経九郎記ー新たなる世界
「さあ、着きましたよ。」
またウトウトし始めていた僕は、藤森先生の声で意識を新たにした。
「今ドアを開けますから、少し待ってくださいね。」
車が揺れる中で僕は松葉杖を準備する。窓から藤森先生の顔が見えて、ガチャリ、と音がすると車の扉が開いた。
「気をつけて。」
と、後ろからシズエの声が聞こえる。僕は藤森先生に支えられながら左足と松葉杖を使いゆっくりと車を降りた。
初めて目を覚ましたあの家とは違い、幅が狭く縦に長く見えるその家は、近隣にも同じ様な装いの大小様々な家が立ち並ぶ中にあった。
ヨシオとシズエも車を降り向きを変えたところへ、聞いたことのない新しい声が聞こえてきた。
「いらっしゃいお爺ちゃん、お婆ちゃん。あ、その人がお父さんが言ってた人だね。こんにちわ。僕、大輝だよ。」
一度にたくさんのことを言いながら、小さな男の子が飛び込んできた。その後を追って、また違う声が聞こえた。
「いらっしゃい、お父さんお母さん、疲れたでしょう。お昼できてるからまずは食べて。ケイ九郎さんもゆっくりしてくださいね。荷物は私たちで運んでおくから。」
「ごめんなさいね、言っていなかったけど藤森先生は私たちの娘、美樹の旦那さんなのよ。」
と、シズエの言うのを聞きながら、僕は夢の中での出来事をふわりと思い出していた。
両親の気配を追いかけて山中を走り、その形見を手に入れて人里を去る。それがなければ僕はここに再び蘇ることがなかったと、なぜか思う。なんだか不思議な気持ちになった。
何も発せず考え込む僕を見て、
「大丈夫?痛くない?」
と、心配そうに僕の顔を覗き込むダイキに、痛くないよと言い、二人で家の玄関へ向かった。
「大ちゃんまた大きくなったわね。」
と言う、シズエの声が後ろをついてきていた。
「お婆ちゃん、ちゃん付けやめてよ。僕、男なんだから。」
「ふふふ、そうだったわね。」
そんな会話を横で聞きながら、僕も笑顔になっていた。
「はい、どうぞ。」
勢いよくドアを開けてくれたダイキの前を通り過ぎ、玄関の小上がりに腰を下ろす。後から入ってきたシズエから湿りけのある紙を受け取って、松葉杖の先を拭く。順番に松葉杖を床に置き、片方しかない足から履物を外す。両手で腰をうかせ、足が置ける範囲まで移動すると松葉杖の片方を支えに立ち上がった。そこへ、タイミングよくもう片方の松葉杖が差し出される。その先にダイキの笑顔があった。
「ありがとう。」
と言って、僕は松葉杖を受け取った。自慢げな笑顔を見せるダイキにつられて僕は”ふふっ”と声を出して笑った。
ダイキに案内されて居間に敷かれた座布団の上に座る。
「お爺ちゃんと、お婆ちゃんも座ってて。いまお茶持っていく。」
「まあまあ、大きくなったのは身体だけじゃないみたいね。」
「本当だな。頼もしいなあ。」
ヨシオとシズエが順に居間に到着し、口々にいう。
「いつもこうならいいんだけどねえ。」
ミキは苦笑いの表情でダイキの様子を伺っていた。そんなミキに見守られながら、ダイキがお茶の入った湯呑みを乗せたお盆を持ってそろそろと現れた。お盆を卓の上にそろっと下ろすと、ヨシオとシズエと僕の前にそれぞれ湯呑みをおいた。
「ありがとう。いただくわ。」
「いただきます。」
「いただきます。」
それぞれダイキに向かってお礼を言い、三人同時にお茶を口に含んだ。ダイキは嬉しそうに僕たちを交互に眺めていた。
藤森先生も加わって暫しの談笑の後、寝室兼自室へ案内された。寝具や家具の使い方を一通り説明した後、
「気を使わなくていいですから、ゆっくりしてください。」
と言い残し、部屋から出た藤森先生は、
「ああ。」
と、一声あげると、戸を閉めようとしたその手を止めた。再び戸をあけ僕の近くまで来て少し小声で話し始めた。
「ここにいる間に、君の身体のことを検査しようと思います。この間、言おうと思ったのですが、少し考えあぐねていたので。でも、どちらにしても、やはりちゃんとわかっておいたほうがいいと思って急遽手配をしました。1月3日を丸1日使ってやろうと思います。そうしないと結構疲れると思うので。」
僕はよくわからずに、だけど承諾しないといけない気がして、声を出さずに頷いた。そして独り言の様に言った。
「僕の身体が何で出来ているのかが解る。」
それを聞いた藤森先生は身体の向きを変えて言った。
「何が分かっても、態度を変えないと約束します。」
藤森先生は、沈黙から逃げる様に部屋から出て行った。
その表情を見る事は出来なかった。
この日は夢を見なかった。鼓の在処を考えていたはずだったが、何も思い出す事なく朝を迎えた。
ヨシオ、シズエと暮らしていた家とこの家で、大きく変わった事がある。椅子に座って食事をする事と、寝るための布団が少し低めの椅子くらいの高さの台に敷かれていた。お陰で立ち上がるのがとても楽になった。他にも便利だと思うところがいくつもあった。そういうものを見て感じる正体のわからない不安は、僕自身を鍛えるのに良い効果をもたらした。暇を見つけては歩く事と筋力を鍛える事に使おうと考えていた。
ヨシオのお下がりの着物を身につけて食卓へ向かう。そこで、別の部屋で過ごしていたヨシオ、シズエと出会った。
「おお、おはよう。」
「おはよう。」
と僕を見ていう二人に、
「おはよう。」
と、笑顔で返す。ヨシオがそのまま食卓の扉を開ける。椅子の並べられた背の高い卓には、いつもとは雰囲気の違う朝食が並べられていた。それらを眺めながら僕は、様変わりしたこの世界を新たな記憶として残さなければと、ワクワクしながら案内された椅子に座った。
皆に習って、黄色く香ばしい香りを放つ板状のそれの角を口に入れ、噛みちぎる。似た色をしているのに、油揚げとは全く違う美味しさを感じる。
そんな風に味わっていると、
「パン食べた事ないの?」
