経九郎記ー蘇る過去
「それじゃあ、ケイ、行ってくるからな。」
「いってらっしゃい。」
農作業へ向かおうとするヨシオとシズエにむけて、顔の表情も使って言葉をかける。
声が出せるようになってから、それなりに言葉を発音できるようになるまで、それほど時間はかからなかった。元々、声が出せなかっただけで二人が話していることは理解できていた。あとはそれを声にすればいいだけだった。ヨシオもシズエも、積極的に色んなことを話し、聞かせてくれた。
そうすると次第に、身体の動かないのがもどかしくなってくる。だがどうすればそれが叶うのかが解らないまま、日々を寝たきりで過ごさなければならなかった。そして、ついにその願いを言葉にしてしまう。するとシズエは考えながら言った。
「筋肉なんて、考えて動かしてないものね。」
ううむ、とヨシオは頷く。すると、掌を音を立てて合わせ、ヨシオが言った。
「明日、雅樹君が来てくれる日じゃねえか?」
それを聞いたシズエも笑顔になって言った。
「ああ、もう一週間なのね。なんだかあっという間ね。そうね、先生が明日、何かきっと良いヒントを下さるわ。」
「センセイ。」
と、聞き返すと、シズエが言った。
「ほら、初めてここで目が覚めた時に、あなたの身体について説明してくれた人、いたでしょう。あの方が藤森雅樹、先生よ。」
そういえば、ヨシオとシズエの他にもう一人いたなと、思い出す。続けて、その時言われた事を順に思い出した。
”君さえ望めば、次第に動けるようになる。”
確かに僕が言葉を発したいと強く望んでいた。話せるようになるまでに時間がかからなかったのは、それもあるということだろうか。ならば、
「明日が楽しみだ。」
と、漏らした僕にヨシオとシズエは微笑んだ。
* * *
日曜日の夕方、俺は彼、”ケイ九郎”の明日の定期検診の予定を確認するために、義父母の家に電話をかけた。すると”ケイ九郎”君が体の動かし方を知りたがったと報告をしてくれた。
「それは、筋肉の様子を見て診ないと私にもなんとも言えませんね。はい、それでは明日。そうですね、この間と同じくらいに伺います。はい、よろしくお願いします。」
では、と会話終了の挨拶をして電話を切った。そして、そうかと納得した。
”君さえ望めば、次第に動けるようになる”と言ったのは俺自身だった。
「本人が早期回復を望んでいるなら、回復スピードが速くなってもおかしくない。」
俺は受話器を置きながら独り言を言った。そして、少し大きめの声でまた、独り言を言った。
「とにかく先ずは診てみないとな。」
* * *
薄暗い酒蔵の中で、一人が僕のために作業をする音が響いている。その間にもポツリ、ポツリと会話をする。漂う酒の香りにほろ酔い気分になっている。
何気なく視線を向けたそこに、ネズミ捕りの罠があることに気づいた。そこに、大好物が仕掛けられている事を知る。
「最近ねずみが悪さをするので、気休めだと思うのですが…」
自分の様子に気づいて、会話相手の人物がそんな話をする。その間にも、もう耐えきれなくなっていた。
こういう時に、人間の事を羨ましく思う。欲に勝てない“けもの”の本能のことを。
”それ”に触れた左手がネズミ捕りに挟まれる。衝撃と激痛が一瞬にして全身を襲う。
次の瞬間には白い世界に覆われていた。
目を覚ましたのは、まだ朝焼けもこれからという静かな時間だった。夢の中の衝撃がまだピリピリと残っていることに気がつく。感覚がある、と思った。布団の暖かさもわかる。その中にじわじわとあちこちが刺激される様な新たな感覚があった。その感覚は、次第にひとつひとつが存在感を強めていった。まるで“鼓”にでもなった様に身体中を弾かれる感じがする。弾かれた各箇所がジワリ、ジワリと微熱を帯びる感じもする。
感覚がある
身体中から伝わる様々な感覚に集中していると、畑仕事に出かけたヨシオとシズエが程なくして帰ってきた。
