09.となり
お付き合い。
…という関係になって一週間が過ぎた。
「じゃあね。また、明日」
自分を抱きしめた次の日から、別れを惜しむように、ぎゅうと自分の手を両手で握り締め、真っ直ぐ見つめてから実家へ帰る朝陽。
そんな彼を見上げて、綾菜は恥ずかしげに頬を染めて頷いた。
夕日を背に朝陽は家路を行く。時折、振り向いて。
その姿が見えなくなるまで綾菜はその場から動かずに見送り、まだほんのりと暖かい自分の手のひらを、温もりが消えてしまわないよう硬く握る。
いつもはそんな彼女に声を掛ける人間はいなかったのだが、今日は違った。
「綾菜」
「はぁい」
母に呼ばれ、綾菜はここで初めて振り向く。朝陽の姿はもうすでに見えない。
「あなたは見送るだけなの?」
「え?」
問いかけられた言葉の意味が分からず、綾菜は母へ向き直って首を傾げた。
彼女の母は手に持つホウキで長椅子の周囲を掃きだし、その手を止めないまま続ける。
「自分から、朝陽さまの屋敷へ行ってみたら?」
「…」
「まあ、あなたの気持ちも分からないでもないけどね。朝陽さまはお武家さま。うちのような平民と本当ならば、関わることさえないし…」
「……」
無言で、綾菜は母の動かす手を見つめた。
そんなこと自分で分かってるから。
言葉にされると、胸の奥がずきりと痛む。
手を再び握り締めている娘をちらりと一瞥し、彼女の母は娘に気づかれないように、ふうと息をついた。
自分の娘ながら、綾菜は気立てのいい子だと母は思っている。けれど、いつもならこうして片付けをしていると、代わりにするからと言い出してくる娘が、朝陽が関わるとどうにも気がそぞろ。
仕事の合間も、朝陽がいると目線が彼のほうへと動いてしまう。
まあ、年頃だし、好きな相手であれば仕方ないとも思っているのだけれど。
だからこそ。
「綾菜、朝陽さまの隣にいたいのなら、あなたも努力しなくちゃ」
「…ぅん」
「ありがたいことに、朝陽さまは綾菜が好きと言ってくれてるのでしょ? 夕方とはいえ公衆の面前で抱きしめるほど、はっきりとした態度で示してくれているのだから…あなたもね?」
言われ、先日の抱擁を思い出した綾菜の頬が、ぼおおお、と一気に染まった。
耳どころか、捲りあげてあるために露出した細い腕まで赤い。
それが夕日のせい、と言われればそれまでなほどの紅色。
その状態でようやく思い出したかのように綾菜は母からホウキを受け取り、長椅子の周囲を掃き出す。幾つか食べ終えたあとに落としたと思われる串を拾うと、台所のある奥へ戻る母に手渡しつつ呟く。
「分かっては、いるの…」
「うん」
「朝陽さまの気持ちは、全然疑っていないの。でも、今の状況が夢かもしれないとも思ってしまうの…」
朝陽は、武家。綾菜は、平民出の商人。身分は違いすぎる。
一緒にいられること事態が奇跡のようなものだし、付き合うという関係になれるとは思ってもいなかったから、まだ現実味が湧かない。
不安そうに呟く綾菜に、母はくすりと笑って肩を軽く叩く。
驚いて綾菜が隣の母を見つめてきた目を見返し、母は微笑んだ。
「じゃあ、明日、朝陽さまの屋敷を訪ねてみてごらん? 迎えに来た、とでも言えばいいわ」
「え、でも…」
「とっても喜ぶから」
満面笑顔で喜ぶ、と聞かされると、やはり好きな相手のそんな顔は見たいわけで。
綾菜は頷いて、決意する。
明日は先回りで朝陽を彼の屋敷前で待ってみよう、と。
そうしてこの日は静かに夜は更けていき…明けて次の日。
「…」
緊張した表情で、通りを歩く綾菜の姿があった。
屋敷は町外れ。それでも、みくまり様の祠がある山への道の途中であるし、場所はよく知っている。
この前、つい覗き込んでしまった屋敷。
今日は当たり前だが覗き込んだりはせず、入り口で朝陽を待つ。
人の通りが多くなり、朝陽がいつもやってくる時間の少し前に、綾菜は屋敷前へとたどり着いた。近くに川があるためか、せせらぎが微かに聞こえてくるが、それは森の木々が風に吹かれて奏でるざわめきが静まったときだけだ。
大きな門前で所在なく綾菜が佇んでいると、屋敷の内側から声がして、人が出てきた。その姿に、綾菜はどきりとして身を強張らせる。
現れたのは朝陽の許婚だと言っていた、夕顔だった。相変わらず綺麗で上等な袖を身に着け、しゃらんと涼しげなかんざしの音を響かせる。
「あら…」
綾菜の存在に気づいたらしい。目を留めたと同時に足も止め、彼女は付き人である老婆へ何やら話しかけた。それに逐一頷いていた老婆は、ふいと顔を背けた夕顔の隣から綾菜のほうへと進んできて。
「朝陽様は渡しません、と夕顔さまが申しております」
掠れた声で、そう告げた。
渡さない、ということは、まだ許婚という間柄に変わりはないということ。
ちくり、と綾菜の胸が痛む。存在を認めてもらっただけではまだまだ、遠い。