と、お喋りを続けながら口をモグモグさせるダイキが、僕を質問責めにし始めた。どこから来たか。どこへいく途中だったか。今、何歳で、どこで生まれたか。冷静に考えて、答えられるのはその次の質問だけだった。
「好きな食べ物はある?」
「僕は、油揚げ…いなり寿司が大好きなんだ。」
そういえば、そうだったわね。とシズエが言い、僕が起きられる様になって初めて食べたのがいなり寿司だったんだと、代わりに説明した。
「本当にうまそうに食ってたなぁ。」
とヨシオも思い出すように言った。まるでもっと遠い昔のようだと、一本しかない脚を意識した。
「今日お買い物に行くんでしょ。僕も一緒に行く。」
朝食を終えてミキが卓の上を片付け始めると、ダイキが立ち上がるなり言った。それを合図に、それぞれ出かける支度をして玄関へ向かった。
履物を履き終えて松葉杖を手に立ち上がると、藤森先生が貸してくれた足まであるロングコートを羽織った。そこへ、ミキが紺色の厚みのある柔らかな手触りの袋状のものを、そっと手渡してくれた。
「ケイ九郎さん、良かったらこれ着けてみて。頭寒そうで。」
「こうするんだよ。」
とダイキがして見せてくれるのを真似て、頭につけてみると、ふわりと頭が柔らかくなる感じがした。
僕には毛というものが何処にも生えていなかった。当然、皆の頭に生えている毛も、僕には生えていなかった。常にその状態でいたので特に不快な感じはなかったのだが、ミキは心配してくれた様だった。急に寒くなった様子の外を想像する。
「気持ちが優しくなった。ありがとう。」
と言うと、大袈裟ねとミキは笑った。
ショッピングモールは駅前にあるんだとダイキが教えてくれた。
「いろんな道を歩いてみるのも楽しいと思います。」
と藤森先生が言った。心の中の決意を見抜かれたようで不思議な気持ちがした。
道案内をしてくれるダイキの後を追いながら駅前のショッピングモールへと続く道を行く。畑とは違う色をした地面を見て、これが”マチ”か、と思う。道に慣れ始めたところで、改めて街並みを仰ぐと、今までとはまるで違う世界の風景が見えて心が騒いだ。ヨシオ、シズエと暮らしていた所と比べて家の一つ一つは小さいが、数え切れないほどの家の数が街中を埋め尽くしていた。
ダイキが、”こっちだよ”と言って曲がった角を通り過ぎた次の瞬間、視界が開け、大きな門のようなものが見えた。それと同時にその場所を埋め尽くそうとする、周辺の建物の数に見合った人間の数の多さが目に飛び込んでくる。さらに、見たことのないモノに、聞いたことのない種類の音。
明らかに加速している発展の進み具合を見ていると、なんだか新たに手に入れたこの身体のようだと感じていた。
「慣れない道で疲れていませんか?お店を見て回る前に少し休憩しましょうか。」
屋根のある通りまで来たところで、藤森先生が提案する。僕は珍しく汗をかいていた。藤森先生を見て素直に、うんと頷く。すると、ダイキが駆けていき手を振りながら
「ここ座れるよ。」
とオープンカフェの席を指差した。するとそこへ、エプロン姿のお店の人が来てテーブルをセットしてくれた。ヨシオ、シズエと三人並んで座り、それに向かうように藤森先生とミキとダイキが座った。
飲み物の注文を終えて待つ間、藤森先生が話し始めた。
「男性がスカートを履くのはやはり気の毒な気がしますが、ズボンも右足の部分が靡いたりすると危険な感じがしますね。となると、やはり和服が一番人目も気にならず自然な感じがすると思うのですが。どう思いますか?」
藤森先生が言うと、ヨシオとシズエも考えるように言った。
「なるほど、そうだなあ。洋服の方がケイの場合は目立ってしまうかもな。」
「本当ね。洋服を揃えなきゃとばかり思っていたけれど、脱ぎ着もズボンの方が大変かもしれないわね。」
「だけど着物は仕立てにも時間が掛かるからすぐ着られないわよ。」
ミキも会話に参戦する。ダイキは理解できない会話の意味を理解しようと、真剣な表情で聞いている。
「出来合いから、何枚か選ぶしかないか。どこに売ってるんだろう。」
と言いながら、ヨシオが考え込むような仕草をする。困ったように片手を頰に当てて、シズエが言う。
「それなら裾の直しくらいは私たちでできるけど。」
「とりあえず、外出用と普段着用だけは仕立ててもらいましょうか、お正月には間に合いませんがあった方がいいでしょう。今日、着る服は洋服の中から良さそうなものを選ぶしかないですね。片足は短く折り込んで、うまくやってみましょう。」
藤森先生が少し残念そうな表情をしながら僕の方を見て言った。同じような表情でシズエが言った。
「もうちょっと早く気付くべきだったわね。ごめんなさいね、ケイちゃんそういうことでいいかしら。」
あの時、変身後の着るものをどうやってたんだろう。
と、頭の片隅で思いながら、
「僕は、寒くなければなんでもいいよ。」
と言った。本当に外見のことはあまり考えてはいなかった。けれど、皆は残念そうな表情で僕を見ていた。
飲み物を飲み終えて立ち上がると、
「ケイ九郎君も色々見て回りたいでしょう。まずは、簡単に着替えられそうなモノを探したら、ゆっくり楽しみましょう。今日は時間もありますから。」
気を取り直して言う藤森先生に、笑顔で頷きながら僕らは立ち上がった。
ショッピングモールの中を各店を見ながら歩いてみて、僕は、先ほどの会話の意味を理解していた。着るものを扱う店のほとんどすべてが洋装のみを販売している。ヨシオに借りていたような和装と言われる服を扱っている店を見つけるのは難しそうに思えた。
僕達は、その中の一際広いスペースを占める、様々な種類の服を揃えた店に入ることにした。
「紳士服は、ああ、あっちだ。」
行くべき方向を指差し、藤森先生が先導してくれるのに皆でついて行く。
「いっぱいある。迷うなあ。」