「さあさ、先生、お待ちかねなんですよ。」
「けい、雅樹君が来てくださったぞい。」
白い服を着た、ヨシオやシズエよりも大きな体つきの人が僕の横に座った。
「お久しぶりですね。覚えていますか?」
「覚えている。」
と僕がいうと、
「ありがとう。身体の調子はいかがですか?」
そう言う先生の顔を見ながら、先ほどからの身体の変化につて説明する為の言葉を探す。
「身体、変な感じがする。」
「変な感じ。」
じゃあちょっと診てみましょう、と言って先生は僕の身体の様子を調べ始めたが、思わず僕は言った。
「センセイ、ムズムズ、する。」
僕から手を離して、先生は気がついた様に言った。
「神経が通い始めているという事でしょうか。」
藤森先生は僕の左手をとり、もう片方の手で肩に触れると、そのままゆっくり僕の手を持ち上げていった。
「腕を持ち上げている感覚、わかりますか。」
聞かれて、初めて見る自分の手をジッと見つめた。見つめても手は動かなかったが、布団の中とは対照的な、ひんやりとした感覚があった。
僕は大きく頷いて言った。
「風の冷たさを感じる。感覚がある。」
ヨシオとシズエは嬉しそうに見合せた。
「そうですか。」
藤森先生も笑顔になって言った。藤森先生は、支えていた僕の左手を掛け布団の上に置いた。そして話し始めた。
「おそらく最初に、というか、最も簡単に動かせる様になるのが手だと思います。」
藤森先生は、自分の両手を僕に見える様にかざした。
「こんな風に、まずは手を開いて閉じられる様になりましょう。焦らずゆっくり、片方ずつ。大丈夫、感覚がもうありますから。」
藤森先生の話すのを聞きながら、風を感じた箇所にじっと意識を集中していった。すると次第に広い範囲で感じられるようになっていった。だがこの時はそれ以外には何も変化を起こすことができなかった。
集中力がつき、ついに僕は大きなため息をついてしまった。そんな僕の様子を見て藤森先生は言った。
「慌てず少しずつ、少しずつ頑張りましょう。その様子なら必ず、動かせる様になると思いますので。」
僕は、藤森先生の顔を見ながら頷いた。
* * *
「また来週様子を見にきますので。」
と言い、義父母の家を後にした。まだ、完全にではないが、動けるようになる可能性があるならひと安心だと心で言い、俺は車を発進させた。
自宅へ戻ると、
「まあよかったわね。」
と、俺の報告を聞いて美樹が言った。
「感覚が戻ったことに違いはないからな。」
というと、
「ひと安心ね。」
と、美樹がまだ油断できない俺の代わりに言葉にしてくれた。思うのと、言葉にするのとではまるで違うんだなと思った。
デジタル音声のように言葉を紡ぐ彼の声が忘れられない。
* * *
その夜は、両手を意識しながら眠りについた。身体中で音が鳴ると言うと藤森先生は、おそらくそれは脈でしょう、と言っていた。血が巡る音だと言い直す藤森先生の声を思い出しながら、身体中の“ミャク”に耳を澄ませる。
気が付くと、見覚えのある山道の草むらの中にいた。地面についた両手を見て獣の姿である事に気づく。ここが夢の中であると同時に過去の記憶だと直感的に悟った。
意思に反して勝手に動いていく身体に、これはあくまで夢であり、記憶の中なのだと納得する。考えを巡らせているといつの間にか、意識はその瞬間のものと同化していった。
僕はその時、身を隠しながらある人間を見失わないように、山道を歩いていた。正確には、その人間の”持っているもの”を見失わないように、だった。
自分の意志では変身できない能力の弱さに、苛立っていた。
そうして、しばらく様子を伺っていると、草木の少し開けたところに到着した。そこでその人間は立ち止まり、とある名前を呼ぶと同時に探す仕草をし始めた。
「忠信、あら、佐藤忠信。」
その人間は、呼んだ名前の人物が見当たらない事を確認すると、荷物の中から鼓を取り出して構え、丸い部分の中心を叩いた。
