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償いの果てに  作者: 伊平愉音
経九郎記
6/9

経九郎記ー眩い謎

 除夜の鐘を聞いた日から数えて、3度めの朝を迎える。という事は今日が3日ということか。と自分の中で納得する。僕はまた、昨日着ていた着物を着て部屋を出た。居間の入り口で待っていた様子の藤森先生がおはようと言い、そして話し始めた。

「この間の話を覚えていますか。検査の事ですが。」

「今日が3日ですよね。覚えています。」

と僕がいうと、

「少し遠いところにある大学病院で行います。なので車で行きます。検査前なので朝食を軽めに、少なめにしておいて下さい。」

と藤森先生は言った。僕は、

「はい。」

と答えた。藤森先生は静かに頷き居間の戸を開けた。

 

 「今日は助手席に、前の左の席に乗って下さい。」

言いながら、藤森先生は車の左前方の扉を開けた。僕は松葉杖を先に車に乗せると両手の力を使って体を浮かせ、自分も車へ乗り込んだ。シートベルトの着け方を教えてもらい姿勢を落ち着かせると、藤森先生は車の扉を閉め、反対側から車に乗り込みシートベルトを同じように着けた。ヨシオ、シズエとミキとダイキが揃って見送ってくれる中、車は大学病院へと出発した。

 しばらくの無音の後、藤森先生が話し始めた。

「いろいろな機械に入ってもらうことになります。緊張する必要はない。と言っても緊張しないほうがおかしいかもしれませんが、怖がる必要もありませんので安心して下さい。」

僕は、頷く。また少しの沈黙の後、

「誰もいないところで話をしておきたいと思っていたんです。」

僕は頷く。

「いくつか質問してもいいかな。」

「はい。」

と僕は頷く。

「名前、本当はなんと伝えたかったのか、今なら発音できるんじゃないですか?」

はっとして、そう言えばと思い、僕は頷いて言った。

「あれは、”源九郎(ゲンクロウ)”です。」

そうか、と藤森先生は言う。

「でも、僕は”ケイ九郎”と言う名前を気に入っています。もともと僕に名前などありませんから。」

まるで、鼓をくれた”あの武士”と話しているようで、いつの間にか丁寧語で話していた。

「昔のことをどこまで思い出したか、聞いても?」

そう言われて、僕は少し考えて言った。

「僕自身、理解出来ない事がほとんどで、説明のしようがない事が多いのです。」

また、考えて続けた。

「僕を、受け入れてくれた、せめて関わった人にくらいは僕の全てを知らせて行きたい。そう思うけど、僕自身が、理解出来ない記憶の方が多くて。」

言いながら、こんな話し方がいつの間にできるようになったんだろうと、自分で思う。源九郎、狐だった頃、そして”サクラノオキナ”の頃が完全に自分の過去として蘇っていたのだ。そんな中、片足を欠如して産まれた事はある意味では救いだったように思えた。


 二つの過去は、人間ですら無かったのだから。


「話しぶりを聞いていて、記憶は完全に戻ったと言ってもいいのかな。」

藤森先生は、覚悟を決めたように遠慮なく質問を投げかけた。僕にはそれが返って嬉しかった。僕は、まっすぐ前を向いたまま言った。

「全てではありません。でも、少しずつ思い出しているところです。」

「え。」

と小さく声をあげ、藤森先生は言った。

「”知らせて行きたい”って、俺は、あの時、君の正体がわかっても追い出したりはしないと約束した筈ですが。」

藤森先生の声が、少し驚いているように聞こえた。

「はい、覚えています。」

と僕は言った。藤森先生は言う。

「なのに、出て行くつもりでいるのかい。」

その声のトーンを聞いて、僕は目の奥が熱くなるような気がした。

「もちろん、すぐには無理です。少なくとも、ヨシオさんとシズエさんが生きている間は。」

「ああ、そうか。」

と、藤森先生は大きく息を吐いた。

「君と接する大輝を見ていて、自分が抱いていた君に対する不信感を馬鹿らしく思えていたところだったんだ。お義父さんとお義母さん、ああ、ヨシオさんとシズエさんも、同じ想いを体験したと昨晩話していた。君はもう、俺たちの家族なんだよ。」