「僕も手伝ってあげる。」
思わず出した言葉に、ダイキが楽しそうに言った。はしゃぐなとミキと藤森先生に言われて肩をすくめるダイキに、
「ありがとう頼むよ。」
と慰めるように言うと、ダイキは僕に近づいて僕が着ているコートの袖をつかみ、
「うん。」
と言いながら、満面の笑みを見せた。その様子を見ていたヨシオとシズエも、ふふ、と微笑んでいた。
人々に”サクラノオキナ”と呼ばれ、人間の友人と囲碁をさし、酒蔵に通い、平和な暮らしを堪能していたあの時のことを思い出す。その次に、”佐藤忠信”という武士に変身したときのことを思い出す。どちらも二本足だったことを思い出し、あの時とは全く別の生き方をしなくてはならなくなったのだと気づく。改めて周りにいる人間たちを見渡して、記憶の中の服装も普段着にはふさわしくないと、更に気付く。並べられたたくさんの服を一望して様々な色があることを知り、色だけでも合わせることはできるかと思う。”佐藤忠信”の時は彼の真似をしなくてはならなかった。桜翁の時も、確か、その時手に入ったものを着ていたと思い出す。嫌いではなかったが、自分の好みかどうかという意味では違うような気がする。
ぐるぐると考えているうちに、僕はすっかり固まってしまっていた。
ただ、眺めながら黙って考える僕の肩にヨシオが手を置いた。
「難しく考えんでいいぞ。好みも育つものだからな。分からなければ、機能性で選べばいい。」
後に続いてシズエが言う。
「そうね。考え込んじゃうと疲れてしまうわ。脱ぎ着しやすそうなものという点で選んで見ましょう。」
優しく言葉をかけてくれる二人のおかげで、知らないうちに入っていた肩の力がスッと抜けていった。
着脱しやすそうなものに加えて、今着ている藤森先生の大きな黒いコートに似合うもの。そういう風に選んだ結果、柔らかいが張りのある素材でできた腰の部分の伸び縮みする黒いズボンに薄手のカットソーと呼ばれる濃いめの青色のシャツを着、その上に、今日は寒いからと首まで隠れる青色のセーターを着て試着室のカーテンを開けた。
「体つきが素敵だから、何を着ても似合いそうね。」
と、ミキが言った。本当だと、藤森先生も笑う。つられて笑いながら、シズエが僕の側まで来て中身のない右側のズボンの裾を折り畳んでいった。
「今はとりあえずこうしておきましょう。ケイちゃんが着替えている間に安全ピン買って来たの。」
そう言いながら、短くたたんだズボンの裾を落ちないように止めてくれた。着心地が悪くないかと尋ねるシズエに僕は大丈夫と答えた。
そのほかに、同じ種類の色違いを三着ずつと自分用のロングコートを一枚、それに下着や肌着も何枚か買って、その店を後にした。
「今のを見ていると、和服でなくてもいいような気がしてきたな。ケイはカッコイイから、足りないものがあることがまるで気にならないよ。」
「本当ですね。冬はロングコートを着れば問題なさそうです。」
ヨシオと藤森先生が言うのを聞きながら初めて着る洋服に手を当てて思う。
「僕もこれ、すごく気に入ったよ。松葉杖も使いやすい。」
と、すっかり目的を達成した気分になっていた。
「まあでも、夏にコートを着る訳にもいきませんし、呉服屋さんにも行ってみましょう。」
と、藤森先生が言った。そうかと思いながら僕は頷いた。
藤森先生とミキ、それにヨシオとシズエが、通り過ぎる店について交代で説明してくれるのを聞きながら、数えきれないほどある店をゆっくりと見て周る。記憶のどこにもないものが、今この瞬間にも産まれているのかもしれないと思う。
そうして、ショッピングモールの床を松葉杖を突いて歩くのにも慣れてきた頃だった。
「あ、あれに、似たものを知っている。」
思わず僕は声に出していた。人間がそれを使うのを見た事があるのを思い出していた。囲碁の相手をしてくれた何人かの友人たち、それと、酒蔵の主人だ。そこに、細い棒の様なものを滑らせていたのを思い出す。
「書店、本の店です。そうだ、文字の読み書きの学習も少しずつ始めた方がいいですね。ちょっと見て行きましょうか。」
藤森先生が言い終わらないうちにダイキが書店の入り口に一歩入り、早く早くと手招きをした。ダイキの後を着いて行くと、硬質で厚みの少ない本が置かれた一角に到着した。
「僕、いつもここにある絵本の中から選んで買ってもらうの。」
僕は、目立つように置かれた本の中の一つを何気に手に取った。予想はできた事だが、進化はこんなところにまで行き届いていたのかと思う。記憶のものよりも輝いていて硬い表面をしばらく眺めて、開いた方を開ける。と、
「けいにいちゃん、反対だよ。」
と言って、ダイキが僕の持っていた本を正しい向きにして渡してくれた。すると、僕にもわかる美しい風景の絵が現れた。記憶の中の本もこうだったのだろうかと思う。
「まあ、綺麗なのを選んだわね。絵本なんて何年ぶりかしら。」
遅れて追いついたシズエが、僕とダイキを見つけるなり言った。
「ねえ、僕も今、文字のお勉強してるんだよ。一緒にやろうよ。」
「大輝、良いことを思いついたな。この子の学力ならちょうど良いかもしれませんね。」
藤森先生は、ダイキと共にお勧めの絵本とノートという何も書いていない本を選ぶと、
「文房具も買って行きましょう。」
と言って、字を書くための道具が置かれている場所に移動することになった。そこで、毛の束をまとめたようなものを見つけた。それは小さな壺のようなものと、黒い段のついた皿のようなものと一緒に一つにまとめられていた。
「これは?」
と言うと、ヨシオが気づいて答えてくれた。
「筆と墨と硯だ。これも文字を書く道具だが、特別な時にしかもう使わなくなったな俺も。」
簡易なものですねと、藤森先生が言い、
「興味がありますか?」
と尋ねられて少し考える。”アレがこれなのか”と酒蔵の主人の手元を思い出す。だが、見覚えがあるだけで使った経験などない。
