25話
狂乱におけるダメージを一切負わなかったエリー。
それは酔って記憶を無くすという本来であれば注意すべき体質のなせる技だった。
だが通常酔って記憶を無くす人という存在は『稀』である。
ダンジョンの出口の広場、買取り窓口の前の屋台の机の一つ。
そこに両肘を乗せた男が3人居た。
両手で顔を覆い隠しピクリとも動かないトミー。
ただ下を向きピクリとも動かないボブ。
右手で額を押さえ、これまたピクリとも動かない先輩。
3人の様子から分かる事は、全員が全員、深い悔恨、何かしらの無念に思い悩んでいることだけ。
つまり盛大に歓喜の鳴き声を上げた事をハッキリと、その脳に刻んでいるであろうことが分かった。
まるで彫刻のように固まったままの3人。
時折動いたかと思えば、深く強い溜め息を漏らし同じポーズに戻るだけ。
皆、自身が無意識に押し殺していた本心を知った事であったり、未知の性癖が発露したことであったり、見知った者にその発露した性癖を知られた事のトリプルパンチで心の整理がつかないのだ。
1人になりたい気持ちもあるが、不本意ながらも同じような行いをし、互いの痴態の記憶を共有している3人。
皆若く、殊更『恥』という事に厳しい考えを持っているからこそ、どんどん動けなくなっていた。
ことトミーに至っては、幼馴染に対する気持ちが恋慕であるのか肉欲であるのか、それともそのどちらでもあるのかもしれないという迷い。
それに、ソレアに対して大見得を切って出向いたにも関わらず、ただ幼馴染に鞭打たれ、さしたる報酬や手柄もなく帰投したという気恥ずかしさ。様々な思いが帰りたくないという気持ちに拍車をかけている。
「……とりあえず……一旦忘れよう。」
それぞれが思考の海に溺れる中、最初に動いたのは年の功か先輩だった。
ボブとトミーが顔を上げると先輩の顔は前を向いていた。
「……あの階層の茸は『酔いどれ茸』と言われている。体当たり等で、まともに香りを吸いこんでしまうと酔ってしまうからだ。」
そこまで2人を見るでもなく、ただ前を見て喋っていた先輩が視線を2人へと向ける。
「……今回は異常事態だった。あの階層であそこまで香りが充満していた事など俺は経験したことが無い。話に聞いた事も無かった。だからアクシデントだ。事故だ。だから俺達も綺麗に忘れよう。」
「むう……そうだ……な。」
先輩の言葉に、なんとか区切りをつけたのかボブも前を向く。
だがトミーは悔しそうに再度下に向き直った。
その様子に眉をしかめながらボブはトミーに向き直る。
「むう……トミーよ。起きてしまった過去を変えることはできないだ……ろう?」
トミーはボブを見る。
するとその瞬間、脳裏に『ぼ、ぼ、ぼ、ぼくは、エリーのおっぱいを吸いたいんだな。そ、そ、そりゃあ、ちゅうちゅう吸いたいんだな。』と、まごつきながら口をすぼめたボブの姿が浮かび上がる。
今の堂々とした姿との、あまりの落差。
現実逃避をしたい気持ちが見せたのだろう記憶に思わず笑いそうになってしまう。だが即時間違っても笑わないように下唇を噛んで下を向く。
そんなトミーの様子をなにか勘違いしたのか、ボブはため息を一つ漏らしながらトミーの肩にポンと手を置いた。
「飲みこんで進むしか……ない。」
『おっぱいをか?』
と、勝手に脳内のもう一人の自分がツッコミを入れ現実逃避を加速させようとする。
あまりの落差からこみあげてくる笑い。そしてエリーが絡んでいる事によるもやもやした気持ち。
それらを堪えようと下唇を噛む歯に力が増す。ボブとはいい友人でありたいという気持ちがあるからだ。
そんなトミーを見て先輩も溜め息を一つついて立ち上がる。
「……今日はもう帰って休もう。寝て起きれば大抵の事は、どうとでもなっているものだ。」
「うむ……そうだ……な。」
動き出した先輩の後を追うように立ち上がるボブ。
一刻も早くこの場から去って欲しい気持ちが芽生えていたトミーは『散れ』と言わんばかりに視線を合わさずに、手を動かしてボブに意思を伝える。
その動きを見たボブは再度軽くため息を吐きだし、そして去っていった。
完全にボブが去ったのを見届けてからトミーは大きく息を吐き出す。そして頭を押さえて呟いた。
「…………あっぶなかった。」
軽く現実逃避をしたせいか幾分か心は軽くなっていた。
顔を起こし、首を左右に倒して一度コキリと関節を鳴らす。
「確かに……一度寝れば気分も変わるかもな。」
情報は常に一定の価値がある。
