31話
「よいしょー」
テーカに踏みつけられ、何が起きたかも分からずバタバタと手足を動かして暴れる亀。
手足が地面をどれだけ擦っても動かないことで、とうとうなにかしらの力が上からかかっているのだろうと気づいた亀は、ソレが何か確認しようとムクムクと頭を伸ばしはじめた。
小さく出ていた頭は、にょきにょきと伸び、首元でたわんでシワシワになっていた皮が、どんどんツルツルになる程に伸びてゆく。ムクムクと伸び長くなった亀は頭を上へと伸ばし、まるでそそり立つようにして目を甲羅の上に向ける。そしてようやく女の足が自分を地面に押さえつけていることに気が付いた。
一度だらんと亀は頭の位置を下ろし、すぐに亀は頭を勢いよく足へと向けて振り伸ばす。
「あらあらー、イキがいいのねー。」
どこか嬉しそうに足に噛みつきに来た亀の頭を左手に持ったバックラーで防ぐテーカ。
つるつるとしたバックラーは亀の口を滑らせ、噛みつきは盾の表面を撫でるだけ。視界には盾しかなくなったが、その先に足があることを知っている亀は頭をぶんぶん動かし盾を追い払おうともがく。
そんな、そそり立つような亀の首の裏側をエリーは正面から見ていた。
「どーお? 叩けそうー?」
アグアグと開閉し続ける亀の口など、まるで興味もなさそうにテーカが視線を向ける。
だが、その向けられた視線の半分は、しっかりと亀に向けられていて油断のないことが伺い知れ、エリーは、そのテーカの堂々たる雰囲気に若干当てられながらも、コクリと一度だけ頷きムチを構えた。
「じゃーやってみてー。」
ニコリと微笑みながら促すテーカを見て、エリーは亀の頭へと視線を移動させる。
亀の頭はテーカのバックラーを撫でながらGRRRRRRRとうなり声をあげており、小型とはいえ、これまでにないモンスターの迫力を感じてしまい一度固唾を飲んだ。
そう。これまでは茸や虫のような物ばかりが相手だったが、今回は『モンスター』ということを改めて認識させるような意志ある敵で緊張してしまったのだ。
だが、そのモンスターもテーカがしっかりと押さえつけていて、さらに背中はルークが守っている。探索者としても上位にあるだろう二人による、これ以上ないサポートがあることを内心で再度反芻し、そして一度だけ息を勢いよく吹いて緊張を身体から追い出し、ムチを振るうことに集中する。
『大丈夫。私はできる。大丈夫。』
亀の頭の動きを見ながらジリジリと距離を詰め、アグアグと盾に夢中になる亀を確認し『いきます』と小さく口を動かすと、それを確認したテーカが軽く頷いて、エリーの鞭が動き出した。
ひゅうん
振り始めた途端にキャットオブナインテイルが風を切る音が鳴る。9本もあるボディはそれだけで迫力のある音を生み出すのだ。エリーがグリップを握る力を強め、手首のスナップを効かせた瞬間に音のトーンは、その高さを変える。
バシィッ!
腕の力に加え、遠心力が最高に乗った鞭のテールが最高速度で亀の首にぶち当たった。
9本もある『ふさ』が一つの音を奏で、突如楽器となった亀は、その動きの一切が止まる。
だが一拍の静寂の後、亀の頭はムクリと向きを変え、エリーと亀の目が合った。
見つめあう亀とエリー。
「GRRAAAA!」
「ひゃあっ!」
『なにすんじゃおどりゃあ!』とでも言わんばかりの亀は頭をぶんぶんとエリーに向けて振り回し始め、さらにカチッカチッ!っとその口を鳴らして威嚇する。エリーはその亀の勢いに驚き一歩後ずさってしまう。
よくよく見れば手足もエリーに向けて移動しようとバタバタと足掻いている。だが、まったく亀はその場から動けていない。
「だーいじょーぶーよー。私が押さえてるからー。」
「は、はいっ!」
やがて亀はやはり自分を踏みつけている足が邪魔だと、その踏みつけている足に視線を向ける。亀の視線が外れたことで少し落ち着いたエリーは、またジリジリと距離を詰め、ムチを振るう準備をするのだった――
ムチを振るっては亀に威嚇され驚くエリー。
そんな姿を周りに気を配りながらも遠巻きに観察していたルークは、エリーの緊張が最初の一撃以降、徐々に取れ始めているのを感じ取り、こっそりとテーカに向けて『しばらくそのまま様子見で』と簡易なジェスチャーで伝えると、亀、エリー、そしてルークを視界に収めていたテーカが軽くウィンクと笑顔で答えてきた。
亀を踏みつけながらも、どこかお茶目さを忘れない妻の姿。豪胆なのか可愛らしいのか若干の混乱が生まれるが、更に今は、そんな妻が踏みつける亀に年端もいかない少女がチラリチラリと瞬間的に肌を晒しては鞭うっているのだから、ルークはどう反応したものか迷い、苦笑いとも照れ笑いとも取れない、何とも言い難い笑顔を返すことしかできないのだった。
『あれ?』
そんなテーカとルークのやり取りに気づくことなく、亀のモンスターを鞭で叩き始めて20回も超えただろう頃、エリーは、これまで『なにすんじゃおどりゃあ!』と言わんばかりだった亀の反応が『なにすんじゃあ……おどりゃあ!』と感じるような微かな変化があったことに気がついた。
『そうだった! ベスさんの教えてくれたように、ちゃんとよく見なきゃ!』
キャットオブナインテイルの持ち主であり、鞭について教えてくれた恩人のベスは言っていた。
『大事なのは『会話』だよ。もちろん言葉を聞くんじゃない。しっかりと見る。観察するのさ』と。
もう大分、亀の頭の動きにも慣れてきているし最初程の緊張もない。テーカの踏みつけはどれだけの時間が経ってもビクともしない万力のような頼もしさすらある。
「そう……会話……ちゃんと聞かなきゃ……見なきゃ!」
声に出して自分に言い聞かせ、そしてまた鞭を振るう。
若干踏み続けることに飽き始めていたテーカは雰囲気の変化を敏感に感じ取る。
鞭の動きや亀へのダメージから少し期待外れかと残念な気持ちになりかけていたが、雰囲気が変わったことで改めて興味を惹かれはじめていた。
「GRAA……AAAA!」
「はぁ?」
バシィッ!