乾いた不思議な音が山々に響いた。
その余韻を聴いていると、何故か僕は、胸が締め付けられる様な感覚を覚えた。胸の奥がざわざわするのを、身体中を強張らせながら堪えていた、その時だった。
地面に落ちている僕の影が変化していく。僕の、獣の前脚が人間の両手に変わっていく。
その両手を地面から離し二本足で立ち上がると、堂々とした態度でその人間の前に出ていった。その次の瞬間だった。
白刃が降りかかり僕は僕の持っていた刀で受け止めた。二つの刃がぶつかり合い、冷たく鋭い音が耳を貫いた。
刀のぶつかり合う衝撃は、朝の日射しに姿を変えて僕の目を貫いた。思わず目を閉じ再びそっと瞼を開いていくと、僕は驚いてさらに目を見開いた。
固く握られた右手が、天井に向かって伸ばされた右腕の先にあった。心を落ち着けて僕はそのまま、右手に指示を送った。ゆっくりと自分の指示通りに五本の指が開いていく。深い呼吸を時折挟みながら、僕は掌を開いて握るを繰り返した。
ただ嬉しかった。この程度の事が。
目の端がヒヤリとするのを感じながら強く拳を作り、目を閉じた。ようやく時が動き出した、そういう思いがした。
僕は、動いた右手を動かす練習を飽きる事なく繰り返していた。
「たまには休んでもいいんじゃない?練習もやり過ぎると疲れるでしょ。」
「まあ、気持ちは分かるけどなぁ。」
シズエとヨシオの言葉を聞いて、右手の限界に気が付いた。その途端、右手は力無く掛け布団の上に倒れた。
あらあら、といいながら、シズエが近寄ってきて柔らかい布で僕の右腕を優しく撫でた後、顔にもそれを当てがった。
「大丈夫よ。焦らなくても。大丈夫。」
優しいシズエの言葉に、僕の逸る気持ちがスッと治っていった。
右手の脱力と落ち着きを取り戻した心によって、その日はいつもより早く眠りについていた。
そこはとある寺の満開の桜の下だった。そこにある、大きな名物岩の上にあぐらをかいている。右手首に引っ掛けた瓢箪の口に直接に口をつけ、一口含む。広がる酒の香りを感じながら空を仰いで、
「ふう。」
と息をつく。
来る日も来る日も繰り返した事だが、飽きる事なく明日も晴れるようにと願う。こんな穏やかな時をずっと味わっていたかった。
そこで場面が切り替わる。
同じ桜の木の下の大きな名物岩のある場所だった。僕は身体を失った状態で、空気と同じような物になって宙をふわふわと漂っていた。様子を伺っていると、そこには親しくしていた人々が集まり、小さな小屋の様なものを桜の木の下の名物岩の上に建てていた。そこに、大きな白い毛並みの狐の身体があった。それがかつての自分のものであった事を直感的に悟る。やがて出来上がった小屋に向かってそこにいる全員が手を合わせると、言葉の列が聞こてきた。
経だ
低い声で唱えられる経は、まだ意識を保っていた僕の意識を温かく包みこみ散らしていった。とても、とても気持ちがいい。そんな感じがした。
気分が良いのは夢から覚めても変わらなかった。両手を動かせるようになっていたのだ。
両掌を開き腕を伸ばす。天井に届かせるイメージで限界まで両腕を持ち上げてみる。そこへ、おはようと言って姿を現したヨシオが嬉しさの混じった驚きの声を上げた。
「ケイ九郎!肩まで動くようになったんだなぁ。」
腕を下ろして力を抜き、ヨシオを見て、
「うん。」
と頷いた。
「ここまで来りゃ、起き上がるのも時間の問題だな。」
僕はまた笑顔で、
「うん。」
と言った。そして二人で声をあげて笑った。
その夜の夢は、昨夜の夢の続きだった。
桜の木の下の名物岩に建てられた小屋の屋根の上から行き交う人々を眺めていた。しばらくするとその中の子供連れの家族が小屋の前で止まり、何かをしている。母親に指示されて、子供が持っていた包みを小屋の前に置いた。父親が包みの封を開けると、芳しい匂いが漂ってきた。
触ることはできなかったが、匂いだけで腹が満たされる様だった。
