った頃に作業を終える。遅めのお昼ご飯を食べた後、様々な方面の本をその日の気分で手に取り、縁側でお茶を飲みながら読みふける。時には本を手に居眠りをする事もあるが、ほとんどの日々をそれの繰り返しで過ごした。


サクラノオキナの時、全てが消えるその日まで繰り返した日々を、時折、思い出しながら。


 僕の大豆の畑は小さくて、少しの時間で手入れを終える事ができた。その後は、ヨシオの大きな畑と田んぼの手入れの手伝いをする。

 小さな芽は次第に本葉へと変わり、背丈を伸ばしていく。日毎に田畑が模様を変えていく様子は、収穫の日を待ち遠しくさせた。

 乾いた土の上に水滴が落ちるのを見て、汗をかいていることに気付く。ほおに感じた汗の道を右腕の袖で拭う。今日の作業を終えた事を確認して立ち上がり風を受ける。すっかり暖まった空気を味わう様に深呼吸をする。同じように立ち上がり、伸びをしたヨシオと目が合う。

「ああ、終わった終わった。飯にするか、ケイ。」

僕は頷き、松葉杖を取った。丁度そこへ呼びに来たシズエが手を振る。そちらへ向かって二人同時に歩き出した。

 そうした日々を繰り返し、ひと月が過ぎた頃だった。

「梅雨の間、また田畑の仕事もお休みが増えるから、その間に市販のもので豆腐と油揚げの作り方を練習し始めましょうか。」

とシズエが提案した。

「ツユ。」

と、僕がいうと、

「雨の日が続く季節があるんだよ。だいたい6月頃。もうそろそろだな。」

とヨシオが教えてくれたその夜、僕は久しぶりに狐の頃の夢を見ていた。


 鼓を持ち帰ったものの、狐の手では鳴らせない。変身する方法もなぜだか思い出せなかった。だけど、鼓の音が聞きたい。恋しくてたまらなかった。その時だった。

 雨が、鼓を打ち始めたのだ。小さな小さなリズムも何もない雨の音色。そこから、次第に染みが広がっていく。だめだ。このままじゃ、音が鳴らなくなってしまう。僕は鼓を咥えて、雨を避けるように走る。その間にも何処に行くかを考える。あの洞じゃ水気が多すぎる。もっと風通しの良い場所。稲荷の社の軒下。屋根裏…

 横目に、ある建物が写り込んだ。中の様子を伺い、とにかくこれで雨はやり過ごせると、鼓を床に置く。鼓から距離をおき、体の水気を払う。乾ききってはいないが、これで多少の水滴は拭える。せめて大きな水滴だけでもと鼓の表面を丁寧に払っていった。

 僕は暫くの間、そこに住みつくことにした。鼓を鳴す為に、人間に変身する修行を始めた。好きな時、好きなだけ、その音を聞く事が出来る様に。

あの日、あの建物が燃えてなくなるまで。

 

僕は武士の姿で鼓を構え、燃え上がる建物に向かって鼓の音を放とうとした。


 炎を見つめる夢から覚めた時、僕は全身に汗をかいていた。縁側で手に本を持ったまま居眠りしていたのだ。

 この間の嵐に比べれば、とても弱い雨。時々陽光が指す日もあり、一面雲ではあるものの、昼間は明るかった。だが、雨季というだけあって何日も降ったり止んだりが繰り返された。

 久しぶりの青空を僅かに見る事が出来るようになった途端に、気温が上がり始めた。吹気抜ける風もその一瞬は涼しく感じたが、次第に役に立たなくなっていく。僕は手から滑り落ちていた団扇をとり、自分に向かって風を起こした。そうして暫く汗を乾かす。