亀のモンスターの唸り声に対して、これまでと違い怯みを一切見せずに鞭を振るうエリー。
むしろ『どうした?』とでも言わんばかりに挑発的な声まで返している。
些細な変化だと思った次の瞬間に、大きく変化していたことにテーカは驚きを隠せなかった。
「GRAAAAAA!」
「なぁにっ?」
バシィッ!
「GR…A……AAAA!」
「きこえなーい!」
バシィッ!
だんだんと大きくなるエリーの声、そして変わってゆく雰囲気。
鞭の振るわれる力までも変わっているように感じ、その鞭の動きに、そし鞭を振るうエリーの姿に目が惹きつけられ始める。
「なに? ねぇ、何が言いたいの?」
「GRR……」
ひゅんひゅんと鞭を回し風切音が鳴る。
「もっと聞かせてよ!」
バシィッ!
「RAAAAA!」
いつの間にか主導権がエリーへと渡り、亀は威嚇する隙すらなくなったのか鞭を浴びては後手後手に声を漏らしている。
「あぁ……そう……わかっちゃった。ここね?」
バシィッ!
「AAAAA!」
「ここにムチを打って欲しいのね?」
バシィッ!
「AAAAAN!」
どこか嬉しさを孕んだエリーの声、そしてさっきまでとはまるで違う鳴き声を上げ始めた亀。
よくよく見れば亀の頭がムクムクと大きくなり始めている気までする。突然起こり始めた変化にテーカの亀を踏みつける力もいつの間にか増し始める。
「やっぱり……やっぱりそうなんだ……ふふ、分かる。分かるわぅ!」
バシィッ!
「PYAAAAN!」
「ここっ!」
バシィッ!
「PYAAAOO!」
「ここがっ!」
バシィッ!
「PYAOOOO!」
「いいのねっ!」
ムクムク、ムクムクムクと、ムクムクしてゆく亀の頭。
その変化にエリーの喜色も亀の頭と比例するように大きくなってゆく。
「PYAAAN……」
やがて亀は途切れ途切れとでも言わんばかりの、まるで懇願でもするかのような鳴き声を上げ始めていた。その声を耳にしたエリーは、頬を紅潮させながらも嬉しそうにキャットオブナインテイルを両手で引っ張り一度、空中で鳴らす。
パシンと響いた音で、亀の頭はビクビクと震えながらもプルプルと震え天に向けてそそり立つように固まる。
「そう……もう限界なのね……」
「PYAAAN…PYAAAN……」
天に向けてそそり立ち、膨れ上がった頭を支えるように微動だにしない亀の頭に問いかけるエリーと、その問いかけに応えるかのように鳴き声を上げる亀。
エリーは優し気な笑みを浮かべる。
だが、その笑みは一瞬で勝者の笑みへと変化した。
「これで最後よ!」
「AOOOONっ!」
鞭の響きと、亀の断末魔がダンジョンに響き渡った。
1拍……2拍と、ただ静寂が訪れる。
だが次の瞬間、地面からそそり立つように膨らんでいた亀の首、亀の頭が激しく痙攣しはじめた。手足もこれまでにない暴れっぷりだ。
「な、なにっ!?」
この異常事態になり、いつの間にかエリーの鞭裁きに心奪われていたテーカが我に返り、そして同じように魅入られていたルークもまた気を取り戻して動き出す。
「テーカ! エリーの守りは任せろ! 君は自分のことを!」
「わかったわっ!」
「は、はれっ?」
瞬間的に全てに対処できそうな頼もしさを取り戻した二人と、そしてまったく対照的に頼もしさのかけらが微塵もなく消え去るエリー。
三者三様の様相を呈しながら、亀の震えは最高潮に向けて、その激しさを増しガクガクブルブルと激しく亀の頭は動き膨らみ続ける。
次の瞬間、その震えが止まった。
そして亀の頭はだらんと横に倒れた。
既にテーカは押さえるのを止めて距離を取り、ルークもエリーをかばいながら距離を取っている。熟練者2人は何が起きても対処できるよう気を漲らせている。
びゅるばぁっ!
「はっ!?」
「へっ!?」
「ふあぁっ!?」
亀の口から何かが出た。
だが攻撃でもない。
ただ亀から びゅりゅっ びゅるりゅっ と、出てくるだけ。
3人があっけにとられていると、やがて亀のモンスターは全ての液体を吐き出し終えたのか、スッキリしたように、その顔を上げた。
その亀の目は慈愛に満ち、まるで『仲間になりたそうにこちらを見ている』とでも言わんばかりの顔だった。
亀の頭です。
出てきているのは亀の頭です。