夢と同じ匂いがする。匂いのする方を見るとそこには、たった今夢で見たものと同じ色、同じ形のものがあった。起き上がる事は出来なかったが、今にも起き上がれそうなほどに興奮していた。そんな僕の様子に気づいて、シズエが言った。
「これ、いなり寿司よ。ケイちゃんも食べる?」
僕は思わず大きく頷いた。
「じゃあ、おじいさん呼んでくるわね。お昼にしましょう。」
僕の体を起こすためにシズエは僕の背中と布団の間に、更に折り重ねた布団を挟んだ。
「でもきっと、後一息ね。」
シズエの優しい微笑みに僕は力を込めて頷いた。初めて自分の手で食べるものが大好物だということを驚き喜ぶ。いなり寿司の冷たさ、感触、匂いに味、全てを全身で味わう様に大切に食べていった。
こんなに美味しいいなり寿司は多分、後にも先にもないだろう。
両手を動かせるようになってから、見る夢の意味について考える様になった。その中でも景色が切り替わる寸前に耳の奥に響く鼓の音が強く印象に残っていた。
藤森先生が、起きている時の感覚を掴むには良いかもしれないと言ったので、食事の時や退屈を感じた時にはなるべく両腕の力を使って上半身だけでも浮かせる練習を始める事にした。そうして初めて体を浮かせることに成功したその時に、自分には右脚が無い事を知ったのだった。だが、その時の僕にはお腹に力が入らないことの方が問題だった。
「立って歩く方法はその時が来たら考えればいい。」
と言うと、僕の様子を見ながら顔を曇らせていた三人は、安心したように笑顔になり、
「そうだね。」
と、口々に言った。
「それなら、」
と、藤森先生は、先に左足を動かす訓練をしてみてはどうか、と提案した。そうすれば同時にお腹の筋肉も鍛えられる筈だということだった。試しに、足に意識を集中すると身体の中心にも同時に力が入る感じがした。かつて、手を動かそうとしていた時の様に左脚を見つめる。だが、手の時の様にはいかなかった。自分のものであるという感覚が全く感じられない。
「これは、時間がかかりそうだ。」
大きくため息をつくと、
「大丈夫よ。ケイちゃんは頑張り屋さんだもの。きっと直ぐに自由に動けるようになるわ。」
と、シズエが言った。
「そうかな。」
と僕が言うと、
「そうさ、でも無理はしないようにな。」
と、ヨシオが言った。僕はヨシオを見て頷いた。
藤森先生が見えなくなる様子を確認した後、僕は左足の感覚に意識を向けた。
また夢を見るんだろうかと思いながら左足に集中していると、やはり、いつの間にか眠っていたのだった。
夢の中と思えないほどはっきりとした、乾いた音色が空をかける。
それは、桜の蕾もまだ硬い、冬の終わりの頃だった。雪溶け水が小さな池を作り、さらに面積を広げようと一滴ずつ水の上に落ちては、輪っかに波を立てていた。その音を聞きながら僕は、洞窟の中で春の花々が咲くのを静かに待っていた。
そうだ、僕は狐だったんだ。
その夢の主役と同化する寸前に、意識の隅で、そう思うのだった。
父さんと母さんが帰ってこなくなってからどれぐらい経っただろう、とふと思う。
僕はもう両親のことを忘れて生きようとし始めていた。普通の狐よりも長い寿命をもらって生まれてきた僕の一族も、とうとう僕で最期のひとつとなっていた。
この先、世界はどうなっていくんだろう、そんなことをふわりと考えていた。
水滴が波紋を作るのをじっと見つめていると、水が水滴を受け止める音に混じって別の音が聞こえた気がした。なんとなく気になって耳をすます。今度は確かに聞こえた。水溜りの波紋と共鳴するかのように、余韻の長い澄んだ音だった。
その音に聞き覚えがある気がした。
いつのまにか走り出していた。まるで感覚を失ってしまったかの様に、土の冷たさも風の冷たさも感じることなく、音に向かって走る。
そこに、忘れようとしていたもの達がいる。