「それなら、初めはペンの方がいいんじゃない?」
固まって考える様子の僕を見て、ミキが提案をした。
「そうか、それなら大輝でも使える。」
と、閃いたように藤森先生が言った。そうして、絵本を二冊、子供用の文字練習帳一冊、ノートが5冊一纏めになったもの一つと鉛筆、消しゴム、フェルトペンという字を書く道具、墨と筆のセットと、それからミキや藤森先生、ヨシオ、シズエがそれぞれ自分のために選んだ本を一冊ずつ買ってその書店を後にした。
書店を出ると、地図があると藤森先生が小走りに遠ざかり程なくして戻ってきた。
「呉服屋さんの場所を確認してきました。こっちです。」
藤森先生に誘導され呉服屋さんのある方へみんなで向かった。
明らかに様子が変わる香りと空気。呉服屋さんはショッピングモールの一番奥にあった。他の店とは雰囲気の違う賑やかさがそこにはあった。その時僕は、その中の最も目立つ所に展示されている着物にいつのまにか目を引かれていた。赤色に光るその着物に見惚れていると、結婚式に花嫁さんが着るんだとヨシオとシズエが説明してくれた。その時僕は蘇る記憶の事を思っていた。
赤色に光る着物を着ていた人間、”静”という人と知り合った記憶。鼓の音と声が頭の中で鳴り響く。
「ねえ、こっち」
ダイキの声が僕を、記憶から呼び戻す。後に続いて
「何か、思い出したのですか。」
と、少し真面目な顔で藤森先生が言った。もう少しだけ赤い着物を見つめてから僕は素直に言った。
「これとそっくりな着物を着ていた人と話したことがある。」
「そうですか。記憶に留めておきます。」
そう言うと、藤森先生は別の着物の前へ案内してくれた。だが、そこにあったのは着物ではなく巻き取られた布だった。戸惑っていると、シズエが説明してくれた。
「体にに合わせて仕立ててもらうのよ。」
と言って、ちょうど試着している他の人たちを指差した。
「お好きなものがあれば仰ってくださいね。」
大きな鏡と共に現れた女性が声をかけてきた。その人の動きを何となく眺める。その後に、自然にその横の鏡に視線を移動させる。そこに写る自分の姿を見る。鏡も人間が使うのを遠くから見ていただけだった。
「僕が写ってるの?」
と言葉を発すると、鏡を持ってきた人が笑顔で頷いた。
「姿見は初めてですか?」
そういえばそうねと、シズエが言った。シズエは改まって言葉を続けた。
「さあさ、反物をどれにするか決めましょう。」
「どれにしようかな。どれがいいかな。」
と言うとダイキが、そうだねと言いながら一緒になって考えるそぶりを見せた。腕を前に組んで反物の列を見つめている。
「ふふ、ありがとう。」
と、僕は思わずダイキに向けて言った。まだ決めてないよ、と、ダイキは頰を膨らませて僕の方を振り返る。その時、はっと何か思いついた顔に変わり、
「けいにいちゃん、ここに立ってよ。似合ってるのを見つけてあげる。」
と、反物の前に立つように指示した。
「そうだな、自分で選ぶのもまだ難しそうですし、ある程度、私たちで選んでからケイ九郎くんに選んでもらうようにしましょうか。」
なるほどと、ヨシオとシズエ、ミキもその意見に賛成し僕と反物を見比べ始めた。僕も、選べないながらも並んだ反物を一つ一つ観察していった。
ほどなくして僕は姿見の前に来るように促される。松葉杖を壁に立てかけ、コートを脱いだ僕に、
「お預かりします。」
と、手を差し伸べたお店の人は、少しはっとした。そして納得したように表情を笑顔に戻した。
「格好良く見えるものを選びたいですね。」
と、その人は言った。僕は鏡ごしに、返すように笑顔で頷いた。
藤森先生とミキ、ダイキ、そしてヨシオとシズエ、それぞれ一つずつ僕に似合いそうな反物をお店の人に伝え終わると、僕の試着の様子を一列に並んで座り鑑賞している。初めはその状況を少し居心地悪く感じていたが、試着が進むにつれて次第に気にならなくなっていった。
「僕が選んだの一番に着てよ。」
と催促するので、ダイキが選んだものから試着することになった。
「僕は紺色が好きなんだ。」
「ダイキの好きなの選んでどうするの。」
「でも、ケイにいちゃんにも似合うと思ったんだよ。」
一応考えてるのねと、安心したようにミキはため息をついた。鏡ごしに聞くそんなやりとりを楽しみながら、自分の装いをじっくり見る。よく見るとダイキが選んだ反物は無地ではなく白い小さな柄が等間隔で施されていた。
「何の模様だろう。」
と、言葉にすると僕に反物を巻きながらお店の人が言った。
「米刺しと呼ばれている刺し子によく使われる模様ですね。」
とお店の人が言うと、
「星じゃないの?」
とダイキが言った。
「漢字の”米”に似ているから”米”刺し。」
と、お店の人が言うのを聞いて、なあんだ、とがっかりするダイキに、でも星にも見えるわねとシズエが言って慰める。すると、
「でしょ。」
と自慢げな顔になってダイキが言った。そんなやりとりの間に試着が終わり
「どうですか?ご自分で見てみて。」
お店の人が言った。ダイキは案外ちゃんと選んでくれたようだ。同じ米刺しの色違いのものもいくつかあったが、その中から最も”しっくりくる”ものを選んでくれていた。
「嫌いじゃない。なんか嬉しい感じがするよ。」
と僕は言った。とりあえずキープだなとヨシオが言うと今度はミキが選んだものを着ることになった。
「渋い色の方がカッコいいと思うの。だから、臙脂色にしてみたの。」
臙脂色というその色を見ていると、”サクラノオキナ”の時、似た色の半纏を着ていたような気がする。と、ぼんやりと思い出す。
「はい出来ましたよ。」
と言うお店の人の声に我に帰ると、姿見の中の僕が再び現れた。
「あ、ごめんなさい。やめた方が良さそうね。」