だからこそ『12階層で大きな異常があった』という報告でも、ある種の成果といえる。
そう自分に言い訳して立ち上がり、エスデス家へと帰投を始めるトミーだった。
--*--*--
エスデス家の一室。
ほう……と小さく溜め息をつく少女。
気もそぞろに目が右へ左へと動き、その様子はまるで何かを探しているよう。
部屋の隅に控えるメイドは、これまでに見たことが無い主人の様子に小さな違和感を感じ取っていた。
ふと中空を見て止まり、やがて目を伏せ小さく息を吐く。
そんな動きを見せるのはソレア・エスデス。トミーの雇用主その人だった。
彼女の心を乱していたのは、これまでに感じたことのない気持ち。
そしてその気持ちの中心にあるのはトミーの姿だった。
これまで考えたことも無かった探索者という名のペットの安否が気にかかって仕方が無いソレア。
もしトミーが怪我をしたらと思うと何故だか心に影が忍び寄り、言い知れぬ不安が襲ってくる。
普通の女子であれば、それが恋慕の情によるものであることに気づけただろう。
だけれどもソレアはソレアである。この気持ちが自身の活路を開くだろう成果を求め急く気持ち、そして起死回生の成果を上げる期待の気持ちのせいだと考えてしまう。
待ち焦がれるという意味においては同じような心情だから、それも仕方のない事かもしれない。
ソレアがまた、ほうと息を吐いたその時、部屋をノックする音が響いた。
ドアに目を向ければメイドがドアに向かい報告に来たメイドと何やら言葉を交わしている。
「なにかあった?」
なぜか焦れる気持ちから言葉がささくれ立つ。
言葉の棘に慌てたメイドは楚々とした振る舞いを必死に忘れないようにしながら急ぎ足で報告の為に近づいてくる。
「失礼いたします。新しく入った探索者のトミーが、先ほど戻ったとの事でした。」
「そう。」
報告に対して食い気味に漏れた声。
ソレア自身が自分の行動に違和感を感じてしまう行動。そして声のトーンだった。
だけれどもそんな事を気にするよりも早く詳細を聞きたい気持ちが生まれ、メイドに言葉を続けるよう促す。
「報告によりますと12階層で『酔いどれ茸』による異常事態が起きていたとの事でした。」
「大丈夫だったの!?」
またも食い気味に漏れ出る声。
再度自分自身に対する違和感でソレアは戸惑う。
メイドもまたこれまでのソレアらしからぬ行動と言葉に戸惑ってしまう。
「は、はい。えぇと、通路に充満する香りにより複数の探索者達と共に酩酊状態になった為、その場に居た全員の意見の一致により一時帰投を決めたとの事でした。また明日潜るとの事です。」
「……何ですって?」
自分でも想像していなかった程に起きる心の動揺に、つい立ち上がる。
もう隠せなくなった自身の戸惑い。そして動揺。
メイドの泳ぐ目を見て自分がどう見られているかを察したソレアは扇子を取り出して開き、口元を隠して一度自分を落ち着ける。
だけれどもトミーの事が気になって仕方が無かった。
「異常事態……気になるわね。いいでしょう。私が直接聞きに行くわ。」
「お、お嬢様っ!?」
扇子を閉じて歩き始めたソレアの後に慌てて続くメイド。
やがて前を向くソレアの視界に入る所まで追いついたメイドが口を開く。
「お嬢様! こんな時間に男の探索者の部屋を訪ねる等おやめください! あらぬ誤解を生んでしまいますよっ!」
「あら? 当主の娘たる私が家のどこを歩こうが自由でしょう? それに子飼いの新人探索者が異常事態に遭遇して酩酊したというのを見舞うだけのはず。慈悲深さを称えられこそすれ下衆の勘繰りのような事になるはずもないわ。
それとも……私がそんな間違いを犯すような女だと思われているのかしら? そうであれば、それは別の問題よね? まさかお前はそう思うと?」
「め、滅相もございません。」
「でしょう? もしそのような勘繰りをするような下衆は……エスデス家に相応しくはないでしょうからね。」
「……仰る通りです。」
以降、ただ口を噤み静かに後に続くメイド。
やがてソレアはトミーの部屋の前へと辿りつき、すぐにメイドがドアをノックする。
しかし反応が無い。
一度ソレアに目を向けたメイドは、すぐさまドアに向き直り、先よりも強い音でノックをした。
だが反応が無い。
「開けなさい。」
「はい。」
ソレアの言葉にマスターキーだろう鍵を取り出し開くメイド。
ゆっくりとドアを開くと、暗い部屋に廊下の明かりが線となって差し込まれてゆく。