隣にいるためには、やはりもっと努力をしなければ。
母に背を押されて初めて動くなんて情けないことこの上ないけれど。
綾菜は唇をぎゅっと噛んで、ばくばくと跳ねる心臓を呼吸して落ち着かせると、老婆ではなく夕顔へはっきりと言い切った。
「あたしも…渡しません」
たった一言そう言っただけなのに、震えが止まらない。喉は渇いて、声が張り付いてしまいそうな感覚になる。
誰かに対して言い返すだとか、誰かと対立するだとか、温和な性格もあって一度として経験のなかった綾菜はこれ以上言われたら返す言葉を見つけられない。
逆に、言い返された夕顔はというと、反抗してくる相手など今まで存在しなかったのか、綾菜を憎々しげに睨みつけて口を開きかけたが。
彼女が何かを言う前に、屋敷の中から人の声がした。
その声の主は、姿を見ずとも綾菜は分かる。
朝陽だ。
「いつまでもここで何を…」
最初は綾菜の姿に気づかなかったらしく、彼は門のすぐそばに立つ夕顔へ話しかけた。けれど屋敷の門前へたどり着くとすぐに、綾菜を見つけ。
まるで宝物でも見つけたかのように目を輝かせて、綾菜へ駆け寄った。
「わ、綾菜さん! どうしたの、何かあった? あ、もしかして、オレを迎えに来たとか!」
自分で言いながら「違うと思うけど!」と照れる朝陽に、彼女は頬を染めて首を振り、乾いている喉で声を振り絞って言う。
「ほんとに、迎えに、来たんです」
先ほどよりもずっと緊張した声で綾菜は、彼の言葉を肯定するため頷く。
聞いた直後、ぴくりとも動かなくなった朝陽。けれど、まるで夕日に照らされたかのように一気に赤くなって「嘘、ほんとなの?」と動揺しつつ繰り返し聞く。
「ほんと、です」
そのたびに、綾菜が肯定するから、本当なのだとようやく実感したらしい。
赤い顔のまま、表情を崩した。
「うっわ…めちゃくちゃ嬉しい……」
本当に喜んだ。
迎えに来ただけなのに。
母の言うとおりだ、と綾菜は頭の端で考えて朝陽を見上げる。
目の前で嬉しそうに笑い、ほんのりと顔を赤く染めるものだから。
「…………ぃえ、その、来ただけ、ですから…」
釣られたように頬を染め、綾菜は俯く。
だが、朝陽は本当に嬉しいようで「来てくれただけでも嬉しいんだよ!」と強く言いきって。
その場で二人の様子を冷ややかな目で見ていた許婚の夕顔へ、視線を向けた。
「帰らないんだ?」
「……っ!」
問いかけに夕顔は唇を噛んで踵を返すと、歩き出す。良家のお嬢様がどすどすと足音を立てて歩くことなど有り得ないため音は聞こえなかったが、悔しくて腹立たしいという感情が背中からも見て取れるほど夕顔は勢いよく通りを歩いていく。
その後ろを慌てた様子で付き人の老婆が必至に追いかけていくので、そんな二人を見送り、朝陽は改めて自分の目の前にいる綾菜を見つめた…が照れくさい綾菜は少しばかり視線を外す。
「迎え、ありがとね。ほんと、嘘でも冗談でもなく、嬉しい」
こくん、と綾菜は小さく頷く。赤い顔で。
「ね、今日も仕事だよね?」
こくんと再び頷く綾菜を見て、「よし」と何故か気合を入れた朝陽を彼女は見上げた。
視線がばちりと合う。
真っ直ぐ見つめる瞳がくすぐったい。
「何で? とか思ったでしょ?」
「は、はい」
「オレ、今から店に行こうかなーって思って出てきたとこ。だったらさ、一緒に店まで並んで行けるでしょ? 待っててくれるのもすっごい嬉しいけど、こんな感じも良いよね」
にこにこと朝陽は心底幸せそうに言って、綾菜の手を取った。
ぎゅうと握り締める朝陽を見上げたあと、彼女は照れながらも握り返す。
そうして、二人並んで通りを歩く。手を繋いだまま。
「たまにさ、こうして歩かない? 綾菜さんが嫌じゃなければ、だけど」
「い、嫌なんて思いません…!」
すぐに否定したからか、朝陽は目を丸くしたあと、にっこり微笑む。
「良かった」
心底安堵した表情で呟く言葉に、綾菜は照れつつも笑みを返して。
強く、彼女から、手を握りしめる。
その行動に先ほどより驚いた顔をした朝陽だったけれど、幸せそうに目を細め、何故か足を止めると綾菜のほうへ顔を近づけてくるから。
「!?」
は、と綾菜が身を硬くすると、彼の顔が綾菜の耳元で止まって、囁いた。
「オレの隣には、綾菜さんがいてほしいんだ。これからも」
綾菜が、はい、と答えるより先に、朝陽は顔を離すなり、くすくす笑いながら問いかける。
「今、何されると思ったの?」
「べ、別に、何も…」
意地悪な質問に赤い顔でしどろもどろと綾菜が返答に困っているのを、朝陽は満面の笑みで見て。
困りつつもこうして手を離さず隣にいてくれる綾菜へ「ありがと」とお礼を言いながら、引き寄せて抱きしめたいのをぐっと我慢して、彼女の小さな手をしっかりと握る。
綾菜もまた、握り返してくれたから。
二人で顔を見合わせて、微笑みあった。