と、すぐにミキの声が聞こえてきた。僕は懐かしさがあったので良いかもと思っていた。
「そうかな。」
と僕が言うと、気にしなくて良いのよ。とミキは言った。
「次いこ次。あなたが選んだのはどれ?」
そう言うミキの声を聞きながら、僕は少し考えていた。その間に今度は藤森先生の選んだものの試着が始まる。
「私は無難に、どこに行くときも不自然でないようなものがいいと思いました。そう言うものは案外誰でも似合うんですよ。」
そう言う考え方もあったか、とミキががっかりした風に言うのが聞こえる。僕はふふっと小さく笑った。試着が出来上がると、それは左右で色が違うが、どちらも柄のない無地で、鏡の右側が闇のような黒色で左側が夜空のような紫色だった。僕は何だか背筋が伸びる様な気分がした。
「わぁ、カッコイイね。」
「ああ、体型がカッコイイから、こういうのが似合うんだなあ。」
とヨシオが言った。急に居心地悪そうにしはじめた僕に、照れちゃった、とシズエがいいながら、ふふと笑った。
「どうします。キープします?」
というお店の人に僕は頷いて答えた。
その次に試着を始めたのは、ヨシオが選んだものだった。
「松葉色にしてみたんだ。」
森の色だと僕は思った。この色はとても心が落ち着くような心地がした。
「良い色だね。」
と、つい漏らすと、自然の色が好きな様だなとヨシオが言った。みんなも納得した様に頷く。
「でも、さっきのと比べるとちょっと違和感を感じるわね。似合ってないわけじゃないと思うけど。」
シズエが言う。鏡に映る自分の姿を見ながら考えていると、
「じゃあ次で最後ですから、それを試着してみてから考えましょうか。」
とお店の人が言ったので、僕はそうしますと答えた。
「私も、緑がいいと思ったんだけど、私は若葉色にしてみたの。」
シズエが言うのを聞きながら春の森の色だと僕は思った。
「柳葉の模様が先ほどの深い緑と似ていますね。」
試着の作業をしながらお店の人が言った。風に舞う柳の葉の模様がその言葉で初めて目に飛び込んできた。
「これ、これが良い。」
と思わず出た言葉に、”じゃあ、これは決定ですね。”とお店の人が言った。そこにいた皆が、笑顔になっていた。
結局、みんなが選んだ物を全て仕立ててもらう事になった。柳葉模様の若葉色のもの、白い米刺し模様の入った紺色のもの、左右で色の違う黒と紫のものを着物に仕立て、臙脂色のものと松葉色のものをコートの長さの羽織りに仕立ててもらう事にした。その後、仕立ては間に合わないからお正月用にと、仕立ての終わっているフリーサイズと呼ばれる藍色という名の色の着物と羽織、そして履物をみんなで選んでくれた。
呉服屋での手続きを終えると僕はすっかり疲れてしまった様だった。行きよりもゆっくりのペースで歩を進めなくてはならなかった。そこで、またどこかで休む事にし、そこで夕飯も済ませ帰路についた。
次の日朝食を済ませた後、前日に手に入れた洋服の色違いを身に着けると、僕は早速文字を覚える作業に取りかかった。食卓から少し離れたコタツという卓に座布団を敷いて着く。ダイキは右隣りに座り、僕の学習を横から支えるように手伝ってくれた。藤森先生は病院の仕事があると、一人で出かけていった。休みの日でもこう言う事がよくあるんだとダイキは言った。
ダイキと僕が一緒になって賑やかに勉強していると、自分達の用事を済ませたヨシオとシズエが順にやってきて同じ卓に着いた。程なくしてミキも卓へ着き、何か作業を始めた。気になって見ているとミキは、
「編み物してるのよ。作るのが好きなの。」
と教えてくれた。あの帽子も私が編んだのよ、と言った。僕は面白そうだなと思ってミキの手元にしばらく注目していた。
「にいちゃん、続き。」
ダイキに言われて絵本に視線を戻す。ノートに、そこにある文字を丁寧に写し書いていく。書きながら、ダイキが発音する音を自分でも発音してみる。そう言う作業を一日中繰り返した。
夜中なのに、灯りが見える。寝ぐらにしていたこの地域の稲荷の社も、大勢の人間の気配がしていた。
僕は人間に見つからない様にその様子を眺めている。遠くから、“ゴーン”という響きが何度も聞こえてくる。その音が聞こえなくなると人間達は口々に同じ言葉を放つ。はじめの頃は奇妙に感じていたが、季節が巡り同じ頃に同じ様にしている事が次第に解り、
人間は、季節を数える事にしたのか
と、思った。あの音は、嫌いじゃない。
集中して学習し過ぎたのか、いつのまにか夢の中へ移動していた。強まった夕日の光で目を覚ましたのだった。
「あ、起きた。ケイにいちゃん、ご飯だよ。」
と、ダイキが呼びにきてくれた。ちょっと頑張り過ぎちゃったねと、ダイキは苦笑した。つられて僕も微笑んだ。食卓にはもう全員揃っていて、それぞれ席に着こうとしているところだった。そこに、良い香りが漂ってきた。
「大晦日はお蕎麦を食べるんだよ。」
「いなり寿司もあるから、好きなだけ食べて。」
と、添える様にミキが言った。
オオミソカ。
と、心の中で唱えながら、僕は素直に喜び笑顔を作った。
あの時は匂いだけだったお蕎麦を、いなり寿司を食べながら味わう。
僕はもう、幸福感で満たされていた。
「昼寝をしていたなら、今日、これから出かけることはできそうですか。」
食事が終わると、藤森先生が尋ねてきた。僕は少し考えて、
「大丈夫だと思う。」
と言うと藤森先生は、
「ではもう少し休んだら出かけますので、よかったら一緒に行きましょう。時間になったら呼びます。準備してゆっくりしていてください。」
と言った。僕は頷いて、そのままになっていた勉強道具を抱えて自室に向かった。自室の机に勉強道具を置くと、ショッピングモールで買った、出来合いの着物に着替えた。セットの羽織に腕を通してベッドに腰掛ける。横になるとまた夢を見てしまいそうだったので、身体を起こしたままぼんやりと思いをめぐらせていた。そこへ、ダイキが勢いよく扉を開けるのに驚く。