そしてその明かりがベッドの膨らみを知らせた。
ベッドにかけられた布団はゆっくりと上下しており、中に呼吸をする人が居る。それを見たメイドは、その呼吸をしている人が眠っているのではという思いになり、一度、後ろにいる主人に目を向けて、その表情を確認した。
その表情を確認して即、眠っている人間への気遣いを無視する事を決めたメイドは大きくドアを開き、主人が部屋に入れるよう、メイドはただのドアストッパーへと変身した。
ソレアは、なぜか胸が高鳴った。
そして部屋に入りたいのに足が勝手に二の足を踏んで動きださない。
だがこのまま立ち止まっていれば、メイドに怪しまれるかもしれない侮られるかもしれないという気持ちが背筋を伸ばさせる。
扇子を広げ口元を隠し、そして一歩進む。
「まぁ……まるで家畜小屋のような臭いね。」
大きく息を吸い込み、2度深呼吸をする。
トミーの部屋はトミーの防具や服に染みこんでいた臭いに満たされていたのだ。鼻の良いソレアには十分に異質な臭いだった。
だが本当に言葉の通りに思っていたとすれば、深呼吸などするはずもない。
足を進めベッドの前へと進むと、トミーの寝顔が目に入った。
その顔を見て、突如、頬の紅潮と熱が自身でも理解できてしまう。これでは扇子を片付ける事などできそうにない。
しばらく扇子をそのままに固まり、寝顔を見ていて気付いた。
「トミー?」
出した声が裏返っていた。
「ん、コホン」
慌てて一度咳払いをする。
「トミー……あなた起きているんでしょう? 眠ったふりは止めなさい。それとも、身体を悪くしたのかしら?」
ソレアの声に諦めたように目を開き半身を起こすトミー。 その表情は『面倒臭い』という心情を滲ませていた。流石のソレアも、そんな心情を感じ取れば眉も歪む。
「あのねぇトミー、貴方私との立場の差を理解しているの?」
半ば呆れから出る本音。
「あぁ。分かっている。」
すぐの返答に、絶対に理解していない事を理解するソレア。
流石にこの態度には頬の熱も少し冷めてしまう。
冷めたおかげでソレアの左手に収まった扇子がパチンと音を鳴る。
「分かっているのであれば寝たふりなんて二度としない事ね……それで酩酊と聞いたけれど?」
コクリと頷くトミー。
喋るとボロが出るとでも考えたのか、口を噤む事にしたようだ。
「わざわざ聞きに来て上げたのだから報告くらいなさい。」
目を伏せるトミー。
エリーを見つけ、エムネン家の当主達の所に近づいた等、先の失態からして言って良い事ではないだろう。
それに同じく酩酊したシコルスキー家の事もだ。三つ巴の3家に関わってしまったとなれば、また大変な事になるかもしれない。
さらに酩酊状態でエリーに鞭打たれ快楽に溺れたなど、ソレアに報告できるはずもない。
だから口を噤む事しかできなかったのだ。
だが、その事を知らないソレアにしてみれば、自身がわざわざ足を運んで労をねぎらってやろうと言うのに報告すらする気が無い様子。
まるで『今、お前と話す事なんて無い』とでも言われたような気がしてくる。
ソレアが普通の状態であり、普通の心境であったならば余裕をもって対応できただろう。だが今のソレアは、自身でも分からぬ感情が大きく心を占め、感情の振り幅が異常になっていた。
心配に押されて、不名誉な誹りを受けるかもしれないのも押して見舞いに来てみれば、さも迷惑そうな顔。感情が一気に動いた。
「――っ!」
そしてその感情は行動へと変わって現れてしまう。
気が付けば扇子がトミーの頬を打ちぬいていた。
ドアストッパーとなっていたメイドは目を背ける。
ソレアは、自分の右手がまるで自分の物ではないかのように困惑した。
トミーは驚きつつも、仕方がないという気持ちがどこかで生まれていた。
打つ音が静まると、静寂が訪れた。
口を開く者は無かった。
「きょ、きょ、今日は…………これまでにしておくわ!」
意思と感情がバラバラなように混乱したソレアがそう発して、そして踵を返し出ていった。
ドアが閉じ、明かりが無くなった事で、ほうと一息つくトミー。
そして打たれた頬をそっと撫でる。
ジンジンとした痛みが手を合わせる事で和らぐような気がした。
ボスっと横になる。
「……やっぱ痛ぇだけだよな。」
溜息を一つ漏らし、ジンジンと痛む頬を摩る。
モンモンとした思考の渦の中、過ぎてゆく時。
やがて深夜を回った頃、むくむくとキノコが大きくなり始めるのだった。