「ありがとうございます。」

僕は、それ以外の言葉を思いつく事ができなかった。心を整えて僕は言った。

「ひとつだけ秘密をいうと、僕は役割を持って生まれてきたんだと思います。それが何かは僕にもわからないけれど。」

「人間は誰しもそうだろう。生まれる原因はあっても理由はない。」

そういう、藤森先生に僕はもう一言付け加えた。

「他の人とは違う道を行くんだろうと思います。」

少しの沈黙の後、藤森先生は言った。

「それも皆同じさ。道は自分で見つけるんだ。私が医者になったのも自分で選んだ道だからな。」

赤信号に気づいて、車を停車させてから藤森先生は続けた。

「”この場所”でゆっくり探すと良い。時間はたっぷりあるんだろう?」

信号が青に変わり車を発信させると、一呼吸おいてから藤森先生は言った。

「君の行路のために、できる限り協力するよ。何より私達も楽めるからな。私たちの事も君の歴史の一つに加えられるように、この時代を、」

言葉を選んで、藤森先生は言った。

「君にとっては僅かかもしれない時だろうけど、せめて楽しもう。」

その言葉に頷きながら僕は、溢れそうな物を抑えるように静かに目を閉じた。


ー 時間はたっぷりあるんだろう。ー


 その言葉に、どんな意味があるのか聞き返せなかった。今の時代なら普通の人間だって丈夫なら100年は生きられる人間もいる。それを短い時間とは言えない。僕は心臓のあたりが締まる感覚がした。終わりがあるかどうかもわからない時間の中へ僕は投げ込まれたのだ。

 そう思ったその時初めて、僕は罪を償うために生まれてきたことに気づいたのだった。僕は人間に生まれてこれた事に喜びすら感じている。だが、


これは、呪いに違いなかった。


 車を降りて、左足だけで立ち松葉杖を準備する。車の扉を閉めようと手をかけると藤森先生が”大丈夫”と言い、僕に代わって扉を閉めてくれた。できる限り寒さを和らげようと輝きを増す太陽の存在に気付き、手をかざしながらそちらを見上げる。いい天気でよかったと言う藤森先生に、そうですねと答える。

「さあ、結構時間がかかりますから頑張って早く終わらせましょう。お腹、空き始めているでしょう。」

僕は頷き、藤森先生の後をついて歩き出した。


*          *          *


 大輝がケイ九郎に懐いてくれて助かったと思っていた。それと同時にもう後戻りはできないとようやく覚悟を決めていた。寂しい思いをすることは悪いことではない。それよりも、余計な問題を気にしなくていい。それだけで、十分だった。ショッピングモールを巡る間、オープンカフェで談笑、服選び、大晦日の年越しに初詣、ケイ九郎はずっと俺たちの家族同然で、検査当日を迎える頃には、”大切な存在”そう思えるようになっていた。

 年末年始、休診中の静かな大学病院の中。だが、入院病棟は人の気配とともに音で溢れていた。今日は予定通り、ケイ九郎の人間ドックの日だ。検査を始める前に、自分の担当の入院患者に新年の挨拶をして廻る事にした。それに、ケイ九郎もついて歩かせるのだ。

 ケイ九郎は、この場所の殆どが始めて見るものだといい、興味深そうにキョロキョロとその場所を見渡していた。年末年始を共に過ごした事で、ケイ九郎は、俺たち以外の人間との交流にも積極的になっていった。片足である事を物ともせず、出会う患者達と笑顔を交わす様子は、正月を病院で過ごさなければならなかった彼らの心に力を与える結果となった。

連れてきて正解だったと心から思った。


 今思えば、この事が彼自身が生きる目的を見つけるヒントになったのかもしれない。そして俺は考えを改める必要ができた。

 

寂しい思いをするのは俺達ではないかもしれない。ならば…


*          *          *


 僕の身体の検査は、なんだか楽しかった。不思議な機械の中に入ったり、体の中を循環するものを取り出したり。時間がかかると藤森先生は言っていたけれど終始新鮮で、何ひとつ苦にならなかった。だが、

「これで、終わりです。」

と、藤森先生が言い検査着から元の着物に着替えて外に出ると、もう日は傾き始めていた。車に乗ろうとすると、僕のお腹が”ぐう”と音を立てた。

「はは。私も流石にお腹が空きました。どこかで、済ませて帰りましょう。」

「うん。」

僕は、頭に手を置いて頷いた。

 帰路は、行きの話題とは全く違う話をした。まるで蟠りが消え、見えない壁も取り払われたように思えた。狐だった頃のことを言わないまでも、思い出したことを話すくらいは良いかもしれない。藤森先生の声色を聞いていると、そんなふうにさえ思えるのだった。