「ケイちゃん、起きていたのね。暑くて流石に寝ていられないでしょう。」

とシズエが声をかけてきた。冷たい麦茶を出されたので、両手で受け取る。雨が降ると、雑草が育ってしまうとヨシオが言っていたのを思い出し、

「ヨシオは畑にいるの?」

と聞くと、

「ええ、もう始めてるわよ。」

とシズエが言ったので、僕は麦茶を飲み干すと、手に持っていた本を書斎へ片付けにいく。そして、作業用の服に着替えて畑の方へ出かけていった。

すっかり青くなった畑の中にヨシオの姿を見つけ一声かけると、すぐさま僕は自分の畑へ行き、雑草取りを始めた。

 除草作業を続けながら先程の夢を思い出す。燃える建物を見つめながら、鼓を打った指先の感覚。その感触を覚えている。そう思った。


彼は、生き延びる事はできただろうか。


 歴史書を見る限り、彼、”佐藤忠信”は、そこで自害したことになっている。そうなるように、建物に火を放ったのは僕自身だった。

 その一瞬、救ったところで、全ての生き物は遅かれ早かれ終わりを迎える日が来ることはわかっていた。だけど。

住み着いたその場所に彼が逃げ込んできた時、”表現する事のできない何か”を感じた。だから。

その後の事は、僕にももう分からない。だけど、僕の心が届いていたら、そう思う。

 考えている間に大豆畑の除草が終わり、立ち上がってヨシオの方を振り返る。手伝うよと声をかけ、ヨシオの広い畑の方へ移動する。流れる汗を吹きながら、再びしゃがみこみ、雑草を引き抜いていく。炎の音にかき消される鼓の音を耳の奥で感じながら、除草作業に集中していった。

 2、3日晴れが続いたその次の、日が暮れる頃。サラサラと音がして雨がまた降り出した。

「この雨が上がれば、夏だ。」

つぶやく様にいうヨシオの声を心の中で復唱する。


この雨が上がれば、ナツだ。


 あれだけ続いた雨が嘘の様に、雲ひとつない濃い色の青空が広がる。暑さも徐々に増し、寝ていても汗をかく様になる。そして、夢ではいつも、燃え上がる建物を見つめている。そうすると、心まで溶け出してしまいそうな、あまり長く感じていたくない感情に襲われて目を覚ます。説明のしようの無いその感情については、あまり深く考えない様にしていた。多分知っているから。

 真夜中に目を覚ました僕は、松葉杖をとり縁側の戸を開けに行く。そして吹き抜ける風の優しさをありがたく思う。そんな習慣がついてしまった。

 そんなある日、藤森先生と美樹、ダイキが尋ねてきた。

「夏休みの間、ダイキが此処で過ごしてみたいというので、ご相談に。」

と言う藤森先生に、ヨシオとシズエが笑顔で答える。

「大歓迎よ。」

「ああ、近くで夏祭りや、花火もあるし、楽しんでいくといい。なあ、ケイ。」

僕も、”うん”と、笑顔を返す。

「だそうだ、良かったな。」

と藤森先生の言うのを待たずに、ダイキははしゃぐ様に言った。

「やったあ。頑張ってお手伝いします。何からやる?」

明日からで良い、とヨシオに言われ、

「楽しみだなあ。」

と、ダイキが大声で言った。

「よろしくお願いします。時々、様子を見にきますので。…後、気になることがあるので、私達も今夜1日だけここで過ごす事にします。」

と、藤森先生が僕の方を見て言った。ヨシオは笑顔で言った。

「ああゆっくりしていくと良い。」


「じゃあ、みんなでお夕飯を作りましょうか。」

両手を音を立てて合わせシズエが言うと、

「折角だから土間を使ってみようか。」

とヨシオが言った。ダイキも僕も声をあげてそれに賛成した。ミキとシズエが野菜を切っている間に、僕らは梅雨の間に練習していた釜の使い方を藤森先生とダイキに説明しながらご飯を炊く。そしてカレーを煮込んだ。そんな流れで使う事になった土間は夏の間、大活躍する事になった。その間、いつものキッチンはと言うと、冷たいものを作るのにシズエが使うのみとなった。