「にいちゃんそろそろ行くって。」
左手で胸をさすりながら、うん今行くよ、と言う。
僕は立ち上がり、松葉杖を手に取った。
「今から行けばちょうど神社に着く頃には年が明けるんです。」
藤森先生の口から出た言葉を心の中で繰り返す。
トシガアケル。
「去年までは僕、眠くて行けなかったけど、今日は僕も昼寝しちゃったから眠たくないんだ。だから一緒に行けるよ。」
おかげで私も行けるわ、とミキが言いながら現れた。
玄関を通り過ぎると、ヨシオとシズエが待っているのが見えた。
「流石に寒いわね。ケイちゃん大丈夫?」
とシズエが白い息を吐きながら言う。
僕はミキにもらった帽子を忘れずに持ってきていた。
「うん、大丈夫。」
言いながら僕は、帽子を被った。
歩き始めてしばらくは僕らだけだったのが、街灯の数が増えるに従って人の数が増えていった。
「疲れていないか。」
と言うヨシオに大丈夫と答える。
進行方向に稲荷のものと似た大きな門が見えてきた。その先には見覚えのある形の灯がオレンジ色の光を洩らしている。人の数も一段と増えていった。綺麗だと見惚れそうになったその時、遠くから聞き覚えのある音が聞こえてきた。
「除夜の鐘が始まりましたね。」
藤森先生が言った。僕はまた心の中で復唱する。
ジョヤノカネ 。
時が流れても変わらないものがあるんだ、と思いながら、音のする方を仰ぐ。そうして歩く速度を緩めた僕に、止まると危ないからと、藤森先生は僕の背中に手を置いた。気づくと、さらに人が増しているの事に気付く。僕は、
「行きます、」
と少し慌てた風に言った。
夢に現れた記憶と重なり合う光景に、懐かしさと新鮮さを同時に感じていた。
ヨシオとシズエに習って柄杓という道具を使い、作り物の小さな滝壺で手を洗う。見たことのない生き物の彫刻の口の部分から水が出ているのを不思議に思う。シズエに渡されたハンカチで濡れた手を拭き、次はこっちとダイキに案内される。今はまだ列ができ始めた頃だったので、直ぐに先頭になった。前に人がいなくなり、大きな木の箱と鈴のついた太い持ち手の様なものが上から吊られていた。藤森先生がダイキを後ろから抱き上げるとダイキが
「こうして鈴を鳴らすんだよ。」
と言った。僕はいくつか並んだその一つをとり、ダイキにならって鈴を鳴らした。藤森先生はダイキを下ろして、
「ニ礼二拍手一礼、まず二回お辞儀をします。そして二回手を叩きます。」
と解説しながらして見せてくれるのを見ながら同じ様にしてみる。
「そうそう、それで終わりです。じゃあ行きましょうか。」
その言葉を合図に、僕らはその場所を離れた。
振り向く瞬間、聞き覚えのある何かを聞いたような気がした。
が、聞き流して良いものであることを、何故か、僕は知っていた。
気を取り直して、皆のいる方を目で探す。すると
「お母さんおみくじやりたい。あ、わたあめ、たこ焼き!」
ダイキがはしゃぎはじめるのを、どれか一つにしなさいとミキがたしなめていた。えー、とダイキが膨れるのを見て僕は思わず噴き出した。
「ケイにいちゃんも何か食べたいでしょ?」
と聞くダイキにお腹は空いてないと言うと、お腹空いてなくてもおやつは食べたいよとダイキが反論する。
「こらダイキ。」
藤森先生が少し強いめにダイキの名を呼んだ。シュンとなるダイキを庇うようにヨシオとシズエが提案する。
「お正月くらい贅沢しても良いんじゃないか?」
「そうよ。おみくじ引いて、一つだけ何か食べて行きましょう。」
すぐ甘やかすんだから、と言った後、ミキは、
「じゃあひとつだけよ。」
とダイキに向けて言った。ダイキは勢いよく、
「はい。」
と答えた。
たこ焼きの残り香を口の中で味わいながら帰路をたどる。大吉を引いて大喜びしたダイキは、今はミキの背中で夢の中に入っていた。白い息を吐きながら静かな住宅街を僕達は歩いている。僕の松葉杖の音が一際響いて聞こえる気がした。
「何か、覚えている事はありましたか。」
行く方向から目を逸らさずに、藤森先生は僕に尋ねた。
「ジョヤノカネの音。トリイ。スズの音。灯篭の明るさ。その周りの賑やかさ。それに。」
少し考えて
「食べ物の焼ける匂い。それくらいかな、知っていると思った。」
僕は、何故か本当の事を言ってはならない気がしていた。だけど、嘘をつく能力はない。なら、せめて今ここに存在するものだけは素直に語ろうと思った。
「そうですか。」
藤森先生はそれ以上何も言わなかった。
きっと、もっとずっと前から存在していた。だが人間が出現した事で、ただ漂うモノから塊となり、狐として生を成した。事件や事故に何度も遭遇した挙句についにまた、ただ漂う塊に戻り、そして。
そこに僕の意思はない。ヨシオが最初にしてくれた話を元に推理すると、僕は田んぼに立っていた案山子を次の身体に選んだ様だ。だがこれは、案山子の身体ではなく誰が見ても人間の身体だった。どうしてこんな不思議なことが起こり得るんだろう。
理由はわかるわけもない。だが、自身が何者であるかを解らないまでも、なんとなく気付き始めていた。身体なんて手に入れて、不便になるだけなのに。それでも身体を手に入れたのは、僕はもはや、ただの塊ではなくなっていたからと言えるだろう。獣の生を体験するだけでなく人間と、運のいいことに、良い心を持った人間と関わり、かけがえの無い経験を得た。だから、人間としてこの世を生きてみたいという願望が生まれたのだ。
そして、この人たちも狐の頃に出会った人々と同じ心を持っている。
きっとこの人達は、真実を知っても僕を追い出したりはしないだろう。だからこそ、僕はここにい居続けてはいけない事に気が付いていた。僕を裏切らない人達だからこそ。自立でき次第、新たな僕の場所を探そうと、意識の外側で決意しようとしていた。