この日、一日のことを、僕は今でも鮮明に思い出す事ができる。


 正月期間が過ぎ、僕はヨシオとシズエと共に畑のあるあの家に再び戻り、暮らし始めた。わずかな期間でも町を歩いて巡った事で、シズエの買い物についていけるようになった。

 この時期のこの辺りは、町に比べて雪道が多い。松葉杖が滑りやすくて初めは慎重にならざるを得なかったが、それも次第に慣れていった。

「本当に、ケイちゃんは頑張り屋さんね。あっという間に私より早く歩けるようになって。」

汗を滲ませるシズエを見て、自分の歩くペースが早くなったことに気づく。

「ごめんなさい。つい。」

そう言って今度は、歩く速さを調節する事を覚える努力をした。

 仕立てている着物はもうしばらくかかるという事で、僕は、年末に買ってもらった即席の着物とヨシオのお下がりを着まわしにしていた。最初に買った洋服よりも、着物の方が着脱も歩くのも楽だった。使い方を教えてもらった風呂敷にシズエと半分こにした荷物を包み背中に背負う。途中で出会うご近所の人たちも声をかけてくれるようになった。原因はリュウイチ。買い物帰りに丁度鉢合わせした彼と挨拶もそこそこに言葉を交わす。リュウイチは僕の事を彼方此方で宣伝でもしているように紹介していると正直に話した。

「片足が無いのに、積極的に出かける姿が皆の励ましになるんだ。」

と言った。無遠慮に話すように見えるが、彼なりの配慮を感じて思わず笑顔になった。


 買い物から帰ると、玄関に二足の靴が並んでいるのに気付いた。

「ただいま。」

とシズエと揃って声を張り上げると、

「おかえり。」

と、ダイキとヨシオの声が返って来た。そして畳を駆ける足音と共にダイキが顔を出した。松葉杖を横に置き、風呂敷包を体から降ろすと、

「これ持っていくね。」

とダイキが風呂敷包みを持って台所の方へ行った。その背中を横目に、僕は履物を外し、松葉杖を支えに立ち上がった。

 検査をした翌日、街からこの家まで送ってもらった時に藤森先生は、定期検診のペースを月二回に変えると言った。その、月二回の定期検診に、ダイキがついて来るようになっていた。

 ダイキは、まるで弟のようになついていたかと思うと、ふとした瞬間にまるで兄になったように気遣いを見せる。ダイキのそんな態度は、僕の心を和ませた。それは、僕が、ヨシオやシズエを手伝いたいと思う気持ちと似ているようで、でも少し違うような気もした。

 ダイキは僕を訪ねて来るとき、必ず何冊かの本を持って来てくれた。僕自身も、シズエと行く買い物のついでに新しい本を買って帰る様にしていたので、僕の為にヨシオとシズエが作ってくれた書斎部屋は徐々に本の城へと変化していった。


 風が緩み始めた頃、出来上がった新しい着物に身を包んだ僕は、読書の場所を居間のコタツから庭の縁側に変えた。この身体を手に入れ、目覚めてから初めて迎える春の日、この家の庭に桜がある事を知った。

「お正月の時に桜が好きって言ったのを聞いて、驚かそうと思って黙ってたのよ。」

と、シズエが言い、そういう喜ばせかたを”サプライズ”と言うのだと教えてくれた。日ごとに風は桜の香りを強めていく。僕は、今にも狐の姿に戻れそうな心地で、その空気を全身で感じていた。同時に、入り込んで来る知識も花の色に彩られる様だった。

 その日も同じ様に縁側で本を読んでいると、強い風が吹き抜けて本から顔をあげた。するとヨシオが出かけようとする気配がした。そちらの方へ顔を向けると、目が合ったヨシオが言った。

「田んぼと畑の仕事を再開し始めているんだ。ケイもどうだい。やってみないかい。ずっと座って本を読んでるだけよりいいかもしれないぞい。」

僕は頷き、すぐに持っていた本を置き松葉杖を掴むとヨシオの後をついていった。

「おお、その前に着替えた方がいいな。」

するとそこへ、シズエが来て言った。

「年末に買ったお洋服、もう着ないなら農作業用にしてしまいましょうか?」

「ああ…。」

僕は自分の着ている着物に手を置くと、着替えてくると言ってもう一度、部屋の中へ入って行った。

 僕が読書に夢中になっている間に、ヨシオは田畑の作業を徐々に始めていた。畑は一面土の色だった。だが、一部分だけ不自然な草地のままの箇所があることに気づいた。

「実はもう少し、草取りができていない部分があるんだ。」

ヨシオはそういうと、その場所を指差した。

「最初からやりたいんじゃないかと思って残しておいたんだ。本読みながらこの間、また新しいことを知りたいってつぶやいていたから。」

僕自身、声に出したことすら覚えのない、無意識に発言した言葉をヨシオが覚えてくれていて、その願いを叶えようとしてくれていたのだ。僕は嬉しさを遠慮なく表情に出し、ヨシオの気持ちに答えることにした。

