時代はこんなところにも影を落とす
そんな僕の考えを読んだかのように、ヨウコは自分に都合の悪い話を元に戻した。
もしかすると、本当に読めるのかもしれないが。
「相当焦ってるね、向こうも」
僕の存在は、たぶん向こうには知られていない。岬さんだって話す義理もないだろうし、話したところで、金もヒマもない高校生など問題にもされないだろう。
それだけに、この話にはやっぱり触れてほしくなかった。
「ちょっと黙って」
言いはしたが、怒ってはいない。これも、いつものことだ。慣れてもいるし、この手のリアクションが実をいうと楽しみだったりもする。
だが、その邪な気持ちへの天罰はしっかりと、岬さんの口を借りて下った。
「ごめん」
「いや、君にじゃなくて」
笑顔で謝るのを、こっちも笑ってごまかした。だが、「仏の顔も日に三度」という。岬は僕にとっては特別の存在だけど、神でも仏でもない。再度の許しを期待してはいけなかった。
「邪魔してごめんね」
妄想キャラに対する、精一杯の気遣いのようだった。それは仕方がない。自分の気持ちを伝えられない僕には、相応の報いだ。
「ごめん、聞いてほしかっただけだから」
整理中の本棚が、あちこちでカタカタ鳴っている。閉館する館内から追われるかのよう、岬はふうわりと席を立った。
「いや、僕は別に」
足音も立てずに出ていこうとする彼女を呼び止めたが、聞こえていないのか、無視されたのか、閉まった自動ドアに行く手を阻まれた。
最後に見えたのは、彼女が手に持った『古文書解読』の表紙タイトルだけだった。容姿端麗、頭脳明晰な岬が持っていても不自然な本ではない。
不自然だったのは、僕がそれを拾って差し出した、あのときのリアクションだった。
見られてはいけないものを見せてしまったときのような……。
分厚い本を慌てて胸に抱えて背中を見せながら、ちらりと振り向いたのときの眼差しは、とても10代とは思えないほど色っぽかった。
絶対にそんな女の子じゃないのに僕をドキっとさせた、その姿はもう、記憶の中にしかない。
いや、岬さんの姿は、自動ドアが閉まった瞬間、幻のように消えていたのだった。
ただ、その向こうで廊下の奥から聞こえるドスンという音を除いて。
「残念でした」
からかうヨウコを睨んだが、その後ろには窓のカーテンを閉める司書のオバサンがいた。
「開きますよ、それ」
ぶっきらぼうな言葉通り、一応、ガラス扉には「ここに触れてください」と書いてある。
「ああ、すみません、知ってます」
頭を掻きながら答えはしたが、言われた通りにしても開くわけがないことは分かっていた。
机に戻って、鞄にノートやらシャーペンやらを放り込む。その手元を眺めながら、ヨウコは無責任なことを言う。
「女の子は、もっと大事に扱わなくちゃ」
それが岬さんのことを指しているのか、自分のことを指しているのかは分からない。だから、返事のしようがなかった。
代わりに、答えの分かりきったことを聞いてみる。
「また、逆転させたろ」
ヨウコは答えないで、自動ドアの前に立つ。触れてもいない扉が、勝手に開いた。
近くで書類を整理していた司書のお姉さんが驚いて振り向いたが、誤作動はどんな機械にでもあるものだ。だから問題にもならなかったようだが、実はこれ、種も仕掛けもあるトリックだ。
だから今度はこの自動ドア、なかなか閉まらない。俺はエレベーターの「開」ボタンを押してもらっている最後の利用者のように、その向こうへと駆け込んだ。
「めっ!」
自動ドアが閉まるのを背中で感じながら、俺はヨウコの頭を指で小突く。
「やってあげたんじゃない」
語るに落ちるというやつで、ムッとして見上げるヨウコは自分の仕業であることを白状していた。
このヨウコ、自動ドアのモーターでも何でも、回るものを逆転できるのだ。
「うるさい、全部オマエのせいだからな」
そんなわけで僕は、もう岬さんのいない廊下を別の女の子と2人で連れだって歩くことになった。
実をいうと、少し、ほっとしていたりもする。ヨウコをそばに置いたまま岬と話すのは、結構ストレスがたまるのだ。
だが、文句を言うのはヨウコのほうだ。
「何よ、ヒマつぶしもいいとこでしょ、自分の先祖がどこの誰かなんて調べるの」
「僕はともかく岬さんはね」
真剣なのだった。岬さんが自らのルーツを知ろうとするのは、いわゆる歴女の好奇心などではない。親に勝手なことを言って下宿までしている僕とは比べ物にならなかった。
「どうしたのよ」
「よく知らない」
彼女は自分のことをあまり話さない。だが、この半年でどうにか分かったのは、彼女には両親がいないらしいということだった。
「そりゃ、親類縁者の家で肩身狭いってのは分かるけど」
「それで充分じゃないか? 自分が何者か知りたいと思う動機は」
わっかんないなあ、とつぶやいたきり、ヨウコは何も言わなくなった。静かになったが、たぶん、それはこれからバイト先に行くまでのことだ。
こんなことがいつまで続くのかは分からない。分かっているのは、岬さんと二人きりになる機会はこの先、ないだろうということだけだった。
さらにその先は……。
廊下の突き当りの壁には、奨学生募集のポスターが貼ってある。
そこで微笑んでいるのは、戦車や戦艦や戦闘機をバックにした若い制服姿の男女だ。
ただし、彼らの顔には、拳を叩きつけたような痕が、かすかに見えていた。