朝日に起こされベッドを出ると、帰宅時の和装姿に戻り食卓へ向かう。戸を開けるとちょうどそこにシズエがいた。
「よかったわ。呼びに行こうと思っていたのよ。あけましておめでとう。」
と、シズエは微笑み、お正月の挨拶よと教えてくれた。僕は納得して、あけましておめでとう、と返した。食卓には綺麗な装飾のある箱に、たくさんの料理が色とりどりに敷き詰められていた。まるで、あの呉服店で見た赤い着物の様だと思う。
「ああ、もう来てたんだな。あけましておめでとう。」
入ってくるなり、僕に言うヨシオに
「あけましておめでとう。」
と返す。そこへ、藤森先生とダイキも入ってきた。それぞれに、お正月の挨拶をしミキ以外の全員が席に着いた。ミキは、席に着いた順に、黒塗りの器に料理を手際よく入れ配っていった。
「お正月にはね、お雑煮って言うお餅の入ったお吸物を頂くのよ。」
と、シズエが言った。
「頂きます。」
と揃って良い、その汁を一口啜った。黄色く濁ったそれは、柔らかな味がした。いなり寿しとどこか似ていて、身体が暖かくなる様な気がした。
自室に戻って文字の勉強をしていると、ダイキが出かけようと呼びにきた。
「そうだね、今日は色々買ってもらえると良いね。」
と、なんとなく機嫌をとる様なことを言いながら羽織に袖を通した。部屋を出るともうみんな玄関を出るところだった。
除夜の鐘がなり終わると元日という名のついた日がきた合図となり、それから三回目の夜まではお正月と呼んでいる、とシズエが解説してくれた。
今までは夜が何度過ぎたかなど、考えたこともなかった。狐だった時は日が沈んだらまた日が昇るのを月の明かりの下で眠って待つ。それだけで良かった。
だけど。
夜の賑やかさとは違う姿で神社は出迎えてくれた。作り物の獣の顔を持ち、舞を舞っている人たちがいる。獅子舞というお正月の舞だと藤森先生が教えてくれた。
「シシマイ。」
声に出して復唱する。そして、“マイ”というものを知っていると、思い出していた。
あの武士から鼓をもらった後、そのまま去ることに違和感を感じて屋敷の近くにしばらく留まっていた。
恩返しが、したかったのだろうか。
その時に、”シズカ”がキラキラと光の様な衣を纏い舞うのを、遠くから見ていた。季節の終わりと始まりの頃に、神社の特別な台の上で舞うのだ。わかるはずもない獣の僕がその美しさに見惚れ、その音が聞こえると必ず観に駆けて行ったのを思い出す。
時間を区切り全ての日に名をつけるその意味が此処にあったのかと、獅子舞を観ながら思う。正月の舞。今日この日だけの特別な祭り。その日だけの特別を人間は、大切にしてきたのだ。
と、子供の泣き声が僕の思考を遮った。舞を舞っていた獅子の人形が子供の頭に噛み付いている。
「止めなくちゃ。」
と思わず言うと、藤森先生が大丈夫と言った。
「獅子舞の獅子に噛まれると縁起が良い、厄除けになるといわれているんです。お祓いの一つですよ。」
人間は面白い事考えるんだなと思いながら、獅子に頭を下げて噛まれるのを待っている人たちの様子を見ていた。すると、
「いかがですか、無病息災、子孫繁栄に。」
獅子の顔の横から人の笑顔が覗いていた。僕は笑い返し、帽子を脱いで頭を下げた。木の板が“こちん”と当たる感覚がした。その一瞬全身に何かが巡った気がしたが、僕は気にしないことにした。
なるほど、厄除け、か。人間はそうやって、面白く楽しく過ごしているんだと理解した。
人間は退屈を怖がっているのか。のんびり過ごすのも、気づかないことに気づけて面白いものなのに。狐であった頃、山や川や空の変化する姿を楽しんでいたと、目の奥に見つめながら僕はまた何かを考えようとしていた。それを遮る様に
「餅つき始まりまーす。」
という声が聞こえてきた。
「お餅は今朝食べましたよね。あれを手作りする、まあ、見世物ですよ。」
藤森先生が言う。ダイキも行こうとはしゃぐので、そちらへ移動することにした。この時期に似合わない半袖の着物を着た人が、大きな木槌を大きな木を切り取ったままの姿の器めがけて振り下ろす。その直後に“ビチャ”という音が鳴る。それをリズム良くよく繰り返す。見ている間にそれらの道具の名を教えてもらう。こうして色々なものを教えてもらうやり取りも、そういえば繰り返しているなと、ふと思う。
いずれ来る旅立ちの大事な足掛かりを、この家族が作ってくれていると思うと、大切にしなければと思った。
「よし、いっちょあがりー。」
と、勢いよく放たれた声にその場にいた人々が一斉に声を上げ、手を打ち合わせた。
そういう現象のことを歓声が上がる、と言うんだとダイキが教えてくれるのは、ダイキが大人になってからのことだ。
出来立てのお餅を前に藤森先生とヨシオとシズエ、ミキが代わる代わる説明してくれる。甘いアンコと甘じょっぱいきな粉が餅にまぶされ、振舞われる。どちらも美味しいが僕はきな粉の方が好きだと思った。それを声に出して言うと、多分いなり寿司にどこか似てるんじゃないかしら、とシズエが言った。元々の材料が同じなんだと解説してくれた。
「お夕飯はおせちを摘むくらいで良いわね。」
とミキが言った。確かに、沢山食べた訳でもないのに振る舞い餅でお腹はいっぱいになっていた。
「あと二日は、うちのご飯も同じメニューだけど…」
と言いかけたミキに、
「ケイ九郎君に、色々見せてあげたいんだ。昼は外のものを食べることにしよう。」
と藤森先生は言った。
その夜、まだ読んでいなかった絵本を開いた。表紙が木に咲く花の色で埋め尽くされている世にも美しい絵本だと思った。そんな風に思うのはこの花のことを僕が知っているからに違いなかった。絵本を抱え松葉杖を一本取り、部屋を出て誰かいないかと居間の方へ行くとヨシオと藤森先生がコタツを囲んでくつろいでいた。二人同時に僕に気づき、どうかしたかと尋ねて来たので、