「農作業か、覚えればヨシオを手伝うこともできるね。ワクワクしてきたよ。」

畑の草の残った箇所を見つめたまま、僕はヨシオに聞こえるように言った。

 

 「大きい草をまずは引っこ抜いていこう。」

右側の松葉杖を支えにしゃがみ込み、ヨシオの声を頼りにしながら、僕の練習専用に用意された草地を畑に変えてゆく。ヨシオから軍手という名前の手袋を受け取り両手にはめると、早速目についた草を掴み引き抜いていこうとした。だが次の瞬間、根の深い草を引こうとして、バランスを崩し松葉杖を落とす。そして地面に両手と左膝をついた。

「それは、膝をついてした方がやり易いかもな。」

後ろから声がして、膝をついたまま振り向くと、そこには藤森先生とダイキの姿があった。

「ねえ僕もお手伝いしていい?」

とダイキが言うと、

「じゃあ、この場所のことは二人に任せることにしようか。俺はあっちの畑に種まきしてくるから、ある程度終わったら呼んでくれるかい。」

と言うヨシオに、

「うん。」

元気のいいダイキの声と共に僕も頷いた。

「今日の検診は畑仕事の後にするか。」

藤森先生は、僕専用の小さな畑の端に立って体の動かし方をアドバイスしてくれた。そのおかげで僕は、草むしりが終わる頃には松葉杖なしでも土の上をスムーズに行き来できるようになっていった。僕は立ち上がりヨシオを呼んだ。

「おお、綺麗になったな。じゃあ次は土を耕すんだ。草で根が張って硬くなった土を柔らかくするんだ。」

頷いて、僕は再びしゃがみ込み両手で土を耕そうとした。すると、

「それでも構わないが、ここは道具を使ってみよう。」

ヨシオが言いながら、鉄の板のついた木の棒を手渡してきた。

「”くわ”と言うんだ。鉄の重みを利用して土に潜らせて、そうそう、そのまま土ごと掻き出す。やっぱり器用だな。その調子でまずは、全体を柔らかくしよう。」

ヨシオは、種まきをすっかり終えたようで、僕が鍬を使って土を耕す様子を藤森先生と並んで見ていてくれた。鍬を杖代わりに移動しながら固まった土を柔らかくしていく。思えば、歩く以外に体を動かす作業はこれが初めてだった事に気が付いた。新たな知識は、僕の体をよりスムーズに動かしていった。夢中で土を耕していると、それほど広い面積でなかった僕専用の畑は、あっという間に空気を含んだ状態になった。

「よし。じゃあ次は石灰を撒いて。」

白い粉の入った袋をヨシオから受け取り、手で中の粉を掴みながら土の上に撒いていく。

「よし、そんなもんかな。じゃあ、その粉と土をかき混ぜるようにもう一度耕すんだ。」

僕はヨシオから、今度は先が4つに分かれた鍬を受け取り土を耕していった。

「よし、今日はこれで終わりだ。」

ええ、と、声をあげ、

「タネ巻かなきゃ何もならないじゃない。」

と言うダイキに。ヨシオは笑いながら言った。

「肥料と土を馴染ませるために二週間ほど寝かさなくちゃならないんだ。土だけでも植物は育つが、こうやって手をかけたほうが確実に成長させることができるのさ。せっかく巻いたのに育たなかったらガッカリだろう。」

そう言うことかと、ダイキは納得しながらも少し残念そうな顔をしていた。その様子を見て僕は微笑む。

「じゃあ次、二週間後に種まきをするから、ダイキ手伝ってくれるかい。」

と言うと、すっかり元気を取り戻したダイキは、

「うん。」

と頷いた。

 僕らは4人揃って家へ戻り、僕は服についた土を叩くとそのままお風呂の脱衣所で洋服を脱ぎ、先ほどまで来ていた着物に袖を通して、ヨシオ、藤森先生、ダイキとシズエを加えた四人の待つ卓へと移動した。卓には味噌汁といなり寿司が並べられていた。

