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償いの果てに  作者: 伊平愉音
経九郎記
1/9

はじまり

どうして私は生まれてきたのか。

どうして私は生きているのか。

そんなふうに悩みがちな人達へ、この物語りが届きますように。

僕は人間が好きだった。人間と共にありたいと、願っていた。

挿絵(By みてみん) 

 白い霧が立ち込めていた。その時の僕には、それはただ白い闇だった。僕はまるで、行く方向を見失った漂流物の様に、行き過ぎる白が僕の身体をすり抜けていくのを眺めているようだった。

 声を上げて風が吹き抜けた。

まるで、眠っている者を呼び起こすかの様に唸る。次の瞬間。

意識の隅で不思議な感覚を覚えていた。相当な衝撃が後ろから襲ったはずなのに何も感じなかった。身体と意識が別々の場所に存在しているようだった。

 暴風によって散らされた霧の後に広がったのは、青色の滑らかで暖かいモノだった。知っている。あれは空。それに空気。ひんやりと温かいを繰り返すそれは、ゆっくり時間をかけて僕の身体を膨らませていった。

 さわさわと、ささやく音が鳴るのを意識の片隅で聞いていた。


 やがて、身体の真ん中に何かの存在を感じ始めた。その動きにつられる様に、身体中で何かが波打つ様な音が聞こえる。それが何なのか解るはずもないその時の僕は、その正体を知る為にそこにあるモノたちの存在に集中していった。


 やがて、バラバラに蠢いていたモノたちがバランスを取り始めた。波打つリズムに合わせて身体に空気が出入りし始める。それはとても良い気持ちで、今度は、夢の中へ意識が吸い込まれていくのだった。


 大好物だった酒の香りが僕を包んでいた。捨てなければならなくなったその身体を、大切に弔ってくれた人達がいた。僕は彼らを騙していた。なのに。


*          *          *


「俺はこれをどうすればいいんだろう。」

妻の両親の元で保護する事になった、彼の診断結果を見つめながら、誰にも聞こえない声で唸る。


悪いようにはしたくない。だが、答えを決めかねていた。


 診療所を開けようとした時だった。妻の美樹が慌てて呼びに来るのを見て、何かあったかと尋ねると、妻の田舎の家で倒れている人を保護したと連絡があったと言う。開けようとしていた診療所の戸をもう一度施錠し、電話に出て詳しい話を聞いた後、俺はすぐに車を出した。聞けば、田んぼの真ん中で倒れていたその者は冷たく、意識が戻らないらしい。

「でも、瞼が動いているらしいの。」

電話で聞いた義母の言葉を思い出す。普通に考えて、ホームレスが食べ物を探していたが、ついに力尽きた。そんなところだろうか。聞いた様子では、俺はもう役に立たない可能性がある事を、覚悟しておいた方がいいかもしれないと思っていた。

 

 車から降りた俺を、蒼ざめた表情で義母の静江が出迎えてくれた。簡単に挨拶を済ませると件の人物の元へ案内された。

 第一印象は、まるで等身大のマネキンだった。電話で指示をした事は、既に義父母が済ませてくれていた。そのおかげで、余計に人形の様だと感じた。義父母の世話を抜きにしても、ホームレスが生き倒れたにしては綺麗な顔だ。本当に人形かと思ったが、触れてみると普通に健康な人の皮膚感をしていた。体温を除いて。

 首の脈が確認できない。やはり手遅れかと思いながら、かけられていた布団を剥ぎ、浴衣を着せられたその全身の様子を眺めた。すると直ぐに飛び込んできた。右脚があるはずの場所の浴衣が…。

 気を落ち着け、浴衣の合わせを開け、心臓のある辺りに手を置く。動ているのかいないのか分からない。心臓マッサージを何度かしてみる。聴診器を装着してもう一度、と思ったその時だった。


トクン


という、わずかな振動が伝わって来た。今、生まれた、そんな印象だった。止まっていた心臓が、心臓マッサージなどで再び動き出す事は良くある。だけど何かが違う、そんな感じがした。


 母体の中で、生命活動を始めた胎児の心音という表現が最も近い、そういう印象を受けていた。まさかと思いながら、それでも、心臓が動いているという事は助けられるという事だと思い直し、全身の検診を始めた。

 背中と後頭部に擦り傷が見られる。それらはどれも稲穂が擦れた後で間違いなかった。だが、なんだろう、傷口のどこにも血の滲んだ痕がない。それに筋肉がまるでゴムのようだ。それに体毛が一本も生えていない。眉も髪の毛も。だが、

「関節はちゃんと曲がるな。」

右足以外に不足している骨もないようだ。

 聞いていた通り、時折、瞼に覆われた目玉が動いている。夢を見ているのかと少し安心しつつ、最後に、右脚がついているはずだったその、根本を診ようと浴衣をめくる。

「始めから無かったようだ。」

とつい漏らすと、

「まあ、それが原因かしら。こんな事になったのは。」

と義母が言った。

「それも含めて、彼に色々、聞いてみないといけませんね。」

と、”彼”であることを確認し、検診を続けながら相槌を打つ。

 とりあえずの検診を終え、下半身の浴衣を整え直し、上半身も直そうと胸元に目を向けた。すると、ついさっきまで無かった血色を確認する。心臓を中心に、まるでたった今温泉が湧き出たように、彼の身体は体温を取り戻しつつあった。

 ひと安心だが、こんな現象は初めて見た。未確認の病気だろうか。念の為にもう一度心臓と肺のあたりに聴診器を当て、腕と左脚の筋肉、関節の様子を確認し、掛け布団をかけ直した。

「外側から見ただけなのでわかりませんが、体温が戻って来ているので、あとは目が覚めるのを待つしかありませんね。」

義父母のいる卓へ移動しながら言った。

「救急車を呼ばなかったのは、私と同じことを思ったからですか。」

と、なんとなく訊いてみる。すると、

「さあな。俺たちは医学に詳しくないんだが、見つけたときにな。」

と、義父が言った。

「お茶を入れるわ。」

と立ち上がった義母を見送って、

「左足が、畑に植わっていたんだ。あと、そこに立ててあった案山子が見当たらない。それと、抱えた時に、案山子を持ち上げていると錯覚しかけた。そんな馬鹿な事と思ったが、なんとなく病院に送ってはいけない気がした。」

義父母がそういう心の持ち主で本当に幸運だったと、横目で彼を眺めながら思った。病院に送っていたら、間違いなく学会の標本にされるところだっただろう。

 程なく、お茶を持って戻ってきた義母とともに、甘い匂いが漂ってきた。

「甘酒ですか。」

と聞くと、

「ええ。起きたときに飲んでもらおうと思って。テレビで点滴の代わりになるって言ってたから。」

と義母が言った。渡された湯気の立つお茶を一口含み、ひと息吐き出した。この二人なら任せて大丈夫だと改めて思い、知らないうちに入っていた肩の力を、お茶を含むごとに緩めていった。その時だった。

「あら。」

と、声をあげた義母の視線を追う。すると、”彼”の顔がこちらを向き、瞼の開いた目がこちらの様子を伺っていた。

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