ひた走り、息苦しさに気づいて速度を緩めた。疲れるのがいつもより早いと思った。そんなに必死に走っていたのかと考えながら、それでも足を先へと進ませた。歩く様に走っていると消えた音の代わりに匂いを感じた。
この先だ。
そう思ったその時だった。薄く張った氷を割って、水溜りに左の後ろ足が吸い込まれた。氷の破片が足に刺さった感覚を覚えて、流石に立ち止まらざるを得なかった。
だけど、追いかけなくては。
音と匂いの重なるその“源”を見つめて、僕は二本の足で立ち上がった。
深い呼吸をゆっくりと繰り返す。
僕は、一本しかない脚に布団の温もりを感じていた。布団をめくり両腕で上半身を支える。左足を見つめ、
「指を曲げろ。」
と指示を出す。新しい感覚と同時に足の指が動き出す。もう一度指示を出し、今度は目一杯指を開く。足の指を曲げては伸ばすを何度も繰り返した。
「ケイ!」
声に振り向くと、笑顔で驚く三人の姿があった。僕はいつのまにか、自立して座れる様になっていた。
「足が動かせそうなんだ。」
と言うと、シズエが、
「また、いなり寿司、作らなきゃ。」
と自分の頰を両手で包みながら言った。
いなり寿司を頬張り、甘みを味わいながら咀嚼する。座る時は、左足の踵で右の腰を支えるように座る。そうしなければ居心地が悪いような感じがした。起き上がれるようになって気がついたのは、僕は、ヨシオやシズエに比べて大きいという事だった。左脚を伸ばしたままではお尻が直ぐに痛くなってくる。そこで、出来るだけ楽に長く座っていられる姿勢をいくつか試した結果、その座り方が定着したのだった。積極的に寝床から出て動くようにしていた甲斐あって、壁や柱を支えにすれば、立ち上がるところまで出来るようになっていた。初めて目を覚ました日から、季節を一つ越えようとしていた。
動けるようになって、初めてお風呂の入り方を教えてもらった。だけど動ける様になったと言っても、両手を床につき、左足を腕の高さになるように曲げて、まるで狐の様な格好でお風呂場まで移動しなければならなかった。片足で跳び跳ねて移動するにはまだ、時間が掛かりそうだった。
「ケンケンでもいいですが、歩くにはやはり右足の代わりがあった方がいいでしょうね。」
藤森先生の言葉を思い出す。その後、
「松葉杖を今度持って来ましょう。それまで、少々我慢して頂けますか。」
と続けていた。右足の代わりだそうだ。僕はワクワクしながら、次の往診の日を待ち侘びた。
* * *
ケイ九郎は、一週間ごと、会うたびにできることを増やしていった。それはいつしか、俺にとっても楽しみのひとつになっていった。まるで家庭教師にでもなったような気持ちだった。そういう気持ちの変化は、”彼”を行き倒れて保護した赤の他人という立場から、大切な教え子のような存在に変えていった。
その日、自宅の診療所に注文した2本セットの松葉杖が届き、俺は中身の確認をしていた。ケイ九郎が立ち上がっているところを見た事はなかったが、寝姿を診た時に左足が割とがっちりしていたのを思い出し、念のため、長さの調節可能なものを注文しておいた。松葉杖に問題がないことを確認すると、再びケースにしまい、そのまま車の荷台に乗せに行った。
その年の秋が暑かっただけに、12月に入ると寒さが際立って感じた。吐く息の透明度が下がったのを確認すると、前回よりも厚手のコートを身につけて、ケイ九郎の検診をしに行くことにした。もっとも、最近はもう診ることも殆どなく、通常の健康診断のみとなっていた。今日はそれに松葉杖を渡し、使い方を説明するという目的が加わる。
あれは9月の3連休最終日だった。瞼と首しか動かせなかった”彼”は、3ヶ月経たないうちに左足だけでも直立姿勢をとれるようになっていた。順調すぎる回復ぶりに、その時の俺は嬉しさすら感じていた。
義父母の家の前のいつもの場所に車を駐車し、松葉杖の入ったケースを抱え、玄関戸の前に立った。