「そういえば、お昼ご飯まだだったね。お腹がすくはずだ。」

言いながら座り、松葉杖を置き両手を合わせた。五人で揃って頂きますと言い、食事を始めた。いなり寿司を食べながらヨシオが言った。

「そうだ。ケイの畑には大豆を植えようと思っているんだ。いなり寿司の皮の部分あるだろう。原料が大豆なんだよ。それ以外にも色々出来るから便利かなと。」

「それじゃあ、豆腐の作り方も勉強しなくちゃいけないわね。あらあら忙しくなって来ちゃったわね。」

シズエが言い、

「豆腐って大豆から作るの?どうやって?想像つかないよ。」

とダイキが言うので、僕は言った。

「大豆ができるまでに勉強しておくよ。」

するとダイキは、

「僕もやる。負けないよ。」

と、声を張り上げた。そうして、僕の生活は徐々に忙しさを増していった。文字の勉強を一通り終えた後、農作業以外の時間のほとんどを大豆の栽培方法と、豆腐の作り方、油揚げの作り方の勉強をする時間になった。

「ああ、忘れるところだった。大事な用事がもう一つ。」

遅めの昼食を終えた頃、藤森先生が右手の拳を左の掌に打ち付けながら声を上げた。食器を片付ける手伝いをしていた僕は思わず振り向く。

「あ、そうだった。兄ちゃん、着物ができたんだよ。」

持ってくるといいながら、藤森先生は立ち上がり玄関から出ていった。

ああ、そういえばそうだった、と、僕は試着の様子を思いだしていた。その後どうなったのかさっぱりわからなかったので、つまり、着物の形にしてくれていたのかと、自分だけで納得した。

 紙製の縦長の包を両手に抱えて藤森先生が庭から姿を表すと、縁側の床に抱えているものをそっと置いた。そこへみんなで駆け寄る。

「開けても良い?」

と聞くと、

「もちろんだよ、君の物なんだから。」

と、藤森先生が笑いながら言った。

素直に笑顔を作った僕は、さっそく一番上の包を開いていった。

そこから現れたのは、臙脂色のコートだった。手に持ったその流れのままに袖を通す。

「これから夏に向かうから、コートはしばらく必要ないだろうね。」

「そっか。じゃあもう一枚も、一度だけ着てみてそれからしまうことにしよう。」

そう言いながら、臙脂のコートを外し包に戻すと、その次の包から松葉色のコートを広げ、袖を通した。どうしてこんなに嬉しいんだろう。心の隅でそんなことを思いながら松葉色のその布に鼻を近づける。松葉の匂いがするわけじゃないのか。代わりに別の匂いがする。この間まで着ていた、デニム調の着物をはじめてきた時はこんな匂いはしなかったな、と思った。

そこまで考えて、コートを外し包に戻すと、2つの包を重ねて少し離れたところへ移動させた。そして、残った3つの包を同じように順に開け、今着ている着物の上から合わせていった。一通り合わせたところで僕は言った。

「これは、お出かけ着にしようかな。」

藤森先生が選んでくれた、黒と紫の着物だった。その着物を袖から外すと、米刺し模様の紺色の着物と、柳葉模様の若葉色の着物を指差して、

「これとこれを普段遣いにしようかな。」

と言った。

「うん、無難な決め方だね。」

と、藤森先生が言った。そうして、新しい着物を満足いくまで堪能した後、僕は着物をそれぞれ包に片付け重ねると、コートの入った包もその上に重ねて片足で自分の部屋へ仕舞いに行った。そしてまた、片足で皆の集まる縁側へ出ていった。

「兄ちゃんすごいね。もう杖無しで大丈夫じゃん。」

と、ダイキが僕を見て言った。言われてようやくはっとした。

「多分嬉しかったから、今、ほとんど何も考えてなかったよ。」

「なるほど。」

と藤森先生は笑った。その後、少し間をおいて言った。

「今の試着を見ていて思いついたんですが、歌舞伎を、今度、お芝居を見に行ってみませんか。小屋に興味を惹かれていたでしょう。」

僕は、大きく頷いていた。


*          *          *


 桜の花びらが終わりを迎える頃、無事に手に入った歌舞伎の千秋楽のチケットを確認すると、美樹と大樹も連れて待ち合わせ場所に設定した芝居小屋の最寄りの駅へ徒歩で向かった。広場のベンチに腰掛け、大樹と美樹がそれぞれで選んだ缶ジュースを口に含んでいる。その様子を横目に、俺自身も缶コーヒーを開ける。