 「僕、にいちゃんと寝る。」

と、ダイキが言うので僕が寝ている寝室にもう一枚布団を敷くスペースを作る。お風呂から上がり、冷たい麦茶を飲みながらダイキの小さな願いを散々聞かされた後、同時に布団へ横になった。

「ココって涼しいね。」

とダイキが言うのを聞いて、それでも寝ていると暑くなって来るよ、と答える。

「暑さで目が覚めた時は、縁側で風に当たるんだ。そうするとまた眠たくなって来る。」

天井を見たままで、言葉を綴る。

「それも楽しそうだけど、僕は朝まで起きないよ。多分。」

とダイキは言った。


 ダイキの宣言通り、真夜中に目が覚めたのは僕だけだった。ダイキを起こさない様に起き上がり、縁側へ移動し戸を開ける。寝返りを打ったダイキの顔がこちら側を向く。その様子を笑顔で眺める。

 僕が暑さを感じるのは、夢のせいだ。あの時、確か、建物が焼け、崩れ落ち、雨が降り出して炎が消えるまでずっと眺めていた。その一部始終を毎夜をかけて見続けているのだ。

「梅雨はとっくに終わっているのにな。」

と、自分を見つめる白い月を見つめ返す。


 少しずつ、建物が焼け、崩れ落ちてゆく、その様子がたまらなかったのを思い出す。起きていても夢を見続けている様で、ぼんやりしていると、目の中に建物の燃える様子が浮かび上がった。木材の焼ける音と匂い、崩れて形を変えてゆく木材の塊。涼しいはずの風が、暑い。


唸りそうになったその時、

「ケイ九郎君。」

声と同時に、肩に置かれた手の温もりを感じた。風が涼しさを取り戻す。振り向くと、藤森先生の心配そうな顔がこちらを見ていた。

「お義父さんが、ヨシオさんが、最近様子がおかしい時があると、心配されていたんです。」

藤森先生は、ちょっとまっててと言ったあと、キッチンの方へ消えると、麦茶の入ったグラスを2つ乗せたお盆を持って現れた。

「汗びっしょりじゃないか。」

そう言いながら、グラスを一つ手渡してくれた。そして僕の隣に座ると、団扇で優しく扇いでくれた。

流石に隠せず、ありがとう、と素直に言う。

「相談しなかったという事は、原因がわかってるのかい?」

僕は静かに頷いた。僕は毎夜をかけて見ている夢を隠さず話した。

「そろそろ、収まると思います。でももう少し続くだろう。」

視線をそのままに、言葉を吐き出した。少し息を整えると、僕は藤森先生に笑顔を向けていた。

「ただの、悪夢ですよ。でも先生のお陰で、乗り越えられそうです。」

そうか、と、溜め息をつくと藤森先生は、

「だけど話くらいは聞けるから、遠慮しないでくれ。みんな心配するから。」

気づくと、ヨシオとシズエが襖の向こうから見ているのが見えた。なんだか僕は急に照れ臭くなって鼻の頭を指で摩りながら、

「ありがとう、ございます。」

と言った。グラスの片付けを手伝ったあと、もう一度ありがとう、と言葉を伝え寝床へ戻ろうとした。すると物音に気付いて、縁側の戸が開けっ放しになっている事に気付く。閉めに戻ると、雨が降り出す音がした。見上げると、月は出たままだった。

「トオリアメ。」

教わった言葉をつぶやく。そして、静かに戸を閉めた。

その様子を見守ってくれていた藤森先生、そしてヨシオとシズエが僕に向けて

「おやすみ。」

と囁くと、音を立てない様に襖を閉めた。


 布団に戻って眠りにつくと、燃えていた建物は雨を受けてしゅうしゅうと音を立てていた。

「新たな居場所を探さなくては。」

鼓が濡れない様に胸の中に抱えこむ。白い煙を揺らめかせる目の前の黒い塊を直視できず、それでも、そこを離れることさえできずにいた。鼓を抱きしめたまま、雨が止むまでそこに立ち尽くしていた。

挿絵(By みてみん)

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