いま、私、あの時の君に
社会人一年目スタート。
希望の広告代理店に就職が決まり、慌ただしい日を送っていた。
毎日顧客への挨拶回りでへとへとになり、帰宅後はそのままベッドに直行する事もしばしば。
もちろんうまく行った日は達成感に包まれて、ビールのひとつでも飲みたくなる。
でも最近はなかなか思うようにいかず、営業成績は横ばい状態だった。
なんで───
もっと頑張らないと。
焦っても成績につながらないのはわかってる。
けれど、私には何が足りないんだろう。
わからなかった。
先輩にアドバイスを求めても「とにかく頑張るしかないよ」と言われるだけだった。
辞めたい。
徐々にそう思い始めていた。
瞼を閉じる。
あれ?前にもこんな事あった。
あの時、私が立ち直れたのは、
どうしてだったっけ───
※
高校の文化祭が迫っている時期だった。
二年生で実行委員長になった私は、やる気のないメンバー達を前に、苛立ちを隠しきれずにいた。
スケジュール通りに進んでいない。
進捗状況をたずねても「やってるから大丈夫」とだけ言われ、追求すると、予定の半分程度しか終わっていなかった。
そのたびに溜息が漏れた。
先輩や先生に相談しても「がんばりなさい」「がんばってね」「がんばれ」と返ってくるばかりで、その言葉を聞くたびに、私はまだまだがんばらなきゃけない、とめげそうな気持ちを奮い立たせていた。
放課後、とりあえず委員たちは残って作業をしていたけれど、気まぐれで、一人帰り始めたら続けて席を立ち、私一人で作業する事もしばしばだった。
今日だってそうだ。
何で、私一人だけ。
校庭では運動部が活動を終え、すでに下校の態勢に入っている。
もうそんな時間……。
私も帰らなきゃ。
その時だった。
「あの」
突然の声に驚き、振り返ると、扉に見知らぬ男子生徒が佇んでいた。
見たところ一年生だろう。
「何か用?」
「いや、いつも遅くまでいるみたいなんで、何してるのかなって思って……」
「何って」
あきれた。
この時期にする事なんて文化祭の準備に決まってる。
教室を眺めてようやく気づいたようで、謎の一年生くんは、ピンときた表情を見せると、クイズの回答者のように答えた。
「もしかして文化祭の準備ですか?」
「はぁ…。君、ケンカ売ってる?実行委員じゃないからって他人事すぎない?」
すると急にずかずかと教室内に入り込んできた。
「えー!どこまで進んでるんですか?」
う、大きい。近づいてくると身長の差が目立つ。180センチはゆうに超えてるなこれは。
スケジュール表を手に取り、瞳をぱちくりさせている。
「ちょっと、何なの?」
「ぜんっぜん進んでないじゃないですか」
「う……」
何も言い返せない。
しかもよくわからない一年生に言われて余計に悔しかった。
頑張れ、私。頑張れ。頑張れ。頑張れ。
心の中で繰り返す。
「大変ですね、頑張って下さい」
ぎゅっと目をつぶる。
「そんなことわかって……」
言い返そうとしたその時。
「っていうか、もう頑張ってますよね。頑張りすぎるくらいに。だからもう頑張らないでください」
「え……」
頑張らないでください───
頭の中でリフレインする。
しばし言葉を失っていると「僕、谷口誠也って言います」と人懐っこそうな笑顔で名乗った。
「あ……私は北村美月」
慌てて自己紹介をする。
「てことは実行委員長!?」
スケジュール表や資料からそれを悟ったらしく、谷口くんは妙にハイテンションになった。
「そうだけど」
「じゃあ僕、副委員長になっていいですか!?」
「はっ?」
その勢いに押され、涙はいつの間にか乾いていた。
「僕、前の学校で文化祭の委員だったんですけど、結局その前に転校しなきゃならなくなって、不完全燃焼だったっていうか、結構落ち込んでたんですよ!!これはリベンジです!!神様がくれたチャンス!!」
ガッツポーズを決めた谷口くんは、私に口を挟む余地を全く与えず、早口でまくしたてた。
勢いは止まらない。
「何か文化祭の匂いは感じてたんですけど、転校してきたばっかりで出しゃばるのもなぁって思ってたんですよ僕。でももう我慢できません!この進み具合見ると、やる気ない人ばっかりなんですよねきっと!僕が入ったからには一気に進めますよ!!」
私があっけにとられていると、それに気づいて急に子犬みたいにしおらしくなって「だめですか?」と聞いてきた。
その瞬間、私は大声を出して笑ってしまった。
戸惑う"子犬"を前に、ひとしきり笑い終えた後「ありがとう!ありがとう!!」と、両肩に手を伸ばし、ぽんぽんと応えた。
そこからは順調だった。
彼は人の懐に入るのがうまいというのか調子がいいというのか、とにかく人心掌握術に長けていて、やる気のなかったメンバー達もいつの間にか谷口旋風に巻き込まれ、無事に当日を終える事ができた。
来年の文化祭も楽しみだね、なんて話していたのに、谷口くんは進級して再び、転校が決まった。
その知らせを知った時、私はひとつの後悔をしていた。
なぜ"好き"と伝えなかったのだろう。
たぶん、初めて会った日からずっと好きだった。
何もかも背負いこんで、追い詰められていた私の心をほぐしてくれた谷口くん。
「もう頑張ってますよね。頑張りすぎるくらいに。だからもう頑張らないでください」
そうだ。
あの言葉に私は助けられた。
目の前の霧が晴れたような気持ちで目を開ける。
あの時と同じ。私は頑張りすぎて空回りしているのかもしれない。
もう少しやってみよう。
肩の力を抜いて。
谷口くんのような、人心掌握術は持ち合わせていないけど。
ありがとう。
いま、私、あの時の君に伝えたい。