「まだかなあ。」

と足をブラブラさせながら吐き出す大樹に、腕時計の時間を確認しながらもうそろそろかなと、答えた。そうしているうちに、駅から大勢の人が出てくるのを確認する。その中に黒と紫の着物に袖を通したケイ九郎の姿を見つけた。それと同時に大樹が走り出しそうになったので、肩に手を当てて止めた。

「危ないから、ここで待っていよう。手を降ってご覧。」

おーい、と言いながら、大樹が手を大きく降るとお義父さんが気付きケイ九郎に教える素振りをする。ケイ九郎は松葉杖を右側に一本だけ持っていた。開いてる左手で、大樹に手を振り返した。

「カッコいいわねそれ。よく似合ってるわ、ほんとに。」

挨拶代わりに美樹が言った。するとケイ九郎は少し照れくさそうにする。どこにでもある普通のやり取りなのに、感慨深い思いがしてならなかった。

「申し訳ないです。こんな隅っこになってしまって。手配が遅くて。」

「いやいや、チケットが取れただけでも十分だよ。」

「本当。歌舞伎なんて久しぶりだわ。」

人数分のお弁当を買い、座席につくなりそんな会話をする。ケイ九郎はというと、辺りの様子を余すことなく観察していた。

「建物までにぎやかなんだね。」

という言葉にそちらを向くと、ケイ九郎がステージを目を輝かせて見つめていた。本当になあと、お義父さんとお義母さんが相槌を打っていると、明かりが落とされ、演目が始まった。音楽が聞こえてくるとケイ九郎の目は一層輝きを増したように見えた。

 前半の演目が終わり、お弁当を突きながらケイ九郎に感想を聞く。すると

「鼓の音が懐かしくて、胸がいっぱいになりそうだった。」

と、少し目を潤ませながら言った。

懐かしい。つまり、覚えがあるのか。どんな思い出だろうな。と思ったが、聞けないまま、後半を迎えた。

”義経千本桜”

演目が進む中、


「源九郎の名を授けよう」


叫ばれたセリフに目を見開いていた。1月3日に車中で話した内容を思い出していた。


”あれは、”ゲンクロウ”です。”


これは、偶然か。繋がっているのか。まさか。聞いてみたいが聞いて良いものか?もし当たりだったとして…

演目を見てはいたが、頭は混乱していた。すると、低い声で、ケイ九郎の声が聞こえてきた。

「僕に変身する力はありませんよ。まさか、こんな美しいなお話として語り継がれているとは。でも、全て、失われた過去の話です。僕にとっても。」

 俺は大きくため息を付いた。だけどその語り方に、物語に登場する狐こそ彼の過去なのだと信じることにした。同時にそのことはもう考えないことにした。能力を失うどころか片足を欠如して、しかも最初はほぼ何もできない日が続いていた。近頃は”願い”が叶ったことを噛みしめるように、人間を楽しんでいる。皆に幸福感と力を与えるそんな表情を振りまく者を、悪者にする気にはならなかった。


 最寄り駅まで見送る道中、もう一度感想を聞いた。すると、潤いを保ったままの瞳を隠すように見つめ返しながら低めの声で言った。

「実はあんなに綺羅びやかじゃなかった。声も人物も。まるで違う話。だけど、もらったモノ、言葉、そこに込められた優しさ。まるで夢を現実に持ち出したようで。それに。誰も信じるはずがない。それを打ち明ける代わりになったことが何より嬉しかった。」

「こんなことが起こることがあるんだな。」

俺も、静かに返した。

「俺にも、そういう過去があったんだろうか。そんな風に考えてしまうよ。」

「だとしても、殆どの場合は忘れて生まれてくる。僕は生まれ方からして違った。残念ながらただの人ではないことは明らかだ。」

少し考えて、低い声のまま、俺は言った。

「願いが叶ってよかったな。」

すると、ケイ九郎は一つ頷いて、皆に聞こえる声で言った。

「ヨシオとシズエと、藤森先生と美樹と大樹と、それから、リュウイチもだ。そのおかげで、出会えた。その御礼に僕は僕のできることを増やしていきたい。」

言いながら、背筋を伸ばすケイ九郎の後ろで、夕日が辺りを黄金色に染めていた。

挿絵(By みてみん)

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