「教えて欲しいことがあって。」
と、僕は言った。そして、コタツの側にしゃがみこみ絵本の表紙を見せ、
「この花の名前を知りたいんだ。」
と言った。すると、ヨシオが文字を指差して言った。
「おお、”義経千本桜”だ。これは桜だよ。この字だ。”サクラ”だ。」
「サクラ。」
僕は確認するように復唱した。
「春になると咲く、日本人が大好きな花ですよ。」
と、少し赤みを帯びた顔の藤森先生が捕捉してくれた。
「”サクラ”って呼んでいるのか。ありがとう。」
と言って、僕は立ち上がり”おやすみ”と二人に声をかけて自室に戻った。練習を始めてまだ間もない。文字を読む事も書く事もまだ難しい作業だ。だが僕は早速、教えてもらったその花の名前を練習することにした。
サクラ、サクラ
と、心でその名を唱えながら。
前日と同じ様に和装に着替え朝食を済ませると、みんな揃って玄関を出る。だが、今日は昨日とは反対の方向へ歩き始めた。
「今日はお寺に行き思います。」
藤森先生が歩きながら言った。
「そういえばお箸の使い方は上手ですね。覚えていたのですか?」
と藤森先生が尋ねてきた。言われてみればと僕は思った。ヨシオとシズエの家で固形のものを始めて自分で食べたのは、いなり寿司だった。手で食べたな、と思う。しばらくして、食卓で食べる様になった時、確かに用意されていたお箸を自然に使って食べ始めた事を思い出した。使い方を知ったのはいつだろう。おそらく、
「前に使った事があるんだと思う。」
と考えながら言った。
「無意識に刻まれた記憶は忘れないものだと言います。その一つでしょうね。」
と藤森先生は言った。
藤森先生は僕が”普通ではない”事に気づいていたのではないかと思う。質問の仕方がいつもゆっくりだった。言葉を選びながら話していたのが印象に残っている。
「人が多くなってきましたね。気をつけて行きましょう。」
と藤森先生が言った。頷きながら前方を遠く見やると黒い横長の大きな建物が見える。神社と似た雰囲気があるが、トリイが無い。代わりに両側に武士の様な人間の像が立つ屋根のついた門をくぐる。聞こえてくる音と漂う匂いが違う。神社では酒の匂いがしていたがここでは、
「ああ、線香の匂いだ。」
と声に出して言った。大きな丸い器に敷き詰められた粉に、煙を吐き出す線香がいくつも刺さっている。
「線香はご存知でしたか。」
という藤森先生にヨシオが、
「うちの仏壇に手を合わせてくれた事があるんだ。」
と言った。ああなるほどと藤森先生は納得した様に言った。
本当は”サクラノオキナ”の時の記憶だったが、そういう事にしておこうと思った。
鐘を鳴らすと“コーン”という音が響く。その余韻を聴きながら金色の像に向かって手を合わせ、目を閉じる。目の中に何かが見えて、それが何なのかを探る。鐘の音の余韻が消えたのに気付き瞼を開ける。瞼の裏に見えたものついて考えようとしたが、ダイキに呼ばれたので考えるのをやめた。
お寺の敷地の中も、お正月、特別な日を祝う様に賑やかだった。
「甘酒配ってるわ。もらいに行きましょう。」
シズエが僕に向かって手招きする。僕は笑顔で頷きそちらの方へ向かって歩を進めた。
紙でできたコップに入れられた甘酒を一口含んで、いつかの様に宙へ向けてその暖かさを吐き出す。
その様子を見ていたダイキが、
「美味しい?」
と聞いてきた。
「美味しいよ。」
と言うと、ふうんとダイキは漏らす様に言った。
「この子甘酒は苦手なの。」
と、ミキが甘酒を口に含みながらふふと笑った。それを聞いて“ニガテ”と心で呟いた。今のところ出会っていないが、
あるだろうな。
思いつかないけれど、それにも少し興味が湧いた。
お寺の側のお店で昼食を済ませた後、参道を歩いていると、出店が並ぶその中の一つに目が止まった。
「か、き、ぞ、め。」
おぼえたての文字を読み上げる。すると藤森先生が、
「一年の最初の一回の事を”初める”と言いまして、つまりあれはこの年の最初の文字を書くという意味です。本来は抱負、ええと、今年こそこうなりたいというような、目指す事などを短い言葉で書くのですが、」
間を取って藤森先生は僕を見て言った。
「覚えた文字があるなら書いて見ますか?」
と言った。僕は少し考えてから静かに頷いた。
「こちらが筆、この紙に書いてください。」
と、お店の人が説明し終わると、藤森先生が
「その墨、黒い、ああ、この間書店で買いましたね。覚えてますか?」
と言った。頷くと僕は藤森先生の教えてくれる声に従って、筆を持ちその先に墨をつけた。筆の先を整えてそのまま紙に一つだけ書けるようになった漢字一文字を書いた。
「わあ、美しい”桜”ですね。」
と、お店の人が言った。さくらって読むのとダイキがミキに尋ねている。みんな驚いた様子で僕を見ていた。
視線に耐えきれず、
「絵本に乗っていたのを練習したんだ。この一つだけ、書けるようになった。」
と言うと、
「こんな短い間によく書ける様になったわね。」
とシズエが言った。ヨシオも
「本当だ、それも完璧な桜じゃないか。」
と言う。少し考えるように藤森先生が、
「桜について記憶があるんですね。」
と言った。藤森先生の目を見つめながら、僕は頷いていた。
あの日書いた桜の文字を見て、藤森先生が言葉を探した理由が今になってわかる。僕が書く文字は、マスターすると、まるでコンピューターの様に整った美しい字になる。それは僕が、ただの人間ではない事を証明してしまったのだった。だが、そんな事はあの時の僕は気にもせず、貪欲に文字の習得に励んでしまった。大人になったダイキも、それに気づくのは難しい事ではなかった。それでもあの家族は、みんなで僕の旅立つ日を、何も言わず静かにただ見守ってくれていた。
宝物になった“桜”の文字を見ながらその事を思うと、胸が熱くなる。